【第23話】碑の下で
ルタ村から碑の丘への道を、俺は人生でいちばんの速さで走った。
畦を越え、灰色の草の斜面に取りつく。登り口の誓い石の前は、手を当てる余裕もなく駆け抜けた。心の中でだけ、置いてきた。……借りるぞ、と。
登るほどに、音が近くなる。金属の音、人の声。そして相変わらず向こう側の音のない、あの戦いの半分だけの音が、丘の上から降ってくる。
中腹の柵線を越えたとき、言葉を失くした。
一段目の柵は、なかった。杭が薙ぎ倒され、荷車が裂けて、斜面は灰と、割れた盾と、引きずられた血の筋で汚れていた。二段目も破られている。三百で組んだ防衛線は、いま、頂の碑を囲む一重の円まで縮んでいた。円の外は、灰色の海だった。朝の群れの倍はいる。北の斜面には今も砂嵐が立っているが、あの砂嵐ひとつでは、海の全部は覆えない。
「メグル!!」
円の際で、ガロが吠えた。生きてた。生きてはいたが、遠目にも右腕が変な角度で垂れて、左手一本で戦っていた。その隣で号令を刻むセシル隊長の肩当ては割れ、下の布が赤黒く滲んでいる。
波と波の合間を狙って、円の西へ走った。盾の壁が一人ぶんだけ割れて、俺を呑み込み、すぐ閉じた。
「村は!」
「無事だ! 全員!」
「よし!!」
ガロの左拳が、灰色の横っ面を陥没させた。折れた右腕のことを聞く暇はなかった。聞いたところで、あいつは「利き腕は残ってる!」としか言わないだろう。
「戻りました! 村は無事です!」
「……よく、戻られた」
セシル隊長は俺を見て一瞬だけ笑い、すぐ正面へ向き直って剣を振るった。円の内側は、救護所と、矢の尽きかけた弓兵と、立てる者の全部だった。俺は割れた荷車によじ登り、掠れた喉で芯を呼んだ。
「正面、三頭! 右のでかいのが先です!」
俺にできることを、数えた。多くはない。芯を呼ぶ。散らばった矢を拾って配る。動けない怪我人を円の内側へ引きずる。桶の水を、声の潰れた騎士の口に流し込む。戦力としては数に入らない仕事ばかりで、それでも、どこが詰まりかけているかは、上から見ればよく分かった。
だが呼んでも呼んでも、円の外の灰色は減った気がしなかった。倒す端から、斜面の下から次が湧く。矢が減り、槍の穂が欠け、騎士たちの誓いだけが、まだ折れずに円を保っていた。
■
日が西に傾いても、円はどうにか保っていた。破られたのは、南の一点だった。
杭が内側へ倒れ、灰色が三頭、円の中へ躍り込んだ。悲鳴。救護の天幕が骨組みごと撥ね飛ばされ、白い布が高く舞った。倒れた兵と、庇いに走る騎士と、その先に——碑と、ノア。
「ノア!!」
俺の声より、ノアの動きのほうが早かった。
逃げなかった。ノアは振り向きもせず、二歩で碑に歩み寄り、白い手のひらを、石の面に押し当てた。
丘が、鳴った。
音じゃない。足の裏から突き上げる、鐘の余韻みたいな震え。その一拍、円の外も内も、灰色という灰色が、揃って動きを止めた。
跳びかかる姿勢のまま。爪を振り上げたまま。世界ごと、静止画になった。
一拍。それだけだった。それだけで、足りた。騎士たちが躍り込んだ三頭を仕留め、倒れた杭が引き起こされ、円が繋がり直した。灰色どもは何事もなかったように動き出したが、南の穴は、もう塞がっていた。
北の砂嵐が、一瞬だけ途切れたのは、そのときだ。遠目にも分かった。ヴァンが、こっちを見たのだ。あの距離で、あの一拍を、あの男は見逃さなかった。
ノアが、碑の根本にくずおれた。
「ノア! おい、ノア!」
駆け寄って抱き起こした体は、ぞっとするほど冷たかった。薄目が開いて、俺を見つけて、唇が動いた。
「……メグル。きこえた?」
「聞こえた。丘が鳴った。……もういい、もうやるな」
「……よんでる、の。ずっと」
ノアの視線が、碑の面をなぞった。釣られて見上げて、俺は気づいた。
刻み文字が、光っていた。
大半が風化して読めない古い文字の、あの深い一行『我、この地を護る』の溝に沿って、淡い金色の光が、水脈みたいに走っている。昨日まで、ただの冷たい石だった。その光がゆっくりと溝を伝い下りて、石の縁に集まっていく。
俺のいる側の、縁に。
ノアを抱えたまま動けない俺のすぐ目の前で、光は石の縁に露みたいに膨らんで、待っていた。低いほうへ流れる水が、窪みを見つけたときの動き方だった。窪みは、どうやら、俺らしい。
ぞっとした。正直に言う。綺麗なんてものじゃなかった。それは温かそうで、そのくせ、指を近づけたら指ごと持っていかれると、体のどこかが警報を鳴らす類いの光だった。
そのとき、若い騎士が一人、円を離れて碑に走り寄った。何を思ったか、祈るように石へ両手を叩きつけて、最初の騎士様、御力を、と叫んだ。
石は、応えなかった。光は微動もせず、俺の前で膨らんだままだった。
(……なんで、そこで待つ。おまえの国の騎士が、そこにいるだろ)
■
円が、また軋んだ。
北東の杭が続けて倒れ、セシル隊長が自ら走った。三合斬り結び、二頭を沈めて、三頭目の爪が、庇った救護兵ごと隊長の脇腹を薙いだ。倒れなかったのは意地だけだ。片膝をつき、剣を杖にして、それでも号令の声は途切れなかった。
「隊長!」
「かすり傷、です」
肩当ての割れ目から覗く布は、かすり傷の色ではなかった。それでも声だけは、最後まで揺れなかった。誓いってのは、骨の代わりに人を立たせるらしい。
「円を縮めよ! 碑を背に——最後の円です!」
ガロが左手一本で灰色の首を叩き折り、そのまま押し返されて、荷車の残骸に背中から突っ込んだ。すぐには、起きてこなかった。割れた荷車の陰で、俺の相棒は初めて、大剣を杖にした。
矢が、尽きた。槍衾が、半分になった。円は碑を背にして、あと十歩で背中がつかえる。
腕の中でノアが震えて、円の外では灰色の海が、次の波のために膨らんでいく。三百人で始まった防衛線の、最後の円の真ん中で、俺の目の前には、まだ、あの光があった。
待っている。あの光は最初からずっと、急かしもせず、ただ待っていた。
俺は、ノアをそっと救護兵に預けて、立ち上がった。
「メグル……?」
「ちょっと行ってくる。……大丈夫だ、すぐそこ」
我ながら、何の説明にもなっていなかった。それでもノアは、袖から指を離してくれた。
膝はまだ笑っていた。指の先まで震えていた。怖かった。この光の正体を、俺は知らない。持っていかれるのが指なのか、腕なのか、もっと別の何かなのか、値札はどこにも書いていない。手が動かないのは、震えのせいじゃない。怖いせいだ。《観察》なんて要らなかった。この光が試していることくらい、肌で分かる。器が足りなければ、たぶん俺は、飲まれて終わる。
灰色の草の上に、この世界で過ごした日々が散らばっていた。囲炉裏のかぶの鍋、写し絵の飴色。星を読めない星空の下で、この世界、好き、と言った声が蘇る。昔の夕焼けは火事みたいだったと笑った、じいちゃんの皺も。……そういう全部の上に、いま、灰色の海が押し寄せている。
でも、この円の中に、値札を確かめてから買い物をしたやつなんて、一人もいなかった。セシル隊長は騎士としての自分の全部を積んだ。ガロは腕を、騎士たちは血を、ノアは、たぶん自分でも知らない何かを積んでいる。
なら、器くらい差し出せ。中身がまだ空っぽでも、器なんだろ、俺は。
石の縁の光へ、右手を伸ばした。
触れる寸前、光のほうが、指を待たずに跳ねた。
冷たさとも熱さともつかないものが、手のひらから腕へ、一息に駆け上がってくる。丘じゅうの音が、遠のいた。
(頼む——俺に、力を寄越せ)




