【第22話】ルタ村の朝
夜明け前の碑の丘は、篝火の爆ぜる音と、鎧の触れ合う音と、押し殺した声でできていた。
東の空が白み始めた頃、角笛が一声、鳴った。接敵。丘の下の暗がりで、地面そのものが動き出すのが分かった。
最初の波は、五十ほど。三重柵の一段目で受けて、弓と槍で削る。俺は柵線の裏に組んだ足場の上から、跳ぶ直前に芯の濃くなる個体を呼び続けた。この数日で、芯呼びの声は砦の弓兵全員に通っている。
「右手前、二頭同時! 奥の背の低いやつ、次に来る!」
弦音。灰の吹雪。北側の斜面は最初から数が違ったが、あちらは朝からずっと、灰色の砂嵐が立っている。砂嵐の中心に、散歩の足取りの男が一人いるはずだった。特級ってのはもう、天気の一種だと思うことにした。
一波目が引いて、東の空が橙になった。そのときだった。
丘へ流れてくる灰色の川の、ずっと手前——街道の岐れのあたりで、川筋がひとつ、枝分かれした。
二十頭前後。丘へは来ない。北西へ、まっすぐ。あの方角の先にあるものを、俺は考えるより先に口にしていた。
「ルタ村だ」
隣にいた伝令の兵士が、さっと血の気を引かせた。呼ばれたセシル隊長は、柵線を見て、枝分かれの土煙を見て、唇を結んだ。答えは聞く前から分かっていた。ここから割ける人手は、ない。主力は柵線に張りついている。予備を割けば、次の波で線が薄くなる。それに騎士団はゆうべ、この丘を護ると剣に誓った。誓いは力になり、同時に、その足をこの丘に縛ってもいる。
「……俺が行きます」
自分の声が、他人のもののように聞こえた。
行く理由なら、ある。あの村の晩メシを、俺は食った。囲炉裏と、かぶの鍋と、下手くそな星の彫ってある宝箱。守れたはずの村が消えるのを丘の上から眺めていたら、俺はもう二度と、うまく軽口が叩けなくなる。
行ける理由も、ある。丘の守りはもう組み上がった。芯呼びは弓兵が覚えた。俺一人抜けても、この線は落ちない。逆に村の守りは、篝火の位置も、柵の切れ目も、自警の組分けも、全部俺が引いた。あの村の図面は、俺の頭の中にしかない。
怖いものも、はっきりしている。俺の足だ。平均以下の、九級の足。走って間に合わなかったときの村の姿を、想像の中で一度だけ見た。それから、普通に死ぬのも怖い。怖いが、順番の問題だった。怖さより先に、行かない理由が尽きた。
「メグル!」
ガロが柵線から吠えた。持ち場は動けない。分かっていて、それでも吠えずにいられないのが、あいつだった。
「誓え! ……いや、違えな! 約束しろ! 生きて戻るって、地球式でいい!」
「約束する。帰ったら飯だ、全員で」
「よし!!」
セシル隊長は止めなかった。代わりに、街道は使うな、麦畑の畦がいちばん短い、と早口で言って、一拍だけ迷ってから付け足した。
「……ご武運を。あなたの村に」
あなたの村。悪くない言い間違いだった。訂正しないでおいた。
駆け出す間際、救護天幕の前で、ノアと目が合った。ゆうべから顔色の戻らないノアは、何も聞かずに、短く言った。
「……かえってきて」
「おう。すぐな」
■
麦畑の畦道を、俺は転げ落ちるみたいに走った。
丘を下りれば、村までは俺のほうが近い。獣どもは足が速いが、丘と村の行き来はいつも同じ筋を辿る。今日も街道側からの大回りで来る——ここ数日の目撃の癖から、それだけは読めていた。読み通りであってくれ。祈りながら、朝露の畦で二回転んだ。
(間に合え。頼むから、間に合ってくれ)
村の入り口の鐘楼に取りついて、綱を力任せに引いた。
鐘の音で、村は跳ね起きた。自警の組分けは生きていた。男衆が槍と鋤を持って辻に集まり、女衆が年寄りを寄り合い所へ運ぶ。俺は鐘楼の上から怒鳴った。
「獣の群れ! 二十! 街道の方から来ます! 子どもと、まだ土地に誓ってない人は、いまから砦へ!」
開墾の誓いは、当主と跡取りが結ぶ。子どもらと、嫁いできて日の浅い連中には、まだこの土地の縛りがない。逃げられる足は、全部逃がす。丘へ上がる前に、村長と決めておいた段取りだった。
ピノが、宝箱を抱えて母ちゃんの袖にぶら下がっていた。行かない、と泣きかけている顔へ、俺は上から怒鳴った。
「ピノ! 砦に着いたら門番のおっちゃんに、村の分の朝メシを頼んどけ! 守り切ったら腹が減る! おまえにしか頼めん!」
「……っ、わかった!」
仕事をもらった顔になって、ピノは走った。子どもってのは、逃げろと言うと動けなくて、頼むと言うと走れる。俺もそうだった。
母ちゃんが鐘楼を見上げて、にっと笑った。
「旦那! うちの畑、踏ませんじゃないよ!」
「善処します!」
獣が来たのは、子どもらの背中が街道の先に消えて、ほどなくだった。
二十頭は、一度には来ない。三頭、五頭と、波で来る。それがせめてもの救いだった。村の入り口は二カ所に絞ってある。倒した荷車と薪の山で道を狭め、獣の通れる筋を一本にする。筋の両脇の物陰に、槍と鋤。俺は筋の正面、いちばん見晴らしのいい場所に立った。
いちばん弱いのが立っていれば、あいつらはまっすぐ来る。砦でも丘でも、あいつらは必ず俺を選んだ。今朝ばかりは、その趣味の悪さに感謝する。
「来る! 右のやつが先、胸の芯、拳ひとつ下!」
跳ばれる寸前まで引きつけて、荷車の裏へ転がり込む。頭の上を灰色が飛び越えた瞬間、両脇から槍が出る。芯を突く。灰。次だ。三頭目は俺の読みより半歩速くて、転がった俺の足首の先を、爪が石畳ごと削った。悲鳴を上げる暇も惜しかった。
「筋は変えるな! 次、二頭同時、左が先!」
波の合間に、立ち位置を変える。同じ場所に立ち続ければ、いつか半歩の運が尽きる。荷車の陰から薪の山へ、薪の山から井戸の縁へ。《観察》は跳ぶ気配を教えてくれるが、躱すのは俺の足だ。二度、間に合わなかった。一度は槍衆が割り込み、もう一度は、鋤だった。横合いから突き出た鋤の刃が、灰色の顎を撥ね上げた。
「うちの畑の前で転ぶんじゃないよ、旦那!」
「善処しますって!」
母ちゃんは笑っていた。俺は笑えなかったが、膝だけは前を向き続けた。
何波目かで、数を数えるのをやめた。喉が割れて、芯呼びの声が掠れ始めた頃、それは、ふっと終わった。
残っていた灰色が、一斉に動きを止めたのだ。
置物になった数頭は、そのままくるりと背を向け、来た道を戻り、街道の岐れを丘のほうへ折れて、消えた。呼び戻された。そうとしか見えない引き方だった。
辻に、荒い息の音だけが残った。誰かが、へたり込んだ。歓声は、上がらなかった。上げていいのかどうか、誰にも分からなかったからだ。
■
守り切った。
頭では分かっていた。死人はいない。潰れた柵と、削られた石畳と、腕や脚の怪我人が数人。村は、立っている。ピノの家の屋根も、囲炉裏の煙出しも、あの星の彫ってある宝箱が帰ってくる場所も、全部立っている。
立っていないのは、俺の膝だった。
荷車の縁に手をついて立とうとして、膝が、がくがくと笑って言うことを聞かなかった。手も震えていた。母ちゃんが黙って水の椀をくれて、半分こぼした。いま頃になって、足首の先を削っていった爪の音が、耳の奥で鳴り続けていた。半歩。あと半歩ずれていたら、俺は。
(……かっこ悪。守り切った側の膝じゃないだろ、これ)
誰も笑わなかった。村の男衆の膝も、だいたい同じだったからだ。
どれだけそうしていたか。不意に、村の犬が一斉に丘のほうを向いて、吠えた。
釣られて顔を上げた俺の目に、それが映った。
碑の丘の頂で、閃光。
音のない白い光がひとつ瞬いて——数拍遅れて、風が来た。それから、角笛。
一声。二声。
……三声。
吹かせません、とセシル隊長が言った、あの三声だった。
防衛線が、破られた。




