【第34話】次の門
大時計塔の受付は、朝いちばんから、俺の名前で始まった。
「空木廻さん。本日付で、七級への昇級が承認されました。おめでとうございます」
差し出された木札は、また色が変わっていた。九級の青から数えて、二度目の衣替えだ。三月前、十級の白い札を握りしめてた男に教えてやりたい出世ぶりだが、教えたところで信じないだろう。
「こちら、七級から受けられる依頼の一覧です。ご参考までに、上の段から死亡率の高い順に並べてあります」
「その並び順、誰が得するんですか」
「事実のご案内です。……それと、ノアさんの随行員登録も七級付けで更新しておきました。ご一緒される場合の手続きは、これまで通りです」
隣で聞いていたガロが、広間じゅうに響く声で吠えた。
「聞いたか、おい! オレの相棒が七級だぞ! そこの、おまえも聞け!」
「あんたが吠えると噂がまた盛られるんだよ。やめろ」
もう遅かった。広間のあちこちから拍手と口笛と「今度は何を撃退したって?」が飛んできた。撃退はしてない。この訂正、一生言い続ける羽目になりそうな気がする。
受付を離れる前に、俺は等級の早見表をもう一度だけ見た。七級の札で開く門は、確かに増えた。ただし、増えたのは第一界圏の中の話だ。界門街の奥の、あの静かで厳重な門の列は、六級から。壁は一枚ぶん薄くなって、まだ、壁のままだった。
(一段ずつ、だ。焦っても糸は太くならない)
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二階の依頼掲示の前に、ヴァンは待っていた。
壁に寄りかかって、手の中で一枚の依頼札を器用に回している。俺たちを認めると、その札をひらりと投げて寄越した。
「はい、次の仕事」
受け取った札には、几帳面な刻印が並んでいた。覚えたての共通語の文字を、目で追う。第七七七界、通称ヤシマ。仕事は商会の交易船団の護衛で、湊までの往復と、現地での逗留。
「海の世界だよ。大きな島が八つあって、町は木でできてて、飯がうまい。いいだろう」
「海!」
ガロの耳が、ぴんと立った。
「海ってことは、魚だな!? オレ、腕くらいある魚を一回、丸ごと食ってみたかったんだ!」
「腕くらいなら草原の川にもいるだろ」
「オレの腕だ!」
「護衛だけなら、確かにいい話ですね。……で、妙ってのは、どこです」
「察しがいいねえ」
ヴァンは懐から折り畳んだ紙を出して、掲示台の上に広げた。ギルドの記録紙の写しだ。定期の報告文の隅に、記録係の困惑がにじむ字で、書き足しがある。
——同水域より、奇妙な訴え続く。曰く『名を喰われた』。仔細、要領を得ず。
「名を、喰われた」
「ここふた月で、同じ訴えが九件。訴えた本人は、そう言ったきり話にならない。で、周りの人間は……その本人のことを、なぜだか、よく覚えていないんだそうだ」
ノアの手が、俺の袖をきゅっとつまんだ。
覚えていない。その一言が深くまで刺さる耳を、この隊は三対も持っている。俺と、ノアと、ガロだ。アルディアの最後の五日間——砦の人たちから俺の名前だけが抜け落ちていった、あの五日間を、ガロは隣で見ている。
「受けます」
「即答だねえ。値段も聞かずに」
「値段も聞いときます」
「遠征日当は都市の倍、期間はおよそ半月。悪くない稼ぎだよ。……ああ、それと」
ヴァンはにっこり笑った。
「僕も行くから」
「……はい?」
「観光だよ」
「特級の、観光」
「いいだろう別に。海の見える世界は貴重なんだ。心配しなくても依頼の頭数には入らないよ。宿も飯も自腹だ」
フィムがぱっと顔を輝かせた。経費に響かない同行者ってのは、あの妖精の中で株がめっぽう高い。
ただ、《観察》は拾っていた。観光、と言ったとき、ヴァンの口は笑っていて、目は、その半分も笑っていなかった。
(……観光に、記録紙の写しを持ち歩く人がいるかね)
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出立まで、二日あった。
準備は、フィムの帳面から始まった。
「いい? ヤシマは硬貨が違うの! 湊の両替屋で界貨を替えるんだけど、手数料を取られるから、替えすぎは駄目! 足りなくても駄目!」
「で、いくら替えるんだ」
「計算中! 船賃と宿代と……ガロ、キミの飯代が計算を壊すんだよ!」
「界貨一枚が串焼き一本だぞ! キミの晩飯、一食で十五本! ね、壊れるでしょ!?」
そのガロの旅支度は、九割が食い物だった。干し肉の束を、俵みたいに縄で括って担いでいる。
「船旅だぞ!? 飯が細くなったら戦えねえだろ!」
「おまえの飯で船が沈む心配をしろ」
俺はといえば、ギルドの売店で新しい綴じ紙の手帳をひとつ。それから医務室で、腿とあばらの仕上げをしてもらった。治療師の婆さんいわく「若さと魔法の合わせ技」で、走るくらいなら支障はないそうだ。
「……で、あんた、また指先が進んでるね」
「気のせいでしょう」
「気のせいってことにしといてやるよ。使いどころを、間違えなさんな」
夕方、ノアの部屋を覗くと、旅支度は寝台の上で几帳面に進んでいた。着替え、櫛、匙。それから、棚の前で、蜜煮の壺を抱えて長いこと悩んでいた。
「……壺は、おおきい」
「だな。旅には向かん」
ノアは小さな薬瓶に蜜煮を三粒だけ移して、栓をした。それから、棚に残る壺と押し葉に向かって、真顔で言い聞かせた。
「るすばん。……へや、まもってて」
初めての「自分の部屋」は、初めての「帰る場所」でもあるらしい。俺は廊下に出てから少しだけ笑って、それから新しい手帳の一頁目に、今度の旅の見出しを書いた。
——ヤシマ。第七七七界。『名を喰われた』とは、何だ?
その夜、寝る前に、久しぶりにスマホの写真を繰った。
サークル合宿の海。防波堤で撮った集合写真と、逆光で誰かの頭が入り込んだ、失敗作の水平線。あの日は撮り直す時間がいくらでもあると思っていたから、失敗作のまま残っている。
明日から行くのは、海の世界だという。
どんな色の海でも、この写真の海とは、別物だ。分かってる。分かった上で、少しだけ、見比べてみたい気もしていた。画面を消すと、暗くなった鏡面に、我ながら間抜けな顔が映った。
(……宿題の答え合わせみたいな気分で行くなよ。仕事だぞ、仕事)
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出立の朝、界門街は今日も検問待ちの列で賑わっていた。
商会の荷と人足が、先に門をくぐっていく。樽、俵、反物、それから理で封をした氷の箱。人足の頭が指を折って数を確かめ、検問の係が通行記録の板に刻みを入れていく。十級の頃、俺はあの板を運ぶ係だった。理酔いで四回ぶっ倒れた検問所の前を、今日は七級の札で通る。俺の膝は覚えているのに、景色のほうは何も覚えていない顔をしていた。それでいい。覚えるのは、俺の係だ。
見送りは、なかった。代わりに、串焼き屋台の竜人の親父が、朝から店を開けていて、竹皮の包みを五つ、勘定と一緒に押しつけてきた。
「船の上の飯はな、あればあるだけ士気になるんだよ。行ってこい、メグルの兄ちゃん」
名前を呼ばれて送り出される朝ってのは、いいもんだ。行き先が、名を喰われる海だと思うと、なおさらだった。
ヤシマの門は、界門街の東の外れにあった。
石の枠に、潮灼けした色の太い縄が渡してある。誰がいつ結んだのか、検問の係も知らないという。膜は深い藍色で、寄せては返すみたいに、ゆっくりと波打っていた。
「ここから先は海の上だ。落ちるなよ、諸君」
ヴァンが先頭で、散歩みたいに膜へ踏み込んだ。ガロが続き、フィムが俺の胸ポケットに潜り、ノアが俺の手を握る。
一歩目を踏み出す前から、分かっていた。
ヤシマの門は、水の匂いがした。




