【第32話】金星
闘技場の舞台の上で、俺の体は、俺のものじゃなくなった。
いや、違うな。俺のものではあるんだが、経営権がちょっと、界律に移った。
誓いの糸が張られた瞬間から、世界の見え方が変わっている。ドルゴの巨体の輪郭に、次の動きが薄い線で重なって見える。見切った——その証文がある限り、あの岩拳は俺に当たってはいけないと、俺の体が俺に強制する。
ドルゴが、来た。
右、右、左。三歩で最大速に達した突進は、さっきまでの俺なら、見えても躱せない速さだった。今は、違った。考えるより先に腰が沈んで、半歩。岩の質量が、前髪を揺らして通過していく。
紙一重、というやつだ。自分でやっておいて、背筋が冷えた。俺の運動神経は、こんな半歩を知らない。誓いが、俺の関節と筋を勝手に動員して、最短の躱しを組んでいる。……砦の夜を思い出した。誰の刃も届かなかった、あの灰色の半身。いま俺は、あれの安物を、全額自腹でやっている。
(自腹の中身が、俺の存在ってのが笑えないけどな)
二撃目、三撃目。拳の風圧が頬を叩くたび、観客の悲鳴が歓声に変わっていく。四撃目は躱しざま、肘の内側が岩の角を掠って、皮膚が浅く裂けた。当たってはいない。掠っただけだ。それでも胸の奥で、糸がぎしりと軋んだ。「見切った」の証文は、掠り傷ひとつぶんの誤差まで帳簿につけてくる。
(細かいぞ、おまえ……!)
そして、支払いはもう始まっていた。
躱すたび、体の芯から何かが持っていかれる。指先が冷える。歓声が、一枚膜を挟んだみたいに遠い。誓いの要求する速さに八級の筋肉が悲鳴を上げて、腿の裏で何かが、ぷつりと鳴った。それでも体は止まらない。止まる自由は、ゆうべのうちに売り払った。
五撃目、六撃目。すり鉢の音の質が変わっていくのが、膜の向こうでも分かった。悲鳴が、歓声に。野次が、名前に。誰かが手拍子を始めて、それが壁を一周した。八級が、六級の暴風のただ中に立っている。それだけで客ってのは沸くらしい。見世物としては上等なんだろう。こっちは、命拾いの連続なんだが。
「ちょこまかと……!」
ドルゴの顔から、嘲りが剥がれ落ちていた。
「なんだ、その動きは! さっきまでの鈍らはどこいった!」
「さっきまでのは、下見です」
言ってから、格好つけすぎたと思った。誓いにならない範囲の、ぎりぎりの見栄だった。
岩の連打が、暴風になった。読める。躱せる。だが、削られる。長引けば先に尽きるのは俺だ。この糸は、俺という蝋燭を燃やして張られている。
終わらせる一手は、最初から決めてあった。
舞台の縁。ラガンがこいつを落とした場所。同じ絵を、俺の筋書きで、もう一度だ。
俺は縁を背にして、足を止めた。
「どうした英雄! 足が売り切れか!」
半分正解だ。もう半分は、招待状だった。動かない的、背中は場外。十五年の経験は、これを罠だと知っているはずだ。知っていて、あの岩は止まれない。ついさっきまでの削り合いで、嫌というほど確かめた。あいつの突進は直線しか走れない。曲がるときは必ず一度沈む。そして、頭に血が上ったあいつは——沈まない。
来た。
右、右、左。最大速の三歩目が、俺を潰しに来る。
線が、見える。俺は最後の最後まで縁に立って、あとは誓いに任せた。
半歩。
体が勝手に沈んで、岩の腕の下をくぐった。すれ違いざま、伸び切った手首に手を添え、軸足の膝裏へ、俺の足の甲を掛ける。投げたなんて上等なもんじゃない。あいつの十五年ぶんの体重と最大速の突進が、行き先だけ俺に曲げられて、そのまま走っていっただけだ。
岩の巨体が、俺の背中側の縁を越えて、消えた。
一拍遅れて、地響き。緩衝の理は、仕事をしたらしい。砂煙の中に、仰向けのドルゴが見えた。
すり鉢が、爆発した。
「場外ォ! 勝者、空木廻!!」
審判の声は、歓声にほとんど呑まれていた。すり鉢の壁という壁から、音の雪崩が降ってくる。メグル、と誰かが叫んで、それが二人になり、十人になり、俺の名前は俺のものじゃないみたいに、闘技場の空気の上で膨らんでいった。
俺はといえば、その真ん中で、棒立ちだった。
勝った。六級に。金星、というやつだ。実感が来るより先に、別のものが来た。
支払いの、残額請求だ。
勝敗が決まって、「見切る」相手が舞台からいなくなって、糸は役目を終えてほどけた。ほどけた瞬間、膝から下が消えたのかと思った。腿の裏は焼けた針金で、指先は氷で、視界の縁が白い。立っていられたのは、三秒。俺は勝者の口上もへったくれもなく、舞台のど真ん中に崩れ落ちた。
(……かっこ悪……せめて、あと三歩……)
歓声が、どよめきに変わる。駆け上がってくる係員の足音。担架、という単語が聞こえて、俺は本気で抵抗しようとして、指一本上がらなかった。金星の英雄、退場は担架。できることなら、記録から消してほしい。
運ばれていく視界の端で、二つのものを見た。
ひとつは、場外の砂の上。半身を起こしたドルゴが、俺を見ていた。憎まれ口が飛んでくるかと思ったが、岩の顔はただじっとこっちを見て、それから、ゆっくりと自分の掌に目を落とした。昨日ラガンに落とされたあとと、同じ姿勢。でも、見ているものは別な気がした。
もうひとつは、観客席のいちばん上だ。貴賓席の欄干の前に、隻眼の巨漢が立っていた。ギルドマスターのオルドア。遠目にも分かった。あの岩塩みたいな顔の、口元だけが、笑っていた。
■
闘技場の医務室で、治療師の婆さんに全身を診てもらった。
「腿の筋が二本、悲鳴を上げてる。あばらに罅がひとつ。あとは打ち身と切り傷の見本市だね。……で、あんた、これは何だい」
婆さんは、俺の右手の指先をつまんだ。人差し指と中指の先が、灯りに透かすと、うっすら向こうが見える。丘のあとより、半歩だけ進んだ透け方だった。
「……体質です」
「治せない類いの、かい」
「たぶん」
「なら、使いどころを間違えなさんな」
婆さんはそれ以上聞かなかった。この街の医者は、渡り手の「体質」の扱いに慣れている。
控室に戻ると、ノアとフィムが待っていた。ノアは俺の顔をじっと確かめて、それから無言で、蜜煮の壺の蓋を開けた。木匙に一粒すくって、突き出してくる。
「……たべて。あまいのは、きく」
「あー……悪い、腕が上がらん」
「ん」
ノアは当然の顔で、匙を俺の口まで運んだ。甘くて、少し酸っぱかった。生き返る味がした。フィムは治療費の明細を抱えて、俺の頭の上をぐるぐる旋回した。
「準決勝進出おめでとう! そして復活戦の賞金は治療費でほぼ消えたよ! この興行、うまくできてる!」
「胴元が儲かるようにな……」
「ちなみに賭けは九対一だったから、キミに張ってた一割の人たちは、今夜は大宴会だね」
「よかったな、知らない誰か……」
「明日の準決勝、相手はラガンだよ。……その体で、どうするのさ」
どうするんだろうな、と半分他人事みたいに思った。誓いはもう張れない。張ったところで、守り切れる体が残っていない。素の八級があの静かな竜人に何をできるかと言われると、答えの持ち合わせはなかった。それでも不思議と、悔いはなかった。売り物にできる全部を、今日の舞台に並べ切ったのだ。明日は明日の在庫で戦う。それだけの話だった。
(在庫、ほぼ空だけどな)
窓の外で、灯樹の並びが夕方の色に変わり始めていた。長い一日だった。あとは寮に帰って、泥みたいに寝るだけ——のはずだった。
そのとき、控室の扉が、ノックもなしに開いた。
戸口いっぱいに、でかい影が立っていた。ガロだった。仁王立ち、というやつだ。腕を組んで、口を一文字に結んで、あいつにしては珍しい、静かな目をしていた。
「……ガロ?」
「メグル」
声も、静かだった。静かなぶんだけ、重かった。
「おまえに、言うことがある」




