【第24話】誓約
碑に触れた右手から、千年ぶんの声が流れ込んできた。
声、としか言いようがない。畑を守る。子を育てる。嫁を泣かせない。兄より強くなる。この橋を、落とさない。……誰のものとも知れない小さな誓いが、何百、何千と束になって、腕を駆け上がってくる。国じゅうの誓い石は碑の子だと、セシル隊長は言っていた。逆だったのかもしれない。国じゅうで結ばれた誓いが千年、この石へ流れ込み続けていたのだ。
束のいちばん奥に、ひときわ古くて、太い声があった。
我、この地を護る。
それは問いだった。言葉ではなく、重さで問うてくる。この誓いを、持てるか。持って、立てるか。
膝が震えた。腕の中を流れる声の束は熱くて、重くて、俺という入れ物の縫い目が、みしみしと音を立てるのが分かった。溢れる。千年は、二十歳の器には多すぎる。
そして、流れ込んでくるのと同じだけ、俺の側からも何かが吸い出されていた。タダでは渡さない、ということらしい。等価の街を思い出した。世界ってのは、どこもそうやってできている。
それでも、口は開いた。考えるより先に、答えは決まっていた。
「この丘は、誰にも刈らせない」
丘が、応えた。
夕暮れの斜面を、目に見えない波が走った。灰色の海のただ中、かつて一段目の柵があったあたりに、境目が生まれる。線を越えて丘を登ろうとした灰色が、前脚から順に、崩れた。踏み込んだ端から灰になる。二頭、三頭、十頭。海の先端が、見えない汀に洗われるみたいに、ほどけていく。
群れが、初めて、たじろいだ。
「押せえっ!!」
その一瞬を、丘の上の人間たちは見逃さなかった。片膝のセシル隊長が号令を絞り出し、荷車の残骸からガロが立ち上がり、最後の円が、外へ向かって膨らんだ。境目で勢いを失くした灰色どもに、槍が、剣が、左手一本の拳が届く。押し返している。三百で守り切れなかった線を、いま、押し返している。
その光景を、俺は碑にすがりついたまま見ていた。立てなかったのだ。誓いを口にした瞬間、体の中の何かが、ごっそり持っていかれた。血でも息でもない。もっと根っこの、俺が俺であるための燃料みたいな何かが、あの見えない境目の代金として、支払われていた。
視界の端で、群れの背が引いていく。潮が引くように、灰色の海が丘を降りていく。
勝った、のか。誰かの歓声が、やけに遠くで聞こえた。
胸ポケットで、フィムがもぞりと動いた。
「……メグル、いまの、なに」
「分かんね」
「分かんないで使ったの!?」
正論だった。正論すぎて、笑う元気もなかった。
■
そこから先を、俺は断片でしか覚えていない。
覚えているのは、まず、血まみれの若い兵士だ。救護兵が二人がかりで押さえても腹の血が止まらず、顔が土気色で、俺は考えなしに、その手を握って言ったのだ。大丈夫だ、あんたは死なせない——と。
言葉が、口を出た瞬間に牙を持った。
ひゅっ、と胸の奥から何かが引き抜かれて、俺と兵士の間に、見えない糸が張られた。糸の向こうへ、俺の中身が流れ出していく。誓いになったのだ。いま、なった。俺の何気ない一言が、こっちの都合も聞かずに、勝手に証文になった。
次に覚えているのは、セシル隊長の声だ。メグル殿、こちらへ、と呼ばれて、俺は「すぐ行きます」と返した。それだけで、足が勝手に歩き出した。兵士の手を握ったままだと気づいて止まろうとしたのに、膝から下が言うことを聞かない。すぐ、という誓いを果たすまで、俺の足は俺のものじゃなかった。
口を、両手で塞いだ。
しゃべれない。しゃべったら、縛られる。大丈夫も、任せろも、すぐ戻るも、口を出たそばから全部が誓いになって、俺の体に紐を掛けていく。見えない紐はもう何本も絡んで、一本増えるたびに、指先の感覚が薄れていくのが分かった。
怖かったのは、痛みじゃない。自分の言葉が信用できないことだ。二十年、俺は言葉で生きてきた。落ち込んだら軽口、ピンチでも軽口。その口がいま、一言ごとに俺自身を質に入れていく。軽口で生きてきた男の口が、一番の急所になった。笑えない。笑えなさすぎて、たぶん俺は、相当ひどい顔をしていた。
「メグル」
冷たい小さな手が、口を塞いだ俺の手に重なった。
ノアだった。救護兵の肩を借りて、立って、俺のところまで来ていた。灰色がかった目が、まっすぐ俺を見ていた。
「……メグル。だいじょうぶ」
だいじょうぶ。その言葉は、誓いにならなかった。ノアの言葉だからか、俺の言葉じゃないからか。ただの、あたたかい音だった。
「あわてないで。……ゆっくり。ここに、いて」
ゆっくり。ここに。音の通りに、胸の中の嵐が少しずつ凪いでいく。張り詰めていた糸が緩み、絡んだ紐が一本ずつほどけて、いちばん太い、兵士との糸だけが、細く静かになって残った。救護兵の声がする。血、止まりました、と。糸の向こうの誰かが、助かったらしい。
俺は、口から手を離した。恐る恐る、息だけ吐いた。何も、起きなかった。
「……わるい。助かった」
声は掠れていたが、ちゃんと、ただの声だった。
「メグル! おまえ、さっきの、すげえ……いや、それより大丈夫か!? 顔が真っ白だぞ!」
駆け寄ってきたガロの右腕は、添え木で吊られていた。大丈夫だ、と答えかけて、口をつぐんだ。その言い方が、いまは怖い。
「……たぶん」
誓いにならない言葉を探して、そう答えた。ガロは変な顔をしていた。当然だと思う。
■
右手の指先が、薄くなっていた。
人差し指と中指の、第一関節から先。夕闇の中で透けて、向こう側の灰色の草が、指を通して見えた。爪の色が、ない。触ってみると感覚はあるのに、一枚膜を挟んだみたいに遠い。振っても、こすっても、戻らなかった。
(……マジで、透けてんじゃん)
「……持ってっちゃったんだね、キミ」
いつの間にか、ヴァンが隣に立っていた。北の斜面の砂嵐の主は、上等な外套のあちこちが裂けて、それでも息ひとつ乱していなかった。ヴァンは俺の右手を取り、透けた指先を、医者みたいな目で検分した。
「界律、って言うんだ。世界の理の、核。……普通は、その世界の外へは持ち出せない。丸ごと器に容れた人間なんて、僕は初めて見たよ」
「かいり、つ」
「さっきの境目も、言葉が紐になるのも、全部それの仕業。この世界の『誓い』の大元を、キミはいま、身の内に飼ってる」
界律。その音を聞いた瞬間、胸の奥で、何かがことりと納まった。《誓約》。ああ、こいつは、そう呼ぶのか。教わる前から知っていた気がするのが、我ながら薄気味悪かった。
「指は」
「値段だよ。高い買い物には、釣り銭が出ないこともある。……乱発しないことだね」
ヴァンの声はいつもの茶化しに戻っていたが、目は、戻っていなかった。
そのときだった。斜面の下から、歓声とも悲鳴ともつかない声が上がった。
「空……空を! 空を見ろ!」
見た。
西の空が、燃えていた。
薄めた水彩みたいだった夕焼けが、雲の裏から色を取り戻していく。茜、緋色、橙。雲の縁に、火の粉みたいな金が散る。じいちゃんの言った通りだった。昔の夕焼けは、火事みたいだった——いま、目の前で、空が火事になっていく。
丘の上の誰もが、武器を下げたまま空を見ていた。灰の積もった斜面で、兵士たちが抱き合っていた。誰かが笑い、誰かが座り込み、若い騎士が兜も取らずに剣を空へ掲げた。セシル隊長は兜を脱ぎ、片膝のまま、いつまでも西を向いていた。ガロは吊られた右腕のまま、でかい声で笑って、半分泣いてるみたいな声で笑って、左手で俺の背中を叩いた。
色が、戻る。世界が、戻ってくる。
その燃える空の、いちばん高いところに。
灰色の外套が、ひとつ、浮いていた。




