【第31話】敗者復活
敗者復活戦を明日に控えた夜、ギルド寮の食堂の隅で、俺は手帳に「誓いの案」を並べては、消していた。
「『明日の試合に勝つ』」
「結べないよ。勝ち負けは博打だもん」
「『負けない』」
「同じだよ」
「『あいつの攻撃を全部避ける』」
フィムは帳面から顔を上げて、ぶるっと震えた。
「結べたとしても、重すぎるよ。『全部』ってことは、掠っただけで破りだよ? 破ったら、その場で鞭。ドルゴの正面で膝が抜けるんだよ。死んじゃう」
「だな。じゃあ『十発避ける』は」
「数の保証も博打! 十一発目が来たらどうすんのさ!」
消し線が、また一本増えた。頁はもう、消し線の縞模様だった。
《誓約》に張れるのは、俺が自力で守り切れる言葉だけ。嘘も博打も、糸にならない。零の間の実験で分かった、あいつの頑固な帳簿だ。
だから、逆から数える。俺に確かにできることは、何だ。
殴り合いじゃない。速さ比べでもない。昔から、ひとつしかない。見ることだ。
「なあフィム。この街の言葉で、相手の動きを全部読み終えた状態を、なんて言う」
「え? ……『見切った』、かな」
「見切った。……いい言葉だな。相手が何をしようが、関係ない。俺の目の中で完結してる」
「あ」
フィムの羽根が、ぴたりと止まった。
「『見切った』は、事実なら、誓える……!」
「そういうことだ」
誓いは、俺を縛る。「見切った」と誓えば当たってはならず、当たれば証文が破れて鞭が来る。つまりあの界律は、俺の体から「躱し損ねる」という選択肢を取り上げる——俺の筋力の帳簿なんか、無視してだ。
「でもさ、メグル。……キミ、いまは見切ってないよね? ドルゴのこと」
「見切ってない。いま誓ったら嘘だ。糸にならない」
「じゃあどうすんのさ!」
「試合の中で、本物にする」
「……それまでは、ただの八級だよ!? ドルゴの正面で、素のキミなんだよ!?」
「知ってる。だから前半は逃げ回る。かっこ悪く、しぶとく、だ」
向かいの席で、ノアが蜜煮の壺を抱えたまま、じっと聞いていた。やがて、小さく言った。
「……あたったら、どうなるの」
「誓う前なら、ただの怪我だ。誓ったあとなら、証文破りで鞭が来る」
「それは、だめ」
「だから、嘘にならないところまで見てから誓う。守れる誓いを、ぎりぎりの重さで。零の間で決めた通りだ」
ノアは壺を抱える腕に、少しだけ力を入れた。だめ、と、がんばれ、の間くらいの顔をしていた。最近、顔が増えてきたのだ、この子は。
手帳に、今夜いちばんの一行を書いた。『前半、生き延びながら全部見る。見切った瞬間に、誓う』。
書き終えたところへ、でかい影が椅子ごと割り込んできた。ガロだった。骨つき肉の皿を二枚持っていて、一枚を無言で俺の前に置いた。
「ドルゴの突進は、本物だぞ。オレより重い。たぶん、速い」
「……見たことあるのか」
「新人の頃、揉めてるのを一回な。壁が割れた」
ガロは自分の肉にかぶりつきながら、それだけ言った。教えに来たのだ、わざわざ。俺は「助かる」と返して、それ以上は言わなかった。あの通路の独り言への返事は、まだ見つかっていない。でも肉は、ちゃんと食った。
■
大会二日目の闘技場は、朝から満員だった。
午前の準々決勝、第二試合で、ガロが負けた。
相手は本命のラガンだった。ガロは吠えて、真っ向から行って、いいのを三発もらわせて——最後は、静かな竜人の返しの一撃で舞台に沈んだ。文句のつけようのない力負けだった。通路ですれ違ったガロは、俺の肩を一発叩いて「復活戦、勝てよ」とだけ言った。声はでかかった。でかすぎた。
昼、敗者復活戦。
舞台に上がると、すり鉢の壁がまるごと揺れた。噂の八級と、十五年の六級。ゆうべの酒場の賭け率は九対一だったらしい。どっちが九かは、聞くまでもない。
観客席の柵の際で、ノアが小さく手を挙げて、口の動きだけで言った。
「……ぜんぶ、みてる」
ちゃんと届いた。俺は頷いて、舞台の中央へ歩いた。
柵の向こうには、ガロもいた。腕を組んで、何も言わず、まっすぐ舞台を見ていた。自分が負けたその日に、人の試合を正面から観に来る。そういうところが、あいつだった。
ドルゴは先に立っていた。得物なし。岩の拳ふたつだけ。近くで見ると、質量の暴力だった。
「逃げなかったことだけは、褒めてやる」
「どうも」
「噂の力、使えよ、英雄サマ。じゃなきゃおまえ、ただの的だぜ」
「そのうちに」
銅鑼が、鳴った。
開幕の突進を、俺は半歩で……躱し損ねた。肩を掠った。それだけで体が独楽みたいに回って、舞台を二回転がった。すり鉢が沸く。立つ。膝はまだ動く。
(重い、じゃねえなあれは。崖が走ってくる)
右、右、左。踏み替えの順で加速する。まず、それをもらった。ひとつ。二度目の突進は転がって外し、三度目は棒で受けて、棒が折れた。あっさり折れた。訓練用の得物は、崖用にできていない。
「どうした! 撃退の続きはよお!」
野次が重なる。逃げてばっかだぞ英雄、金返せ。走る。見る。走る。見る。突進は直線しか走れない。曲がるときは、必ず一度沈む。ふたつ。
拳の初動は肩じゃなく、腰だ。腰の岩が軋む音が、コンマ何秒か先に鳴る。みっつ。
打つ前に、目が着弾点を舐める。よっつ。
次の突進は、読めたのに足が遅れた。伸びた爪先に踵を引っかけられて、肩から舞台に落ちる。受け身、転がって、距離。口の中に鉄の味が広がった。
「賭けた銅貨が泣いてるぞ、英雄!」
「もう寝ろ八級! 楽になれ!」
うるせえ。こちとら命と大会が懸かってるんだ。野次は聞き流して、目だけは岩から離さなかった。
削られながら、拾っていく。頬が切れ、左腕の感覚が半分になった。縁まで吹っ飛ばされて、爪先一枚で残った。すり鉢の笑いと悲鳴が、遠のいていく。集中の底では、いつも音が消える。ファインダーを覗いているときと、同じだ。
「知ってるか、英雄サマ」
ドルゴは追いながら、吐き捨てた。
「六級と五級の間はな、才能の壁って呼ばれてんだ。俺は十五年、毎年審査に落ちた。おまえみたいな拾いもんが横をすり抜けてくたびに、審査官の目が言うんだよ。……こいつは、ここまでだ、ってな」
拳、沈み、突進。躱して、転がる。
重い言葉だった。軽口で返すには、あの十五年は本物すぎる。だから、事実で返すことにした。
「あんたの十五年は」
息を継いで、俺は初めて口で返した。
「嘘じゃないでしょう。動きの整理が、十五年ぶん骨まで通ってる。だから読みやすい、って言ったら、怒ります?」
「……ぬかせ!!」
怒った。突進が暴風になった。だがそれは、整理された暴風だった。右、右、左。沈んで、曲がる。腰が鳴って、拳。目が舐めて、着弾。七手に一度、大きく息を吸う。いつつ。
ばらばらだった五つの癖が、あるとき、ふっと一本の線に繋がった。
次が、見える。次の次も、その先も。被写体の次の瞬きが分かる、あの感覚の何倍も濃いやつだった。岩の巨体の輪郭に、まだ打たれていない拳の軌道が、薄い線で重なって見えている。
……揃った。
汗が目に入るのも忘れていた。世界がファインダーの中みたいに四角く狭くなって、その真ん中で、岩の巨体だけがやけに明るい。
これを言い表す言葉は、この街にひとつしかない。
俺は折れた棒を捨てた。両手を空けて、まっすぐ立った。すり鉢じゅうの野次が、一瞬、戸惑いで薄くなった。
息を吸う。器のいちばん深いところへ、声を落とす。
「——見切った、と俺は誓う」
糸が、来た。今までで、いちばん太いのが。
張られた瞬間、指先から体温をひと掴み、ごっそり持っていかれた。




