【第35話】潮と提灯
門を抜けた瞬間、潮の匂いが、鼻の奥まで押し寄せてきた。
湿った風が頬に張りつく。足の下は岩を組んだ小島の船着き場で、目の前には灰色がかった青の海が、うねりながらどこまでも広がっていた。振り返れば、門の枠のすぐ後ろに、杉の緑が黒いほど濃い山影。空は薄曇りで、遠くで海鳥が鳴いている。
乾いた草原のアルディアとは、なにもかもが逆だった。あっちが乾いた布なら、こっちは絞る前の布巾だ。息を吸うだけで、肺まで湿る。
「……ひろい」
ノアが、海を見たまま動かなくなった。ノアの故郷のエルメアに海があったのかは、聞かなかった。刈られた星の世界の話を、この目の前で掘り返す気にはなれなかった。あの目は、初めて見るものの目だった。
「うおお、でけえ! メグル、あれ全部、水か!?」
「全部水だ。飲むなよ、しょっぱいぞ」
フィムは門を抜けた瞬間から省エネモードで、胸ポケットの中から「ボクのことは……荷物だと思って……」と薄い声だけ寄越した。都市の外は、あの妖精には燃費が悪い。
小島の入り江には、商会の船が三艘、帆を畳んで待っていた。俺たちの護衛対象だ。門をくぐってきた荷が、人足の手で次々に積み込まれていく。
その先頭の船の艫から、しわがれた声が降ってきた。
「渡り手かい。遅いよ。潮が変わっちまう」
膝丈の藍の着物に、腰に煙管。日に灼けた小さな老婆が、櫓の脇に立っていた。顔のしわの奥で、目だけがやたらと若い。
「水先案内のトメ様です」と、商会の頭が耳打ちしてきた。「この海峡の生き字引でして。逆らわんでください。船が出ません」
俺は挨拶のつもりで、頭を下げた。
「護衛を請けました。空木廻です。よろしくお願いします」
瞬間、煙管の雁首が、こつんと俺の脛を打った。
「馬鹿もんが」
「え」
「名ぁ大事にしな、若いの。ここじゃ名は、懐の底の底に仕舞うもんだ。往来で財布を開いて中身を振り回す馬鹿が、どこにいるんだい」
「は、はあ」
「よそもんは、それだから困る」
本気の目だった。冗談でも、脅しでもない。子どもが火に手を突っ込むのを見た大人の目だ。俺は財布を、じゃない、名前を、そっと懐に仕舞い直した気分で首をすくめた。
■
船が出ると、トメ婆さんは櫓に寄りかかったまま、講釈をくれた。
「いいかい。この島々じゃ、言葉ってのは力だ。中でも真の名は、人の芯そのものさ。だから皆、名は仕舞って、通り名で暮らす。人様の真名を尋ねていいのは、嫁取りと果たし合いのときだけだよ」
「求婚か決闘って、両極端すぎません?」
「どっちも命懸けって点じゃ、揃ってるだろ」
言われてみれば、揃っていた。
禁じられているのは、名前だけでもないらしい。出港のとき、ガロが景気づけのつもりで「沈んだりしたら承知しねえぞ!」と吠えた瞬間、水夫たちの手が一斉に止まった。トメ婆さんの煙管が、今度はガロの向こう脛を打った。
「船の上で沈むの燃えるのと口にするんじゃないよ。言葉にした端から、寄ってくるんだ」
「よ、寄ってくるって、何がだ」
「知らないほうが、よく眠れるよ」
ガロはそれから湊に着くまで、借りてきた狼みたいに静かだった。あのでかい声の男が、だ。言霊とやらの躾の早さについては、婆さんの右に出るものはいないと思う。
「トメ様、ってのは」
「通り名さ。渡しの婆は、代々トメだよ。あたしで何代目かは、数えるのをやめた」
それから婆さんは、俺たちの呼び名を順繰りに決めていった。さっきの名乗りは、海風が流したことにしてくれるらしい。
「あんたは目ぇがよく動くね。『目利きの』でいい」
「オレはガロ……」
「でかいの」
「聞けよ! せめて『狼の』とかによお!」
「でかいの」
二度言われて、確定した。ノアは「ぎんの」を貰い、口の中で「……ぎんの」と転がして、小さく頷いた。気に入ったらしい。ヴァンは聞かれる前に「僕は『風来』とでも」と名乗り、婆さんは鼻を鳴らした。
「ふん。……慣れてるね、あんた」
「旅が長いだけですよ」
海峡の真ん中あたりで、一度だけ、空気が変わった。
帆を下ろした漁船が、波に任せて漂っていた。船べりの名書きの板が、鑿か何かで荒く削り取られている。トメ婆さんは煙管を咥えたまま、それを横目で見て、目を細めた。
「……近頃、ああして船の名を削るのが増えた」
「なんでです」
「呼ばれないためさ」
誰に、とは言わなかった。聞いた俺も、なぜか、それ以上は重ねられなかった。削られた板の白い木肌が、曇り空の下で、傷口みたいに目立っていた。
■
夕暮れどきに、湊が見えた。
入り江をぐるりと抱く、木造の町。桟橋が櫛の歯みたいに突き出して、荷揚げの掛け声が飛び交っている。家々の軒には火の入ったばかりの提灯がずらりと並んで、水面に橙の点々を落としていた。どこかで、風鈴が鳴っている。
まずい、と思ったときには、もう遅かった。
醤油に似た何かの、焦げる匂いがした。屋台で、串に刺した餅みたいなものを焼いている。桟橋の木の軋みも、夕餉の煙も、下駄に似た履物のからころという音も、一斉に押し寄せてきた。
(……祭りの帰りみたいだ、って思っちまった)
似ている。俺の故郷に、痛いほど似ている。そして、似ているだけで、地球じゃない。提灯の字は一文字も読めないし、行き交う人の髷には見たこともない飾りが挿してあるし、屋台の親父の耳は、魚のひれの形をしている。
似ているは、同じの反対語だ。今日ほどそれが骨身に沁みた日はなかった。
袖が、くいと引かれた。ノアが俺を見上げて、それから、屋台を指さした。
「……あれ、たべたい」
「……そうだな。食おう」
焼いた餅は、砂糖醤油に似た味がした。ノアは一口ごとに真剣な顔で咀嚼して、「あまじょっぱい」という新しい語彙を獲得した。ガロは一串で足りずに六串いって、ひれ耳の親父を上機嫌にさせた。ヴァンはヴァンで、いつの間にか饅頭を買っていた。おかげで、俺の喉のつかえも、一緒に飲み下せた。
宿は商会が取ってくれていた。荷下ろしは明日からで、俺たちの仕事は、帰りの船団が出るまでの逗留と護衛。それと、例の妙な訴えの確かめだ。
桟橋で別れ際、トメ婆さんは煙管の先を、俺たちにぐるりと向けた。
「あんたらに、ひとつだけ忠告しとくよ。日が落ちたら、水際を歩くんじゃない。……窓から外を見るのも、ほどほどにしな」
「見たら、どうなるんです」
「見られるのさ」
■
夜半、風鈴の音で目が覚めた。
風は、ないのにだ。
隣の布団でガロが鼾をかいている。俺は、見るなと言われた窓のほうへ、吸い寄せられるみたいに近寄った。忠告は覚えていた。覚えていて、体が言うことを聞かなかった。渡り手の悪い癖だ。
湊の対岸、水際の道を、青白いものの列が歩いていた。
提灯の橙とはまるで違う、冷たい燐光。人の形をしているが、輪郭が煙みたいに曖昧で、数は二十か、三十か。列は水音ひとつ立てずに進みながら、それぞれが、何かを繰り返し呟いていた。
耳を澄ます。潮騒の隙間から、切れ切れに、それは届いた。
——くめ。——さだ。——いその、はち。
名前だ。
呼ばれた窓の家々は、どこも灯りを落として、死んだふりみたいに静まり返っていた。応える声は、ひとつもない。それでも列は、飽きもせず、順繰りに呼び続けながら遠ざかっていく。
俺は、人の名前を必ず覚える男だ。手帳に書き留めるのが、地球にいた頃からの習い性だ。その俺が、いま耳に入ったあの名前たちを、書き留める気に、どうしてもなれなかった。
青白い行列は、誰かの名を、呼びながら歩いていった。




