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忘却世界の渡り手ーー忘れないと決めた男の忘れられる旅  作者: 生サーモン


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【第27話】誓いの筋肉痛

 朝いちばんの零の間は、霧の中だった。狭間に張り出した黒い足場の縁を、灰銀の霧がゆっくり舐めている。寒い。おまけに縁が見えない。落ちたら死ぬ訓練場で、どこまでが床か分からないのは、控えめに言って心臓に悪かった。


「朝一番の枠はね、半額なの!」


 フィムが胸を張った。安さの理由が、全部景色に書いてあった。


「それとね、じゃーん! こっちも見て! 訓練道具、一式!」


 足場の隅に、戦利品が並んでいた。的板が三枚。よく見ると、酒場の古看板の裏板だ。木剣が二本、柄の太さが左右で違う。革の胸当てがひとつ、右半分が盛大にへこんでいる。


「市場のガラクタ屋で、二十枚のところを十二枚まで値切ったんだから!」


「このへこみは、何があったんだ」


「聞かない約束で、二枚引かせた!」


「聞きたくなくなったな……」


 へこんだ胸当てを着けるのは、言い出しっぺの俺だ。大会の告知から数日。出場届は、まだ出していない。出たい理由は揃っている。等級、その先の門、地球。足りないのは、確かめのほうだった。


 《誓約》。あの丘で身の内に入った、物騒な同居人。人前の舞台に連れて上がっていいのかどうか、俺はまだ、こいつのことをほとんど知らない。だからまず、体を動かしながら様子を見る。相手はもちろん、決まっていた。


「よし、メグル! 来い!」


 ガロが木剣を肩に担いで、犬歯を見せた。朝メシを二人前平らげてきた男は、霧の寒さなど素通りらしい。


 結果から言うと、午前中いっぱいで、俺は三十何回か転がされた。


 途中から数えるのをやめたので、正確な回数はフィムの帳面にしかない。あいつは律儀に正の字をつけていた。経費の帳面に俺の敗北を記録するな。


(試験の頃より、差が開いてないか……?)


 開いているのだ、実際。ガロは毎日でかい飯を食って、毎日稽古している。俺は遠征で妙な力を拾ってきただけで、体のほうは相変わらずのもやしだった。界律は筋肉の代わりにならない。当たり前のことが、転がるたびに骨身に沁みた。





 昼の鐘が鳴った頃、ガロが木剣を下ろした。


「飯にするぞ。おまえ、そろそろ折れる」


「……もうちょいだけ」


「もうちょい、が三回目だぞ」


 正論だった。正論だったが、このまま昼にしたら、午後の俺は絶対にぬるくなる。分かるのだ、自分のことだから。二十年つき合ってきた俺という男は、逃げ道があると、そっちへ歩く。


 なら、ふさぐことにした。


「ガロに一本当てるまで、稽古をやめない。——と、誓う」


 言い終わるより先に、胸の奥で、すう、と糸が張られた。


 細い糸だ。力はくれない。腕が速くなるわけでも、目が良くなるわけでもない。ただ、俺の背中側にあった「やめる」という扉が、音もなく閉まったのが分かった。


「ちょっ……キミ、いま何した!?」


「退路を断った」


「界律で断つ人がある!? 一生当たらなかったらどうするの!? 破ったら鞭なんだよ!?」


「だから破らない。当てて終わらせる」


 フィムが帳面を抱えて何か叫び続けていたが、ガロのほうは、にやりと笑った。


「言ったな、メグル」


「言った」


「なら、わざと食らうのは無しだ。おまえの目が本物になるまで、オレは付き合う」


 こういうところが、この男だった。手加減して当たらせてやる、という選択肢が浮かびもしない。俺の誓いを、俺の言葉のまんまの重さで受け取る。ありがたくて、恨めしかった。





 昼の鐘から夕の鐘まで、何があったかは、あまり語りたくない。


 語れることだけ並べる。まず、一本は遠かった。ガロは飯を抜いたぶんだけ機嫌が悪く、機嫌の悪い獣人は強かった。次に、誓いは有能な看守だった。転がされて、膝が笑って、少し座って休もうとするたび、膝が勝手に伸びて俺を立たせた。俺の体のくせに、俺より誓いの言うことを聞く。


(休むのは「やめる」に入るのかよ……!)


 入るらしかった。文言を決めたのは俺だ。文句を言う先がない。


 それから、糸は張られているだけで、俺の中身を少しずつ齧った。指先が、冷える。丘のあとの、あの薄れの手前みたいな冷え方だ。派手に燃やしてはいない。ただ、蝋燭の火を点けっぱなしにしている感じが、ずっとある。界律ってやつは、待たせるだけでも金を取るらしい。


 夕の鐘の少し前に、ノアが来た。


 保護院の手伝い帰りだ。ノアは週の半分、昔の古巣に通っている。中庭の花の水やりと、ちびたちの相手。三年世話になった場所への、あいつなりの筋の通し方らしい。


 ノアは足場の隅のフィムの隣に座って、しばらく黙って見ていた。それから、ぽつりと聞いた。


「……メグル、まだ?」


「まだらしい」


「そう」


 応援とも催促ともつかない間で、ノアは膝を抱えた。観客がひとり増えて、看守は相変わらず俺を立たせる。全身はとっくに鉛で、なのに視界だけが、妙な具合に澄んでいった。


 力で行くのは、とっくに捨てた。速さも論外。残っているのは、目だけだ。


 ガロの木剣を、受けずに、見る。踏み込みを、剣筋を、肩を、顔を。転がされながら、拾って、並べて、待つ。


 ——瞬き。


 打つ直前に、一回だけ。試験前の品定めで拾った、あの癖。まだ、直っていなかった。


 次の打ち込みの、瞼が落ちた一瞬に、俺は前へ出た。へっぴり腰の、我ながらひどい踏み込みだった。それでも柄の太さの違う木剣の先は、ガロの脇腹を、ぺち、と叩いた。


「——当たったな」


 ガロが動きを止めて、自分の脇腹を見下ろした。


 胸の奥で、糸がほどけた。


 膝から下が、期限切れみたいに消えた。俺は前のめりに崩れて、床の黒い石に頬をつけた。冷たくて、気持ちよかった。夕の鐘が、どこか遠くで鳴っていた。


「メグル!?」


「……生きてる。生きてるが、当分このままでいい」


 駆け寄ったノアが、俺の顔を覗き込んで、床と俺を見比べた。


「……ゆか、つめたい」


「いま、それがうまいんだ」


「……そう」


 解せない、という顔のまま、ノアは俺の隣にしゃがんで、待っていてくれた。


 ガロは木剣を担ぎ直して、倒れた俺を見下ろしていた。


「いまの、どこで拾った」


「おまえ、打つ直前に一回だけ瞬きする。試験の前に言ったろ。……まだ直ってないぞ、それ」


「……なにっ」


 ガロは目をまるくして、それから、でかい声で笑った。笑って、笑いの尻尾のあたりで、耳が半拍だけ寝た。


「おまえ、足が死んでからのほうが、目が良くなってたな。……変な奴だ」


「誓いが立たせてたからな。目しか残ってなかった」


「そうか」


 短い返事だった。次の瞬間にはもう、いつもの音量で「飯だ! 今日は倍食うぞ!」と吠えていたから、俺はさっきの半拍を、深くは考えなかった。考える燃料も、残っていなかった。





 翌朝、俺は体が石膏で固められている夢から覚めた。


 夢ではなかった。全身が、筋肉痛だった。


 太腿、脹脛、背中、腕、握力、あと存在を知らなかった脇腹の奥の筋。指を折って数えようとして、指を折る筋も痛いことが分かった。誓いは大したもんで、体の限界なんてものを一切確認せずに、俺を立たせ続けた。その請求書が一晩遅れで、全部まとめて届いたわけだ。


「うわあ……メグル、おじいちゃんみたいだよ……」


「うるさい。……フィム、悪いが軟膏か何か」


「もう買ってきた! 薬屋で二枚! 効くやつだって!」


 こういうときのフィムは、本当に早い。経費にはうるさいが、要るものを値切って揃えてくる腕は、そこらの案内精霊の誰より立つと思う。


 部屋の戸口から、ノアが顔を覗かせた。保護院へ出かける前の寄り道らしい。棚の押し葉と蜜煮の壺の位置を毎朝直してから出かけるのが、あいつの日課だと最近知った。ノアは寝台の上の置物になった俺をしばらく眺めて、首を傾げた。


「……こわれた?」


「壊れてない。筋肉痛っていう、生きてる証拠だ」


「きんにくつう」


 ノアは初めて聞く菓子の名前みたいに繰り返して、覚えた、という顔で頷いて、出かけていった。


 俺は天井を見たまま、あとで手帳に書く一行を決めた。『誓いは、体の帳簿を見ない。請求は翌朝来る』。





 夕方、ようやく人の形に戻った俺は、フィムと食堂へ下りた。


 下りて、すぐに気づいた。いつもより、静かだ。飯の匂いも人の数も変わらないのに、笑い声の背が低い。隅の卓に渡り手が数人、頭を寄せていた。切れ切れに、声が届いた。


「第一界圏の、護衛の隊だとよ」


「三人組の。……遺品だけ、返ったって」


「門から、か」


「ああ。今朝がた、門から」


 遺品だけが、返る。


 肩の上で、フィムの光が少しだけ細くなった。俺は声を落として聞いた。


「……どういうことだ、それ」


「遠くで渡り手が死ぬとね、その人の荷物が、門から返ってくるの。……ギルドはそれで、知るんだ。ああ、帰らないんだ、って」


 フィムにしては、短い説明だった。短くしか、言いたくないんだと思う。


 筋肉痛の残りが、腿の奥でまだ鈍く痛んだ。ゆうべまで恨めしかったその痛みが、急に、悪くないもののように思えてきた。痛むのは、生きてる側だけだ。


「……近いうちに、壁に、名前が増えるね」


 フィムがぽつりと言った。壁。大時計塔の一階の、あの名前だらけの石壁のことだ。


 窓の外で、夜の鐘が鳴り始めた。六つの音はいつも通りに揃っていて、いつもより低く聞こえた。


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