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忘却世界の渡り手ーー忘れないと決めた男の忘れられる旅  作者: 生サーモン


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【第29話】大会前夜

 告知からひと月あまり。依頼と《誓約》の訓練で日を重ねて、出場届の締切の朝、俺は大時計塔の受付で名前を書いた。


 ミレーヌさんは書類を確かめて、いつもの柔らかい顔で言った。


「新人大会へのご出場、受け付けました。歴代大会の死亡者は零です。ただし、再起不能の怪我は零ではありません」


「聞いてないのに教えてくれるんですね、そういうの」


「事実のご案内です。……理由を、伺っても?」


 ペンを置いて、少し考えた。理由なら、ゆうべ布団の中で何度も数え直している。


「八級の札じゃ、第一界圏までしか行けないでしょう。俺の探し物は、たぶんもっと上の門の先です。等級がないと、その門の前にも立てない。なら、上げられるときに上げておきたいんです」


「地道に依頼を重ねても、等級は上がりますよ。あなたの積み方なら、七級まで一年というところかと」


「一年は、長いです」


 地球が消されて、まだ三月かそこらだ。それでもう俺は、写真を見ないと、バイト先の裏の路地の匂いを思い出せなくなっている。向こうが俺を待ってくれる保証は、どこにもない。


「……それに、噂の尾ひれは止められないんでしょう。だったら、実物のほうで追い越しておきたいんですよ。撃退した説も迷惑ですけど、弱いまま的にされるのは、もっと困る」


「ごもっともです」


 ミレーヌさんは受理印を押して、声を半音だけ落とした。


「本年の出場は十二名。籤運が悪いと、初戦で六級と当たります。どうか、ご無事で」





 その足で、訓練場「零の間」を借りた。大会出場者は割引が利くはずだと、フィムが窓口で規約集を振りかざして、本当に一割引かせた。


 顔ぶれは、俺、ガロ、ノア、フィム。目的はひとつ、《誓約》の調教だ。


 丘で取り込んだ直後の、口を開けば片っ端から証文になる、あのひどい状態は数日で落ち着いていた。いまは「誓う」と腹の底で決めた言葉だけが糸になる。それでも、こいつが何をどこまでできて、何をしたら俺が死ぬのかは、どこの帳面にも書いていない。舞台の上で初めて知るのは御免だった。


「よし! で、オレは何をすればいい!」


「的と、審判と、非常時の回収係」


「回収係?」


「俺が変になったら、殴って止めてくれ」


「任せろ!!」


 頼もしいんだか怖いんだか、分からない返事だった。フィムは帳面を構えて記録係に収まり、ノアは俺の正面、いちばん近くに座った。


「……メグルが、へんになったら、よぶ。とめる。まかせて」


 あの丘で、暴走の嵐を凪がせた声だ。この場の誰より頼れる保険だった。


 実験その一。ただ誓うと、どうなるか。


「次の一投で、あの的に当てる。……と、誓う」


 胸の奥で、糸が張られた。ただし、細い。蜘蛛の糸みたいなのが、すう、と一本。投げた小石は的の端に当たって、糸はほどけて消えた。体は軽いまま、力らしい力も湧かなかった。


「記録するよ。『軽い誓いは、安いけど弱い』」


「実験その二。賭け金を積むと、どうなるか」


 アルディアの騎士は、剣に誓っていた。破れば騎士でいられなくなるものを、担保に置く誓い方だ。なら、俺にもできるはずだった。


「この大会への出場を賭ける。外したら、棄権する。……その誓いで、次の一投を当てる」


「ちょっ、キミ、なに賭けて」


 フィムの悲鳴より先に、糸が来た。太い。張られた瞬間、腹の底に薪が一本くべられたみたいな熱が点って、投げた腕が、自分のものじゃないみたいに走った。小石は的のど真ん中を撃ち抜いて、板を割った。糸がほどけたあと、指先がすうっと冷えて、その冷えはしばらく戻らなかった。


「……当たったけど、二度とやらないでよね!? 外したら棄権だったんだよ、いま!?」


「二度とやらん。自分でもそう思った」


 それでも、収穫だった。賭け金の重さが、そのまま力の太さになる。そして力を出せば出すだけ、俺の側から何かが持っていかれる。この界律は、俺の泣き所と存在を焚き木にして走る。


「実験その三。結べない誓い」


 「この大会で優勝する」——これは、駄目だった。口に出しても糸が来ない。言葉が胸の手前で滑って、ただの独り言になって落ちる。


「勝ち負けは、俺の手の中にないからな。博打は証文にならない、と」


「じゃ、じゃあこれは? 『ボクは付き人じゃなくて案内精霊だ』って誓ってみてよ」


「俺の誓いだろ、それ。……『俺は妖精だ』」


 滑った。糸も来ないし、場も白けた。嘘も駄目らしい。《誓約》は、俺が本当にできることしか引き受けない。


「実験その四は、正直やりたくないんだが」


 破ったら、どうなるか。


 ノクスの前で誓いを破られたときの、膝裏を刈られるあの衝撃と血の味は、体がまだ覚えている。ただ、あれが「相手が格上だったから」なのか「破ればいつでもああ」なのかは、軽いやつで確かめておくしかない。


「十数える間、右手を挙げておく。と、誓う」


 糸が張られる。五つ数えて、歯を食いしばって、自分の意思で右手を下ろした。


 見えない鞭が、体の内側から来た。


 両膝が抜けて、床に崩れた。口の中に、うっすらと血の味。張られていた糸が千切れて、千切れた端が中身を引っかきながら縮んでいく。あの夜と同じだ。軽い誓いでこれなら、重いやつを破ったら——考えるのは、やめた。


「メグル!」


「……大丈夫。実験成功だ。『破ると、誓いの重さぶんの鞭が来る』。書いとけ、赤字でな」


 駆け寄ったノアが、俺の顔を覗き込んで、それから黙って背中に手を当てた。とめる係の練習らしい。呼吸がひとつぶん楽になったので、帳面がまた一行増えた。『ノアは効く』。


 日が暮れる頃には、手帳に法則が並んでいた。


 軽い誓いは弱い。賭け金が重いほど強いが、破れば同じ重さの鞭。博打と嘘は結べない。そして文言は、字義通りにしか働かない。……守れる誓いを、ぎりぎりの重さで。たぶんそれが、こいつの唯一まともな使い方だ。


 舞台の隅で、ガロが自分の拳を見下ろしていた。


「どうした。腹減ったか」


「ん? ……いや」


 ガロは一瞬だけ、耳を伏せた。


「界律ってのは、そういうもんなんだな、と思ってよ。オレの知ってる強さと、作りが違う」


 それだけ言って、あとはいつも通りのでかい声で飯の話をした。俺はその一瞬の耳を、見なかったことにした。





 夜、寮の自室で手帳を開いて、初戦までの段取りを書き出しているときだった。


 枕元のスマホが目に入った。画面の時計は、二十時ちょうど。窓の外で、大時計塔が夜の鐘を打ち始めた。


 ……ちょうど?


 手が止まった。このスマホは、地球の一日で回る機械だ。二十四時間で一周する。都市に来て八十日あまり、こいつは大時計塔の鐘と、一度もずれていない。


「なあフィム。この街の一日って、何時間だ」


「二十四時間だよ。鐘が四時間おきに六回。今のが夜の鐘」


「一年は」


「三百六十日。三十日の月が十二回。綺麗でしょ」


 綺麗すぎる。アルディアの一日は、体感でこれより少し短かった。世界が違えば日の長さも年の回りも違う。それが渡り手の常識のはずで、現にフィム自身、遠征先では時計が狂うから気をつけろと言っていた。なのに、世界と世界の狭間に浮かぶこの都市の暦だけが、誰かの定規で引いたみたいに割り切れている。しかも、地球の時計とぴたりと合う。


「その暦、誰が決めた」


「え? だれって……昔から、そうだよ。そういうふうに、揃えてあるの」


「揃えてある。誰が、何に合わせて?」


「…………調べとくね!」


 出た。フィムの「調べとくね」が出たら、その話は当分進まない。俺は手帳の隅に一行だけ書いた。『暦。誰が、何に合わせて揃えた?』。ついでに、もう一行。界門街の門も、誰が作ったのか誰も知らないままだ。作った誰かと、揃えた誰か。同じやつかどうかは知らないが、隣の行に置いておく。書いてから、考えるのをやめた。謎は逃げないが、初戦は明後日だ。





 組み合わせの発表は、翌日の昼、闘技場の前庭だった。


 掲示台に十二枚の名札が掛けられていくのを、出場者と野次馬が遠巻きに囲む。六級以下という資格で、六級で出るのはドルゴただ一人。あとは七級が二人に、八級と九級がずらりだ。フィムいわく、本命は七級の竜人ラガン。寡黙で、去年は決勝までいった男だという。


「ドルゴも本当に出るんだ……。六級が新人大会って、大人げないって、みんな言ってるよ」


「言ってるやつは、あいつの前で言えるのか」


「無理」


 係員が札を掛けるたび、歓声とどよめきが起きた。第一試合、第二試合……俺の名は、なかなか出てこない。そして最後の第六試合の枠に、二枚の札が並んで掛かった。


 空木廻。


 ガロ・ヴァンデール。


 隣で、でかい影がゆっくりとこっちを向いた。見上げると、ガロが笑っていた。牙まで見せた、遠慮のかけらもない、いい笑顔だった。


「メグル!」


「……おう」


「真っ向勝負だ! 小細工はなしだ、全部持って来い! オレは全部で、おまえをぶっ飛ばす!」


 前庭じゅうの野次馬が、一斉に沸いた。噂の八級と、同期最強。初戦から、客の入るカードだった。


(よりによって、初っ端かよ)


 俺は頭をかいて、それから腹を決めて、相棒の目を見返した。


「……そっちこそ、あとで泣くなよ」


 言ってやった。誓いにはしなかった。勝ち負けは博打で、博打は証文にならないと、俺はもう知っている。


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