【第33話】相棒の誓い
控室の空気は、戸口を塞ぐ仁王立ちのせいで、行き場をなくしていた。
ガロは腕を組んだまま、動かない。やがて、静かな声のまま言った。
「メグル。今日の最後の半歩。あれ、自分の何を払った」
(……客席から、見えてたのか)
誤魔化す軽口は三つ浮かんで、三つとも捨てた。あの目は、冗談の受け取りを拒否している。
「……存在、らしい。使うと、指先から薄れていく」
「らしい、じゃねえだろう。おまえの体の話だろうが」
声が一段、低くなった。ノアが蜜煮の匙を持ったまま俺とガロを見比べて、フィムが気を利かせたつもりの小声で「ボ、ボクたち、外にいようか?」と言った。
「いや。……メグル、借りてくぞ」
ガロは俺にではなく、ノアに言った。ノアはガロの顔をじっと確かめてから、小さく頷いた。
「……けんかは、だめ」
「しねえよ。たぶんな!」
「たぶんて言ったぞ、おい」
言い終わる前に、ガロは俺の襟首と腰帯を掴んで、米袋みたいに肩へ担ぎ上げた。
「あばらに響く! 歩ける、歩けるから!」
「歩けるやつは担架で運ばれねえんだよ!」
正論だった。悔しいことに。
■
寮の屋上には、夜の界門街がよく見えた。何百の門の光が、暗がりの底で静かに明滅している。試験の前夜、ガロとここで同じ光を見た。
ガロは俺を給水塔の脇に下ろすと、懐から瓶を二本出した。
「芋の酒だ。……おまえは汁な。明日がある」
「扱いの差よ」
「前は二本とも汁だった。出世しただろ」
甘いんだか土臭いんだか分からない味も、二口目からうまくなるのも、あの夜と同じだった。ガロは酒を半分空けて、手すりに寄りかかって、それきりなかなか喋らなかった。珍しいこともある。こいつの言葉が、声より遅いなんて。
「……六級になったら、第二界圏の仕事が受けられる。日当が十倍で、弟たちを学校にやれる。前にここで、そう言ったよな」
「言った。具体的な夢だって、俺は感心した」
「その勘定が、狂ったんだ」
ガロは瓶を見下ろした。
「おまえの隣は、道の縮む場所だ。アルディアで界律なんてもんを拾って、大会で六級を投げ飛ばして。オレが何年がかりで描いてた道を、おまえは三月で歩きやがる。……この調子なら、第二界圏の門を先にくぐるのは、おまえのほうだ」
「ガロ、俺は」
「まだだ。最後まで言わせろ」
でかい手のひらが、俺の言葉を止めた。
「オレはよ、組んだ日から、守る側のつもりだったんだ。オレが前で全部ぶっ飛ばして、おまえが後ろで目ん玉を使う。それで釣り合いだって、あの日決めたろ。悔しいのは、いい。飯食って寝れば燃料になる。オレが夜中に考えちまうのは、別のほうだ」
ガロは、界門街の光を睨んだ。
「アルディアの砦で、みんながおまえを忘れてくのを、オレは隣で見てた。セシル隊長の手帳も、ピノの写し絵もだ。今日の試合じゃ、おまえは自分を薪にして燃えてた。……おまえはいつか、オレの入れねえ門の先へ行くんだろ。で、ああやって忘れられながら、一人で燃えるんだろ。そばに、殴って止めるやつもいねえままでだ。それを考えると、眠れねえんだよ」
置いてかれるのか、という独り言の中身は、これだったのか。あいつが怖かったのは、俺との差じゃなく、俺が一人で薄れていくことのほうだった。
「……なんだよ、それ」
気づいたら、立ち上がっていた。繋いだばかりの腿が悲鳴を上げたが、知ったことか。俺は精一杯背伸びして、狼の襟首を掴んだ。
「おまえ、俺がおまえを置いて、一人で先へスタスタ行くと思ってんのか。三語より長い指示が入らない頭のくせに、勝手に人の十年後まで背負い込んでんじゃねえよ!」
「なんだと! 人が真面目に喋ってりゃ!」
「真面目だから怒ってんだろうが! 俺の隊の前衛は、一人しかいねえんだよ!」
額がぶつかる距離で、睨み合った。ガロの拳が固まり、俺の拳も固まって、あと一押しで、どっちかが振り抜くところだった。
先に息を抜いたのは、ガロだった。
「……はっ。おまえいま、背伸びしてんな」
「うるせえ。おまえの襟が高いんだよ」
二人して、崩れるみたいに笑った。腹の底に溜まってたものが、笑い声と一緒に夜空へ抜けていった。
笑いの尻尾が消える前に、俺は言った。
「ガロ。手ぇ貸せ」
「あん?」
「ノアと結んだやつだ。《誓約》の契約。結んだ相手は、俺を忘れない。世界がどれだけ俺を消しにかかっても、だ。……縛るぞ。何を対価に取られるかも分からん。それでもいいなら」
「オレが忘れるわけないだろ」
即答だった。考えた形跡が、一秒もなかった。
「御託はいい。どうすりゃいい。手ぇ繋ぐのか、おまえと」
「……拳でいこう。拳で」
向かい合って、拳を突き合わせた。《誓約》が胸の奥で、静かに帳面を開くのが分かった。
「オレは、メグルを忘れねえ。どこの世界の誰が忘れても、だ」
「俺は、ガロを忘れない。……先に行っても、置いていかない」
言葉が重なった瞬間、合わせた拳の間で、太い糸が一本、結ばれた。ノアのときの静かな糸とは手触りが違う。錨の鎖みたいな、不器用な馬鹿力の糸だった。指先からまた体温をひと匙持っていかれて、夜風が急に沁みた。瓶を持ち直した手が、冷たさを一拍遅れて教えてくる。安い買い物じゃない。それでも、釣りが来るくらい安い。
「うおっ。……なんか来たぞ。腹の底に、綱みてえのが」
「それが証文だ。破れば鞭が来るからな」
「破るかよ、こんなもん!」
ガロは自分の腹を叩いて笑い、それから、ふっと真顔になった。
「アルディアで、オレの後ろにいろって言ったな。あれは取り消しだ」
「じゃあ、どこにいればいい」
「隣だ。前でも後ろでもなく。……ま、当分は、オレが追いかける番だけどな!」
でかい声が、夜の屋上に響いた。あの夜と同じで、門の光が、心なしか揺れた気がした。
■
翌日の準決勝の記憶は、正直、断片しかない。
治療師の婆さんが繋いでくれた腿は、歩く用だった。走る用でも、跳ぶ用でもなく。誓いは張らなかった。守り切れる体がないのに張れば、それはただの博打だ。素の八級として舞台に立って、静かな竜人の三度目の攻めで襟と帯を取られ、視界が回って、気づけば場外の砂の上にいた。
一本も、返せなかった。掠りもしなかった。
砂の上から見上げると、舞台の縁からラガンが俺を見下ろしていて、それから、手が伸びてきた。引かれて立つ。竜人は、ぼそりと言った。
「……いい目だ」
それだけ言って、背を向けた。無口な男の四文字は、妙に重かった。
決勝は、観客席で見た。結果だけ言えば、優勝はラガン。文句なしの強さで、特進で六級だそうだ。
閉会の式のあと、人波の出口で、ミレーヌさんに呼び止められた。
「空木さん。内々のお話です」
「嫌な予感しかしない前置きですね」
「審査部が、あなたの七級への昇級を検討しています。金星と準決勝進出、それに遠征の功績を合わせての判断です。正式なお手続きは後日、受付で。それまでは、聞かなかったことに」
「聞かなかったことにする話を、なんで俺に」
「準備は、早いほうが良いので」
柔らかい顔のまま、有能な人は先に行ってしまった。
■
その晩は、ガロの音頭で打ち上げになった。
市場通りの外れの酒場で、俺とガロとノアとフィム。ノアは果実の水で、フィムは杯のふちに腰かけて湯気だけ吸っていた。ガロが決勝の投げを身振りで再現して、卓の皿を二枚割った。
その皿を数えに来た店主の向こう、いちばん奥の暗がりで、見覚えのある優男が杯を挙げた。
ヴァンだった。ひらひらと、手招きをしている。
(……嫌な予感しかしない手招きだな)
近寄ると、特級渡り手は椅子の背にもたれたまま、にっこり笑った。
「やあ、大会お疲れさま。いいものを見せてもらったよ」
「どうも。……で、何の用です」
「次の仕事、決まったよ。……ちょっと妙な依頼でね」




