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忘却世界の渡り手ーー忘れないと決めた男の忘れられる旅  作者: 生サーモン


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【第28話】名前の壁

 朝いちの大時計塔は、扉を入った瞬間から、空気の重さが違った。


 受付広間の奥。名前だらけの石壁の前に、人だかりができていた。だかり、と言っても騒がしさはない。武装した渡り手たちが少し距離を置いて、黙って立っている。誰かが、帽子を胸に当てていた。


 壁の際に細い足場が組まれて、石工の爺さんが鑿を使っていた。かつ、かつ、と短く澄んだ音が、天井の高い広間に響く。壁のいちばん新しい段に、名前が三つぶん、彫り足されていく。


 足場の下の小さな台に、遺品が並んでいた。


 革の背嚢がひとつ。紐の切れた渡り手証の木札が三枚。柄のところで折れた手斧。角の擦り切れた賽子。それで全部だった。三人ぶんの人生の、門が返してよこした分が、台の上に収まっている。


 幾日か前の晩、食堂で聞いた、あの隊だ。遺品の主を確かめて、身寄りを探して、それから石工が呼ばれる。壁に名前が届くまで、七日かかったことになる。


 彫りたての文字を、俺は一字ずつ拾った。読めるようになったのだ、俺は。知らない名前。知らない名前。そして三つ目で、目が止まった。


 ゼフ。


 ……ゼフ?





 顔見知り、と呼ぶのもおこがましい間柄だった。


 ふた月近く前、まだ字も読めなかった頃だ。食堂で依頼札とにらめっこしていた俺の向かいに、勝手に座ってきた渡り手がいた。中年手前の、日に焼けた七級で、麦茶を飲みながら、頼んでもいないのに札の見方を講釈してくれた。


「縁の色より、字を見ろ。字の雑な依頼は、実入りも雑だ。書いた奴が、現場を分かってねえからな」


 なるほどと思って、以来ずっと、その通りにしてきた。もう一度だけ市場で行き合って、会釈をした。それだけだ。名前は、聞かなかった。聞く理由が、そのときは思いつかなかった。どうせまた食堂で会う。ギルドってのは、そういう場所だと思っていた。


 その名前を、いま、壁が教えてくれた。


 手帳を出しかけて、途中で手が止まった。書くのは、あとだ。鑿の音が終わるまでこの場にいるのが、筋という気がした。


 肩の上で、フィムが羽根をたたんだまま、小さく言った。


「……ゼフさんの担当精霊、ボク、知ってるんだ。今日から、待機所に戻るんだって。次の渡り手が付くまで、ずっと待機所」


 それきり、フィムは黙った。俺も黙った。


 人だかりの後ろのほうに、見上げるような影があった。


 ドルゴだった。岩の巨体で腕を組んで、壁を見ていた。目が合って、そらすのも妙なので、俺は小さく頭を下げた。向こうは下げなかった。代わりに、岩の擦れる声が降ってきた。


「英雄サマも、朝から殊勝なこった」


「……知ってる人だったんです。少しだけ」


「ゼフか」


 即答だった。


「札の目利きだけは確かな男だったよ。目利きでも、死ぬがな」


 突き放した言い方のわりに、ドルゴの目は、壁の新しい三つの名前から動かなかった。それから、独り言みたいに続けた。


「この壁のな、下から三段目のあたりに、俺の同期が並んでる。十五年もやってると、どのへんに誰がいるか、そらで言えるようになるんだよ。……英雄サマ。あんたの同期は、まだ壁にいないんだろう」


「いません」


「なら、あんたはまだ、何も知らんのと同じだ」


 予言でも忠告でもない言い方だった。巨体が床を鳴らして離れていって、俺はもう一度、壁を見上げた。読めない高さまで、名前は続いている。何百か、何千か。この壁の前で、あの男は十五年ぶんの朝を過ごしてきたわけだ。


 嫉妬だよ、といつかフィムは言ったが、やっぱり俺には、それだけとは思えなかった。





 鑿の音が終わって、人だかりがほどけはじめた、ちょうどそのときだった。


 広間の隅の酒場から、破裂するみたいな歓声が上がった。


 振り向くと、埃と泥で武装が灰色になった一団が、朝の酒場になだれ込むところだった。五人。全員、自分の足で立って歩いている。卓が寄せられ、朝メシの皿と杯が、ものすごい勢いで並びはじめる。


(……壁の前で、宴会かよ)


 正直、むっとした。三歩ぶんくらいは。


 その三歩の間に、一団のひとり——ずんぐりした中年の男が、俺を見つけて手招きした。知らない顔だ。断る間もなく腕を掴まれて、卓に引き込まれた。


「おう、撃退の坊主だろ。顔でわかった。まあ座れ」


「撃退は、してないんですが」


「知ってるよ。完敗して見逃されたんだろ? 酒場じゃ有名だぜ、正直な英雄ってな」


 前歯が一本ない笑顔だった。訂正して回った甲斐が、変なところで出ていた。


 男たちは、三十日の長期依頼から今朝戻ったのだという。まず五人全員が、杯を持って立った。騒ぐのかと思ったら、違った。全員が壁のほうへ体を向けて、無言で、杯を目の高さに掲げたのだ。


 三つ数えるくらいの、短い静けさだった。それから杯をあおって、あとは朝から見たことのない騒ぎになった。


「……いいんですか。その、今朝、名前が増えたばかりで」


「いいも悪いも」


 男は皿の芋を口に放り込んで言った。


「壁の前だから、やるんだよ。刻まれた連中はもう祝えねえ。なら、帰った奴が倍うるさく祝うしかねえだろ。しんみりした酒なんか供えられても、あっちも困らあ」


「……そういうもんですか」


「そういう流儀なんだよ、ここは」


 ゼフの名前も、一度だけ卓に上った。酒はからきしのくせに宴会にだけは律儀に顔を出して、隅で麦茶を飲んでいた男。笑い話がひとつ転がって、誰かが「いい目利きだった」と言って、それで次の話題に移った。


 早いな、と思った。思ったのが顔に出ていたらしい。前歯の男が、杯越しに俺を見た。


「引きずるとな、次の門が重くなるんだよ。……薄情とも言うがな」


 自分で言って、自分で笑った。笑いながら、その目が一瞬だけ壁のほうを向いたのを、俺の目は拾ってしまった。なるほど。薄情なもんか。この連中は、引きずらないための稽古を、たぶんあの壁の名前の数だけ積んでいる。


 途中からガロが匂いにつられて合流し、飯の量で場の主導権を握った。ノアは朝から保護院の日直で、ここにはいない。ガロが芋の包みをノアの土産にせしめる頃には、俺はこの隊の顔ぶれを覚えはじめていた。罠師だという双子の姉妹。無口な髭の爺さん。そして、前歯の男。


「あんたの名前、聞いていいですか」


 帰り際に、俺は聞いた。聞ける名前は、聞けるうちに聞く。今朝、壁の前で決めたばかりの、俺の新しい掟だ。男は目をぱちくりさせて、それから歯抜けの笑顔になった。


「ムンドだ。九級のムンド。……なんだ坊主、帳面に付けるのか」


「付けます。人の名前は、書いて覚えることにしてるんで」


「几帳面な野郎だ!」


 双子は「あたしらは双子でいいよ」と笑うので、そこは『双子(罠師・姉妹)』と書くことにした。名前は、また今度だ。次がある、と思うことにした。思った先から今朝の壁が頭をよぎったが、それでも、思うことにした。





 昼過ぎ、静かになった広間の隅で、俺は手帳を開いた。


 新しい頁に、ムンド。双子。髭の爺さん、名前不明、要確認。それから頁を変えて、少しだけ迷って、書いた。


 ゼフ。札の目利き。字の雑な依頼は、実入りも雑。


 生きているうちに聞けなかった名前が、俺の帳面に初めて載った。壁の彫りたての文字を思い出しながら、一画ずつ、丁寧に書いた。


 あの石壁は、都市の帳面だ。帰らなかった渡り手の名前を、都市が忘れないために刻む。なら、こっちはそれの、ちんまりした弟分ってことになる。壁に載らない名前——よその世界で会った、俺のほうだけが覚えていく側の名前まで拾うぶん、守備範囲だけは、あの壁より広い。


 俺の手帳は、俺の壁だ。


 書き終えて顔を上げると、ちょうどミレーヌさんが壁の前の台の花を、新しい一輪に差し替えているところだった。事務のついで、みたいな顔でだ。目が合うと、いつもの柔らかい微笑みだけ寄越して、受付へ戻っていった。


 この街は、そういうふうにできているらしかった。





 帰りがけ、掲示板の前で足が止まった。


 新人大会の告知。大判の木札の隣には出場受付の紙が下がっていて、名前が着々と増えている。締切まで、まだ日はある。


 名前ってのは、売れるほど的がでかくなる。ドルゴの言い分は、たぶん正しい。売れた名前がどこへ行き着くのかも、今朝の壁で見た。


 それでも、だ。弱いまま噂だけが先に走っていくほうが、よほど分が悪い。上の門は開かないままで、的の大きさだけが育っていく。なら、中身のほうで名前に追いつくしかない。等級ってやつは、そのための、いちばん手っ取り早い階段だ。


 届は、まだ出さない。あの物騒な同居人を人前の舞台に上げていいと、自分で信じられるようになってからだ。それまでに、零の間に通う回数を数えるのはやめておく。筋肉痛の請求書とは、当分つき合いが続く。


 締切の日付を、俺は一字ずつ読んだ。


 ふた月前は、この掲示板の前で、フィムに読み上げてもらう側だった。


 ……次は、書く側だ。出場受付の紙に、自分の名前を。


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