【第21話】誓いを立てる
夜通しの防衛戦が明けたグレンヴェル砦の会議室に、昼、寝ていない顔ばかりが集まった。
机の端には、ゆうべの帳尻も載っていた。重傷三名、軽傷四十七名、死者なし。東壁の継ぎ目に亀裂、矢の備蓄は残り三割。数字にすれば被害は軽い。軽く見えるのが、逆に怖かった。あの群れは、俺たちを殺しに来たわけですらないのだ。
上座に地図。その上へ、ヴァンが小石を並べていく。黒っぽい小石が獣の群れ、白いのが俺たち。ゆうべまで姿をくらましていた男の、数えごとの結果発表というわけだった。
「まず、悪い報せから。ゆうべの群れが、およそ百二十。その前の晩に村々で見られたのが合わせて四十、三日前は十五。……ひと晩ごとに、三倍近く膨らんでる。次の波は明日の朝。来るとすれば、三百に届く」
「明日の朝、というのは」
セシル隊長の声は、もう平静に戻っていた。
「根拠を伺っても」
「予兆の進み方と、群れの膨らみ方の帳尻。細かい算術は省くけど、外れたら僕の飯代を抜いてくれていい」
「特級の飯代っていくら!?」
フィムが胸ポケットから跳ね起きて、ガロの手のひらに押し戻された。張り詰めていた部屋の空気が、ほんの少しだけ息をした。たぶんヴァンは、そこまで計算して喋っている。
「で、本題。もっと悪い報せと、少しましな報せがある。どっちから聞きたい?」
「悪いほうだ!」
「群れの狙いは、砦じゃない。碑の丘だ」
ヴァンは黒い小石をまとめてつかみ、地図の南の丘に置いた。
「あの碑は、ただの古石じゃない。この世界の理の、いちばん濃いところ……言ってみれば、世界の核だ。剪定獣が集まるのは、あれを齧るためだよ。齧り終えたら、この世界は畳まれる」
会議室が静まり返った。俺は、碑のまわりの灰色の円を思い出していた。色抜けの、いちばん深い場所。あれは、齧られた痕だったのか。
「齧り終わるまで、あとどれくらいですか」
「碑の様子から見て、もって五日。群れの膨らみ方が読み通りなら、勝負は明日の朝の波だ。あれを凌げるかどうかで決まる」
「……ましな報せは」
「守り切れば、予兆が引くかもしれない」
「かも、しれない」
「かもしれない、だ」
ヴァンは同じ言葉を、同じ重さで繰り返した。誤魔化す気のない言い方だった。
「千年ぶんの記録の隅にね、獣に核を齧らせ切らなかった世界の話が、いくつかだけある。そのどれもが、予定より長生きした。理由は知らないし、保証もしない。ただ、賭け場がこの丘しかないのは確かだ」
「……話にならんですな」
末席で黙って聞いていたバルデス卿が、閉じた扇で膝を打った。
「石ころの丘が世界の核。獣が世界を齧る。仮にも王国の騎士団が、界渡りの与太話に総力を挙げると? 規定では、辺境騎士団の本務は砦と街道の防衛。それを空にして丘へ布陣するなど、暴走以外の何と呼べばよろしいか」
「卿!」
セシル隊長の隣で、若い副官が腰を浮かせた。それを、隊長が手で制した。
「卿。ゆうべの群れを、ご覧になったはずです」
「見ましたとも。ゆえに、わしは明朝、王都へ発ちます。『辺境騎士団に職務逸脱、暴走の兆しあり』と、この目で見たままを報告いたす。……隊長殿、いまなら間に合いますぞ。規定へお戻りなされ」
セシル隊長は、しばらく卿を見ていた。怒りの顔ではなかった。何かを数え終えた顔だった。
「報告は、卿のお役目です。お止めいたしません」
「ほう」
「わたしの役目は、この地を護ることです。規定より先に、そう誓っております」
卿は鼻から息を抜いて、席を立った。扉の手前で一度だけ振り返る。
「若さというものは、高くつきますな」
(高くつくのは、どっちだよ)
口には出さなかった。あの人の帳面には、あの人なりの嘘のなさがある。それが一番、質が悪い。
■
夕刻、騎士団は碑の丘へ上がった。
荷車が列を組んで坂を登り、杭が打たれ、丘の中腹に三重の柵線が引かれていく。俺は目撃地図をもとに、獣の来る筋と篝火の置き場をセシル隊長と詰めた。夜目の利かない人間の側から、あの胸の芯が見えるように。角笛の合図も決めた。一声で接敵、二声で押し返し、三声は、線を下げる報せ。
「三声は、吹かせません」
打ち合わせの締めに、セシル隊長はそれだけ言った。
村々からは荷駄も届いた。ルタ村の母ちゃんは、かぶと豆を煮た大鍋を運び上げてきて、騎士団の炊事場を三十分で乗っ取った。この世界の連中は、明日世界が終わるかもしれない夜に、飯の心配をする。悪くない世界だ、本当に。
フィムは俺の胸ポケットで、遠征手当の割増計算を三回やり直していた。「ボク、計算してないと怖いこと考えちゃうんだよ」だそうだ。分かる。俺の手帳も、似たようなものだ。
日が落ちる前、騎士団と、志願の兵と、村々から駆けつけた男衆が、碑を囲んで整列した。総勢でも三百に足りない。明日の朝には、同じ数の灰色が来る。
セシル隊長が、碑の前に進み出た。
膝をつき、剣を抜き、切っ先を地に立てる。叙任の日にそうしたという形のまま、丘の上の全員に届く声で、彼女は言った。
「我、セシル・オードラン。剣に誓う。……この丘を、この地を、護る」
剣に誓う。この国でいちばん重い誓い方だ。破れば剣が持てなくなる。騎士でいられなくなる。つまりあの人はいま、あしたの戦いに、騎士としての自分を丸ごと積んだ。
背後で、鎧の鳴る音が波になって続いた。騎士たちが次々に膝をつき、同じ言葉を唱えていく。我、この地を護る。千年前に一人の男が言ったきりだった言葉が、夕暮れの丘で、三百人ぶんの声になった。
ノアが俺の隣で、その光景をじっと見ていた。
「……きれい」
とだけ、言った。誓いをきれいと言った子は、たぶんこの丘で初めてだ。
隣で聞いていたガロが、たまらん、という顔をした。
「メグル! オレも誓っていいか!」
「よせ。破ったらどうなるか、この国で散々聞いただろ」
「じゃあ誓わねえ! けど、やる! 誓わなくてもやるからな!」
でかい声に、近くの騎士が何人か、頬をゆるめた。それでいいんだと思う。誓いは、軽々しく増やすものじゃない。
俺はといえば、一度だけ口を開きかけた。この丘を守る、と。言葉が喉の途中まで来て、止まった。この国で口にした言葉は、もう戻せない。折れるのが自分だけなら賭けてもいいが、俺は自分の言葉ひとつの重さも、まだ量れたことがない。
代わりに手帳を開いて、書いた。丘を守る。村を守る。終わったら全員で飯。……誓いじゃない。地球式の、ただの覚え書きだ。それでも、書いた字は我ながら妙に濃かった。
■
夜、丘の斜面は篝火の点線になった。
交代で眠れと言われて、眠れるやつは少ない。ガロは眠れる側の代表で、柵の裏で大の字になり、地響きみたいな寝息を立てていた。大物なのか、単に燃費の問題なのか。
救護の天幕の脇に、ノアがいた。膝を抱えて、碑を見上げていた。
「眠れないか」
「……ん」
隣に腰を下ろすと、篝火がノアの銀髪を橙に染めていた。連れてくるべきじゃなかったのかもしれない。だが都市に置いていけば、俺のそばを離れたこの子は、また薄れ始める。どっちが正しかったのかは、あしたが決める。
ポケットからスマホを出して、写真を一枚だけ見た。灰色の夕焼け。地球の、最後の空だ。あしたの夕方、この丘の上で同じ色を見るのか、それとも。……やめた。縁起でもない。画面を消すと、篝火の橙が目に戻ってきた。
……なんて画面を睨んでいた俺の袖を、ノアが掴んだ。
強い力だった。ノアは碑を見たまま、瞬きもしていない。篝火の逆光で、横顔が白かった。
「ノア?」
「……メグル」
声が、震えていた。
「碑が、呼んでる」




