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忘却世界の渡り手ーー忘れないと決めた男の忘れられる旅  作者: 生サーモン


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【第25話】異物

 燃える夕空から、灰色の外套は、音もなく丘へ降りてきた。


 碑から二十歩の斜面に、着地の衝撃ひとつなく立つ。白い仮面。目も口も線一本の、のっぺりした白。丘の上の全員が、上げかけた勝ち鬨を喉の奥へ呑み込んだ。


 剪定官ノクス。


「第八〇三界」


 帳面を読み上げる、あの声だった。


「予兆の消失を確認。……原因の検分に、移行する」


 仮面が、まっすぐ俺を向いた。


 次の瞬間、俺の足は勝手に前へ出ていた。恐怖で竦むより先に、体の中の《誓約》が、俺を碑と灰色の外套の間に立たせたのだ。この丘は誰にも刈らせない。口に出した言葉は、もう戻せない。


(……都合のいいときだけ、勤勉だなおまえ)


「メグル! 下がれ!」


 ガロの声を背中で聞きながら、俺は薄れた指先を握り込んだ。勝てるとは思っていない。特級のヴァンでさえ、こいつと正面からやり合うことは選ばなかったのだ。それでも、素通りだけは、させるわけにいかなかった。


「あんたは、通さない」


 誓った。胸の奥で何かが燃えて、俺とノクスの間の空気が、見えない壁の厚みを持った。


 ノクスは、歩いた。


 ただ、歩いた。俺の誓いの壁は、蜘蛛の巣ほどの抵抗もできないまま、外套の胸のあたりから裂けて、破れた。


 反動は、俺に返ってきた。


 誓いが破られるというのは、こういうことか。膝の裏を薙がれたような衝撃と、口の中に広がる血の味。立っていられずに片膝をついた俺の前で、灰色の外套が止まった。


「動くな」


 動けなかった。言われたからじゃない。指一本ぶんの隙もなく、格が違ったからだ。ノクスは屈み、俺の右手首を取って持ち上げた。透けた指先を、仮面の白がじっと検分する。値踏みでも、憐れみでもない。帳面と現物を突き合わせる、あの手つきだった。


 外套の中から、灰色の板が覗いた。仮面がそれを一瞥し、また俺を見る。手首を掴む指から、氷みたいな冷たさが染みてくる。俺の中の《誓約》が、毛を逆立てる犬みたいに震えるのが分かった。こいつは、俺ごしに、俺の中身を検分している。


「……返さねえよ」


 掠れた声で言った。誓いにはしなかった。する余力が、なかった。ただの、地球式の悪態だ。


 仮面が、止まった。


 長い、長い静止だった。やがて、ノクスは俺の手首を放した。


「……異物」


 立ち上がり、外套を翻す。


「だが——空では、ない」


 から、と読んだのか、そら、と読んだのか。その一語は、妙に深いところへ刺さって残った。


 空では、ない。器の話をされた気がした。だとしたら、中身は何だ。丘で呑んだ界律か。それとも——変なものを入れるな、と鑑定の婆さんは言った。もう入っているんじゃないだろうな、その変なものが。


「第八〇三界、剪定予定を改定。……保留とする」


 それだけ言って、灰色の外套は夕空へ浮かび、燃える茜の中へ、点になって消えた。


 斜面のあちこちで、生き残っていた灰色の獣が、風に崩れる砂山みたいに、ほどけて消えた。今度こそ、丘の上に歓声が爆ぜた。俺は片膝をついたまま、動けなかった。


「……保留、だってさ」


「勝った、んですか。俺たち」


「勝ってはいないね。延期だ。……中止とは、言わなかった」


 ヴァンは夕空の一点を見たまま、それきり黙った。





 それから五日、俺たちは砦に残って、柵の建て直しと怪我人の世話を手伝った。


 空は日ごとに色を深くした。花畑には黄色が戻り、夕焼けは毎晩、火事になった。そして、それと同じ速さで、砦の人たちの目から、俺が薄れていった。


 最初は、洗い場で若い兵士に会釈されなかった。それだけだった。次の日、廊下で三度すれ違った補給係に、三度とも初対面の顔をされた。芯呼びの礼を言いに来た弓兵の隊長は、ガロの前で深々と頭を下げた。あんたが教えてくれた胸の芯のやつ、隊の宝にする、と。


「……おい、それを考えたのは」


 ガロが言いかけて、俺は左手で止めた。弓兵の隊長は不思議そうな顔で、もう一度ガロに礼をして、去った。ガロの拳が、震えていた。


「なんでだよ。なんで、止めるんだよ」


「あの人たちのせいじゃない。……俺の、値段の続きだ」


 ヴァンには、丘の夜のうちに聞かされていた。界律を身の内に容れた者は、その世界の勘定から外されていく——人の物覚えの問題じゃなく、世界のほうが、俺を忘れていくのだと。狭間にある都市だけは、薄れないという。


 出立の朝、砦の門前で、セシル隊長が待っていた。


 ガロの前に立ち、騎士の礼を取る。ガロ・ヴァンデール殿、貴殿の武勇は騎士団の誇りです。ノアの前では膝を折り、目線を合わせる。ノア殿、あなたの勇気を忘れません。そして、俺の前に来て。


 止まった。


「……渡り手殿」


 名前が、出てこないのだ。あの生真面目な人が、失礼を詫びる角度に頭を下げて、それから、腰の物入れから手帳を出した。


「お恥ずかしい話です。この五日、何度伺っても、貴殿の名が留まらないのです。書いても、朝には墨が薄れている。……ですから、こう書きました」


 開かれた頁に、几帳面な字が並んでいた。


 ——名を知らぬ恩人へ。この砦は、誓いを忘れない。


「名は薄れます。ですが、丘は残りました。あの空の色も。この手帳が朽ちても、わたしどもの誓いが、貴殿を覚えています」


「……宛名、それで十分です」


 軽口の続きが、出てこなかった。格好いいことを言うと誓いになりそうなんで、と笑ってみせるまでに、たっぷり三呼吸かかった。セシル隊長は最後にもう一度、深く騎士の礼を取った。


 門を出たところで、ピノが待ち伏せていた。


「にいちゃんたち、もう行っちゃうの!?」


 にいちゃん、たち。俺の名前は、もうそこにない。ピノは宝箱の蓋を開けて、中の写し絵を見せてくれた。飴色の板の中で、囲炉裏の前の全員が笑っている。ただ、端の一人だけ、靄がかかったみたいに滲んで、顔が分からなくなっていた。


「ここだけ、へんに滲んじゃった。……ねえ、これ、だれだっけ。だれかに、もらったんだ。すごくだいじなやつなのは、おぼえてるのに」


 しゃがんで、目の高さを合わせた。滲んだ男は、我ながら間抜けな立ち方をしていた。


「大事なのが分かってるなら、それでいい。箱ごと、大事にしろ」


「うん!」


 ピノは全力で頷いて、宝箱を抱え直した。それでいい。あの一枚は、俺のためじゃなく、おまえのために焼いたんだ。





 界門は、丘の麓の古い石組みの中で、静かに光っていた。


 くぐる寸前、一度だけ振り返った。青い空。緑の戻った草原。豆粒みたいなグレンヴェル砦の壁の上で、誰も、こっちに手を振っていなかった。みんな、もう仕事に戻っている。それが正しい。世界は、続いていくのだから。


(……これが、渡り手の給料の内ってわけだ)


 続けるつもりだった軽口は、形になる前に、どこかへ行った。


 門の光の中を、俺は前だけ見て歩いた。振り返らないことに、持ち合わせの全部を使った。誰も、何も言わなかった。ガロのでかい手が一度だけ、俺の頭に乗って、離れた。


「……帰ったぞ、メグル」


 それだけ言って、あとは黙っていてくれた。ノアは反対側で、俺の袖を、都市に着いてからもしばらく放さなかった。


 界門街の喧噪と、灯樹の暖色が、俺たちを迎えた。


「はーっ! 生き返る! 都市の理、おいしい!」


 フィムが胸ポケットから飛び出して、灯樹のまわりをきりもみに三周した。検問の門番が名簿も見ずに「おかえり」と手を挙げ、市場通りに入ると、串焼き屋台の竜人の親父が、うろこ顔をほころばせた。


「おう、メグルの兄ちゃん! 生きて帰ったか!」


 ……声が出るまで、少しかかった。名前を呼ばれただけで、こんなにか。


「五本ください。焦げてるとこ多めで」





 夕方、ノアを保護院まで送った。


 中庭には、どの世界のものでもない花が、名前も分からないまま咲いていた。初めてノアに会った、あの中庭だ。


 その中庭の真ん中で、ノアは立ち止まって、振り向いた。


「メグル。……おねがいが、ある」


「ん?」


「わたしと、誓って」


 まっすぐな目だった。丘で碑に触れた、あの目だ。


「セシルは、わすれた。ピノも。……わたし、しってるの。わすれるのが、どういうことか。わすれられるのが、どういうことか。だから」


 ノアは胸の前で、小さな両手を握った。


「世界がわすれさせようとしても、まけない誓いが、ほしい」


「……いいのか。誓いは、縛るぞ。俺の《誓約》は、たぶん普通の誓いより性質が悪い。おまえの何かを、代金に取るかもしれない」


「いい。……きめてる」


 三年間、好きも嫌いも言わなかった子にこうまで言われて、断れるやつがいたら連れてきてほしい。


 俺はノアの前にしゃがんで、小さな手を取った。《誓約》が胸の中で、静かに耳を澄ましているのが分かった。


「わたしは、メグルを、わすれない」


「俺は、ノアを忘れない。……どこの世界に行っても、だ」


 言葉が重なった瞬間、あたたかいものが、繋いだ手の中で結ばれた。


 丘で暴れたあの嵐とは、まるで違った。糸は俺の中から引き抜かれるのではなく、俺とノアの間に一本、静かに渡された。指先がまた少し冷えた気がしたが、惜しいとは、これっぽっちも思わなかった。


 ノアは、繋いだままの手を、しばらく見下ろしていた。


「……あったかい」


「そりゃ何よりだ」


「ん。……これで、わたし、わすれない。世界が、なんて言っても」





 翌朝、遠征完了の届けを出しに、大時計塔のギルド受付へ行った。


 扉をくぐった瞬間、広間の空気が変わった。依頼掲示の前の渡り手たちが、一斉にこっちを見たのだ。ひそひそ声が、さざ波みたいに広がっていく。


(なんだ? 俺の顔に、何かついてるか)


 受付では、ミレーヌさんがいつもの柔らかい顔で待っていた。


「おかえりなさい、皆さん。第八〇三界の依頼、完了を確認しました。……それと、審査が下りています」


 差し出された木札は、見慣れた青ではなかった。


「特級ヴァン様の報告と現地での功績により、空木廻さん、ガロ・ヴァンデールさん、本日付で八級です。おめでとうございます。八級のお仕事の死亡率は、九級のおよそ三倍になります」


「祝いと脅しを同じ息で言うの、やめてもらえます?」


「事実のご案内です」


 ガロが木札を天井にかざして吠え、フィムが報酬の明細を抱えて感涙し、ノアがその横で、札と俺の顔を交互に見ていた。悪くない朝、のはずだった。


 ミレーヌさんが、少しだけ身を乗り出して、声をひそめるまでは。


「……ところで、大変ですよ。あなたたち、いま、この都市で有名人です」


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