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忘却世界の渡り手ーー忘れないと決めた男の忘れられる旅  作者: 生サーモン


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【第26話】凱旋の値段

 大時計塔の受付広間で、「有名人です」の意味を、俺は扉から三歩で思い知った。


 視線が刺さる。依頼掲示の前にたむろした渡り手たちが、こっちを見てはひそひそやっている。聞こえてくる断片が、また景気よかった。


「あれだろ、例の。八〇三界の」


「新人が剪定官を撃退したって話、あれか」


「素手で投げたらしいぜ」


(……撃退? 投げた?)


 誰の話だ。俺の記憶にあるのは、誓いの壁を紙みたいに破られて、膝の裏を刈られて、手首を掴んで検分された挙句に見逃された男が一人いるだけだ。あの夜のどこを切り取れば撃退になるのか、編集した奴の腕前を教わりたい。


「訂正して回ったほうがいいですかね」


 受付で小声で聞くと、ミレーヌさんはにこやかに首を振った。


「無駄です。噂は依頼より足が速いので。ちなみにわたしが今朝までに耳にしただけでも、撃退した説、投げ飛ばした説、地球式の交渉術で説得して帰した説がございます」


「説得って何ですか」


「わたしが伺いたいくらいです。……あと、一睨みで灰色の獣の群れを帰した説も、先ほど届きました」


「俺の目から何が出てるんですか、それ」


「さあ」


「そもそも、どこから漏れてるんですか。審査の記録って」


「非公開です。ただ、酒場は非公開ではありませんので」


 隣で、ガロが胸を張った。


「おう! 語ったぞ! 相棒の武勇伝だからな、盛らずに、あったまんまをな!」


「おまえか!」


「あったまんまだぞ!?」


 あったまんまが、酒場を三軒経由すると撃退になるらしい。三千世界、どこへ行っても伝言ゲームの精度は変わらない。


 厄介なのは、噂の主語がひとつしかないことだった。


「なあ、そこのでかいの。あんた、付き人か? 器持ちってのはどっちだ」


 顔も知らない渡り手が、ガロに聞いた。ガロは一拍だけ黙って、それから、いつものでかい声で笑った。


「オレは相棒だ! 付き人はこっちの光るのな!」


「ボクは案内精霊! 役職があるの!」


 フィムが噛みついて、広間に笑いが起きて、その話はそれで流れた。流れたが、俺はガロの一拍の間のほうを覚えていた。アルディアの砦じゃ、芯呼びの手柄はガロのものになった。都市では逆に、あいつの働きが俺の噂に吸われていく。どっちも、本人の知らないところで、勝手にだ。


(……貸し借りの帳尻が、ぐちゃぐちゃだな)





 絡まれたのは、依頼札を選んでいるときだった。


「よう。英雄サマもお仕事かい」


 岩を擦り合わせたみたいな声だった。振り向いた先、いつも人の顔がある高さに、胸があった。顔はさらに上だ。灰茶色の、ひび割れた岩肌みたいな皮膚の巨漢が、掲示板の灯りを半分塞いで立っていた。首から下がった等級札は、六級。


「ド、ドルゴさんだよ」


 フィムが俺の襟の裏に隠れて耳打ちした。


「石殻の民の。六級で、その、長いんだ……六級が」


「十五年だ」


 地獄耳だった。ドルゴと呼ばれた巨漢は、俺の手から依頼札をひょいと抜き取り、岩の指先でつまんで眺めた。


「八級の、倉庫番の護衛。ずいぶん慎ましいな、え? 剪定官殺し」


「殺してないです。撃退もしてないです。完敗して、向こうの都合で見逃されました」


「謙遜まで覚えたか。ますます英雄だな」


 何を言っても燃料になる相手というのはいる。こういうときは黙るに限る。ドルゴは札を音を立てて掲示板に戻すと、身をかがめて、俺の目の高さまで顔を下ろしてきた。岩の割れ目みたいな目だった。


「拾いもんの力で名前だけ売れてく若いのを、俺は十五年で何人も見た。どいつも似た顔をしてたよ。おめでたい顔だ。……で、だいたい門の向こうで死ぬ。名前ってのはな、売れるほど的がでかくなるんだよ」


「忠告どうも」


「忠告じゃねえ。予言だ」


 巨体が離れて、床を鳴らして広間を出ていった。フィムが襟の裏から顔を出して、ぷりぷりと震えた。


「感じわるーい! 嫉妬だよ、あんなの!」


 嫉妬。だといいんだけどな、と思った。あの目は、俺を羨んでる目というより、何かの答え合わせを待ってる目に見えた。





 帰還から六日目の午後は、引っ越しだった。


 ノアが保護院を出て、ギルド寮の別棟に移る日だ。《誓約》の契約者は随行員として寮に入れる——という規則を、フィムが台帳の隅から三日がかりで掘り出してきた。八級の俸給と、アルディアの報酬。財布はいま、人生でいちばん健康だった。


 ノアの荷物は、布包みがひとつだけだった。着替えと、櫛と、保護院の中庭の花を挟んだ押し葉。三年暮らして、それで全部だという。俺は何も言わずに、包みを片手で持った。軽さが、そのまま三年の中身だった。


 部屋は二階の角で、窓から灯樹の並びが見えた。寝台と、机と、空っぽの棚。ノアは敷居の上でしばらく止まってから、部屋の真ん中まで歩いて、ゆっくりと一回転した。


「……ここ、わたしの?」


「おまえの部屋だ。家賃は俺の依頼から天引きだけどな」


「わたしの」


 ノアはもう一回、回った。それから窓辺に立って、棚に触って、寝台の端にちょんと座った。ひとつずつ、順番に、確かめるみたいに。


「保護院は、みんなの部屋だった。ここは、わたしの」


「そういうこと」


「……ん」


 口元が、ほんの少しだけ柔らかくなった。笑顔と呼ぶには、まだ全然足りない。でも、方向は合ってる。俺はスマホを出して、窓辺のノアを一枚だけ撮った。三年ぶん遅刻した、引っ越し祝いだ。


 ノアは布包みをほどくと、押し葉を棚の真ん中に、そっと置いた。空っぽだった棚に、最初のひとつ。それから一歩下がって、置き場所が正しいかどうか、真剣な顔で検分していた。


 夕方、部屋に足りないものを買いに、市場通りへ出た。毛布と、灯りの油と、湯呑み。買い物の途中で、ノアの足が、ふいに止まった。


 琥珀色の壺を並べた屋台だった。小指の先ほどの果実を蜜で煮たのが、壺にぎっしり詰まっている。試し売りの木匙を差し出されて、ノアはそれを口に入れて、止まった。目が、まん丸になっていた。


「……あまい」


「だろうな。蜜煮だし」


「あまくて、すこし、すっぱい。……すき、これ」


 好き、ときた。屋台の婆さんが「お嬢ちゃん、いい舌だね」と笑って、俺は壺をひとつ買った。フィムが「よ、予算……」と口を開きかけて、やめた。あの妖精なりに分かってるんだと思う。これは出費じゃなくて、記念日の類いだ。


 帰り道、ノアは壺を胸に抱えて歩きながら、ふいに俺を見上げた。


「メグルの、すきな食べものは、なに?」


 危うく、毛布を落とすところだった。ノアが、自分から、俺に聞いたのだ。三年間、聞かれたことに短く答えるだけだった子が、だ。


「……駅の裏の、立ち食い蕎麦。バイト帰りに食ってた」


「そば。それ、市場に、ある?」


「ないな。地球の飯だ」


「……さがす。にてるやつ」


 ノアは壺を抱え直して、市場の並びを端から順に見ていった。その横顔にもう一度だけスマホを向けかけて、やめた。撮らなくても、これは忘れない。


 寮に戻ると、ノアは蜜煮の壺を、押し葉の隣に並べた。棚の住人が、ふたつになった。





 その晩、大時計塔の掲示板に、大判の告知が貼り出された。


 見つけたのはフィムだった。寮の食堂に光の尾を引いて飛び込んでくるなり、告知の文言を丸暗記で読み上げた。


「新人大会、開催! 出場資格は六級以下の渡り手! 場所は闘技場、三日間の興行! それでね、それでね、優勝者は——」


 フィムはそこで勿体をつけて、羽根を震わせた。


「等級、特進!」


 食堂が、ざわりと揺れた。若い渡り手たちが沸き立つ中で、俺は夕飯の匙を置いた。


 等級。八級の札でくぐれるのは、第一界圏の門まで。界門街の奥の、静かで厳重な門の列は、いまの俺には壁の絵と変わらない。地球に繋がる何かがあるとすれば、それは間違いなく、あの奥だ。


 特進の二文字が、頭の中で、あの閉じた門の列と繋がって鳴った。


 隣でガロが、椀を置いて立ち上がった。


「出るぞ、オレは! 決めた!」


 即断だった。迷いのなさが気持ちいいのは、いつも通りだ。ただ、その目がちらりとこっちを見て、俺の返事を待っているのも分かった。


「……メグル、出るの?」


 ノアが、蜜煮の壺を抱えたまま、俺を見上げていた。


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