【第48話】昇圏試練
界門都市の朝は、狭間の天蓋がいちばん白く冴える時間だ。
その白い明かりが、二階の執務室の窓から、机の上の二通の書状を照らしていた。一通はギルドの紋の押された見慣れた蝋。もう一通は灰色の封蝋、俺が今まで見たことのない色だった。灰色ってのは、都市に来てからの数月でいちばん見たくない色になっていた。
「先に、いい報せからだ」
オルドアがギルドの紋の書状を指で滑らせて、こっちへ寄越した。
「昇圏試練の通達だ。ヤシマの働きが、上に上がった。おまえたちに、第二界圏への開門資格試験の受験を認める、とある」
「……第二界圏」
俺は書状を受け取った。文字はこの三月でだいぶ読めるようになったが、それでも、指がその一行の上でつっかえた。第二界圏。門の先が、また一段、幹に近づく。地球は幹の書庫にあるはずだと、ヴァンは言った。つまり、俺の目指す先へ、まっすぐ一歩だ。
「試練の中身は」
「ミレーヌから聞け。俺の口からは、下手な脅しになる」
オルドアはそう言って、隻眼をもう一通のほうへ落とした。灰色の封蝋のほうへ。喜んでいる暇はそこで終わった。
「問題は、こっちだ」
執務室の空気が、ひと目盛り重くなった。
■
「剪定局から、ギルド宛に、通達が来た」
オルドアは封蝋を割らなかった。もう中身は読んだあとだ、という手つきで机に指を置いた。
「文面は、事務的だ。おそろしく事務的だ。……『第九九一界、残存個体の登録を確認した』」
部屋の中の音が全部遠のいた。
第九九一界。初めて聞く番号だった。だが、その後ろに続いた「残存個体」が、それを俺の故郷の話だと教えた。
「……第九九一界、って」
「地球の管理番号だ」
オルドアが静かに言った。
「向こうの帳面じゃ、おまえの世界は、その番号で登録されてる」
背筋を冷たいものが撫でた。都市に着いた日、俺は台帳を見せられた。三千世界の名がびっしり並んで、刈られた世界は線を引いて残すと言われた。そこに地球はなかった。線の引かれた界名すら、どこにもなかった。なかったことになっている、とあのとき思った。なのに剪定局は、その台帳に載せもしなかった俺の故郷に、番号だけはこっそり振っていた。名前は消して、番号は残す。それがどういう了見なのか、俺には分からなかった。分からないぶんだけ、その番号は不気味だった。
残存個体。それが俺のことだと分かるのに、時間はいらなかった。
「……俺が登録されてる、ってことですか」
「そうだ」
オルドアの声は低いままだった。
「渡り手の登録は、ギルドの中だけの帳面だ。外へ出すものじゃない。だが、向こうは知っていた。第九九一界の生き残りが一人、都市で渡り手をやっている。等級も、名も、たぶん握られている」
「……向こうって、剪定局が」
「監視されている、と思って動け。それが今日から、おまえの前提だ」
俺は書状には触れなかった。灰色の封蝋を見ているだけで指先の薄れたところがちりちりした。あの日、灰色の花畑で感じたのと同じ、背筋を撫でる冷たさだ。剪定局は消したはずの世界の生き残りを番号つきで数えていた。数えるってことは、帳面に載せるってことだ。そして帳面に載ったものが最後にどうなるかを、俺はこの目で見ている。
「なあ」
俺の後ろでガロが低く言った。声のでかいこいつが声を落とすと、部屋がやけに静かになる。
「その紙、破っちまえばいいんじゃねえのか。読まなきゃ、なかったことになる」
「ガロ」
「分かってる。……分かってるよ。ならねえんだろ、そういうのは」
こいつは単純だが、莫迦じゃない。分かった上で、それでも言いたかったんだ。そういうやつだ。少しだけ笑えた。破って済むなら、俺はとっくに地球の番号を破り捨てている。
部屋の隅でずっと黙っていたヴァンが口を開いた。
「オルドア。その一文、いつ届いた」
「三日前だ」
「……試練の通達と、同じ便でかい」
「別便だ。だが、同じ日の午後に届いた」
ヴァンはそれきり黙った。
俺はその横顔を見ていた。この人はいつも軽い。核心の前でだけ一瞬真顔になって、すぐ茶化して逃げる。それが型だった。だが、今日は逃げなかった。目が灰色の封蝋の上で、じっと据わっていた。俺が知っている中で、ヴァンがいちばん真剣な顔だった。
(この人が茶化さないときは、たいてい、いちばんまずいときだ)
「ヴァンさん」
「ん?」
「これ、偶然に見えます?」
ヴァンはようやく笑った。いつもの掴めない笑い方だった。
「さあね。……ただ、ひとつ言えるのは」
窓の外の白い天蓋を見上げて。
「向こうが数え始めた個体は、たいてい、そのあと動く。……気をつけな、目利きの」
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一階の受付で、ミレーヌさんはいつもの柔らかい敬語で、いつも通り容赦なく喋った。
「昇圏試練。……おめでとうございます、と言うべきなんですが」
言葉を選ぶみたいに一拍。
「第二界圏への開門資格は、力ずくでは測れません。ですから試練は、戦いではないんです」
「戦いじゃない」
「はい。狭間に、『古い門』と呼ばれる門がひとつあります。界門街の門とは別の、どの世界へも通じていない門です。試練は——そこを、たった一人でくぐって、自分の足で戻ってくること。それだけです」
「……それだけ、ですか」
「それだけです」
ミレーヌさんの微笑みが、そこで少しだけ翳った。この人が説明の途中で言葉を切るのは、危険度がいちばん高いときだ。俺はこの三月で、それを学んでいる。
「同行は認められません。案内精霊も、契約者も、です。中で何を見るかは人によって違うと言われています。……戻ってこられなかった受験者も、記録にはあります。数は申し上げません」
「言わないほうが優しいやつですね」
「はい。……ちゃんと、戻ってきてください」
ヤシマの門をくぐる前にも、この人は同じことを言った。九割五分、と数字を添えて。今日は添えなかった。数字がないってことは、たぶん九割五分より悪い。
俺は手帳を開いて、その日の日付を書いた。都市に帰って二日目の朝だ。それから古い門、と書いた。行き先のない門。一人でくぐって、一人で戻る門。
(つまり俺は、また門をくぐらなきゃならないってわけだ)
書きながら思った。地球を取り戻すために、俺はずっと濃いほうの門を目指してきた。その途中に、こんな門があるとは、思わなかった。どこの世界にも通じていない、ただ自分に戻るためだけの門なんて。
受付の脇の椅子にノアが座っていた。俺が試練の話を聞く間、ずっと膝の上のフィムを撫でていた手が、話が終わるとぴたりと止まった。
「……ひとりで、いくの」
「ああ。おまえは連れていけないんだ。規則で」
「わかった」
あっさり頷いたから拍子抜けした。こいつのことだ、袖でも掴んで動かなくなるかと思っていた。だが、ノアは俺の顔をじっと見て、それから静かに言った。
「めぐるは、わたしのなまえを、まっくらで、よんだ。……だから、いってらっしゃい、は、いう。まってる、も、いう」
「……ああ」
「かえってこないのは、なし。それだけ」
名前を返してやった相手に、行ってこいと言われて、帰ってくるなと言われないだけで、なんでこんなに、背中が軽くなるのか。頷くしかなかった。頷くのが、いちばん嘘のない返事だった。
■
ミレーヌさんに連れられて、界門街の外れまで歩いた。
いつもの門の並びを抜けて、検問所の灯りも途切れた区画のいちばん端。人けのない石畳の突き当たりに、それは立っていた。
俺は足を止めた。
界門街の門は、どれも似た造りだ。石か金属の枠に、世界へ通じる膜が張っている。潮灼けの縄で飾られたヤシマの門も、賑やかな第一界圏の門も、枠の様式こそ違え同じ「門」の顔をしている。
これは違った。
枠は石だが、俺の知っているどの石より古びていた。表面に彫られた文様は、風化して半分読めない。それでも残った線の形に、俺は見覚えがあった。丸い花弁が幾重にも重なった意匠。
保護院の中庭に咲いていた、あの花だ。どの世界のものでもない、青とも紫ともつかない色のあの花。
膜はなかった。枠の内側は、ただ灰色に凪いでいた。
「……古いですね」
俺の声が思ったより硬く出た。
「はい」とミレーヌさんが言った。「界門街のどの門より古いんです。誰が、いつ建てたのか、ギルドの資料庫にも記録がありません」




