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忘却世界の渡り手ーー忘れないと決めた男の忘れられる旅  作者: 生サーモン


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【第20話】ノクス

 真夜中のグレンヴェル砦は、鐘と怒号と馬のいななきで沸騰していた。


 武器庫が開かれ、兵士が壁へ走る。その混乱に、セシル隊長の声が筋を通していく。東壁に弓、門前に槍衾、ルタ村へ早馬。バルデス卿の寝所は……灯りだけ点いて、扉は開かなかった。卿の護衛騎士八人が、指示を待たずに壁へ上がったことは、書き留めておいてやってもいい。


「ヴァンさんは!?」


「知らねえ! どこにもいねえ!」


 特級は、肝心の夜に限って行方知れずだった。文句はあとで言う。俺の持ち場は、門の上の壁だ。


「でかい的から射るな! 俺が呼んだやつから頼みます!」


 弓兵たちに怒鳴った。この数日で、胸の芯の話は砦じゅうに通っている。芯を潰せば一発、外せば何発でも立ち上がる。なら、跳ぶ直前に芯の濃くなる個体を順に教えるのが、俺の仕事だった。夜目と根気なら、レジ締めで鍛えてある。


「右から三頭目、来る! その奥、壁ぎわのやつも!」


 弦の音が重なって、灰色が崩れる。門の下ではガロが吠えていた。柵を越えた個体を正面から受けて、投げて、踏み抜く。狼の獣人は夜目が利く。あいつの周りだけ、灰の吹雪が舞っていた。


 それでも、数が違った。


 百はくだらない。倒しても倒しても、丘から次の波が来る。壁の継ぎ目が軋み、篝火が二つ倒れ、救護所に運ばれる兵士が増えていく。


「西の柵が抜かれる! 荷車! 荷車を横倒しにして塞いでください!」


 夜のうちに何度、声を張ったか分からない。柵の内側に転がした荷車と水樽が、二度、群れの鼻先を挫いた。上等な策じゃない。目に映ったものを、片っ端から使っているだけだ。それでも、壁の上から全部が見えている人間にしか言えないことは、確かにあった。ノアは救護所で水汲みと包帯を手伝っている。フィムは俺の胸ポケットで、さっきから小刻みに震えていた。緊急時に寝ていられない程度には、緊急だった。


 声が潰れ、目の奥が灼けてきた頃、それは来た。





 獣が、止まったのだ。


 一斉に、だった。壁を登りかけた個体も、ガロに組みつかれていた個体も、跳びかかる姿勢のまま、置物に戻った。放たれた矢が一本、棒立ちの灰色に刺さって、それきり、誰も動けなくなった。鐘だけが間の抜けた調子で鳴り続けて、やがて、それも止んだ。


 静寂の中で、フィムが胸ポケットから顔を出した。


「……や、だ。やだやだ、なにこれ。ねえメグル、うえ。うえ見て」


 空から、灰色が降りてきた。


 外套だった。夜より濃い灰色の外套が、風もまとわず、まっすぐに。門の前、獣の群れのただ中に、音もなく降り立った。外套の下に覗くのは、白い仮面。目も口も線一本で描いたような、のっぺりした白。


 仮面が、砦を見上げた。


「第八〇三界、剪定予定を確認する」


 声には、何もなかった。怒りも、嘲りも、熱のひとつもない。帳面を読み上げる声だった。


「なんだ、てめえは」


 門の下で、ガロが低く聞いた。仮面は、わずかも動かなかった。


「剪定官、ノクス」


 剪定官。その一語で、壁の上の俺の体は勝手に冷えた。局があって、官がいて、予定がある。……予定。世界がひとつ終わることに、こいつらは、予定という言葉を使うのか。


「ふざけんなああああ!」


 先に動いたのはガロだった。灰の吹雪の中から、大剣ごと体当たりの一撃。会心の間合いだった、と思う。俺の目で追い切れたのは、そこまでだ。


 ノクスは、半歩だけ動いた。


 外套の裾が揺れて、ガロの巨体が宙で回った。大剣は明後日の方向へ、ガロは地面へ。受け身を取れたのは、あいつの底力だ。だが投げられた瞬間を、俺の目は確かに拾っていた。掌で剣の腹を流し、踏み込みの軸足を払う。力任せのどこにもない、水みたいな体さばき。


「渡り手殿から離れよ——排除する!」


 セシル隊長が壁から跳び降りた。踏み込みは、これまで見たどの騎士より速かった。それすら、ノクスは躱しもしなかった。刃が外套に触れる寸前、半身。二の太刀、三の太刀、全部が紙一枚の距離で空を切る。壁の上から矢が降り、矢は外套に吸い込まれて、出てこなかった。


 誰の、何が、届かない。


 嵐みたいな攻防の中心で、ノクスの仮面だけが静かに周囲を見渡していた。南の丘を。村の方角を。砦の壁を。検分だ。バルデス卿が砦の壁を眺めた、あの値踏みの目と同じことを、こいつは世界全部にやっている。


 ふ、と気配が動いて、ヴァンが門の上に現れた。


 いつからいたのか。倒れたガロとノクスの間に、散歩の足取りで立つ。手には何もない。ただ、立っただけだ。それだけで、砦の空気が一段変わった。


 ノクスの仮面が、初めて、一拍だけ長く止まった。


 ……何も、起きなかった。ノクスは興味を失ったように視線を外し、外套の中から灰色の板のようなものを取り出して、一瞥した。


「予兆の進行、記録のとおり。……確認を、完了する」


「待ちなよ」


 ヴァンの声は、軽くなかった。


「この世界は、まだ生きてる」


「予定は、変わらない」


 それだけだった。ノクスの体がふわりと浮き、灰色の外套は、来たときと同じにまっすぐ——夜の底へ、消えた。


 獣たちが、一斉に背を向けた。


 波が引くように、群れが丘へ帰っていく。壁を登りかけていた個体まで、興味をなくしたように降りて、行ってしまう。追い射ちしようとする弓兵を、セシル隊長が手で制した。誰も、何も言えなかった。戦いが終わったのではない。中断された、ですらない。……点呼が、済んだだけだ。





 壁を降りて、最初にしたのは救護所を覗くことだった。


 灯りの下で、ノアが包帯を巻いていた。手つきは危なっかしいのに、巻かれている兵士のほうが恐縮するくらい真剣な顔で。俺に気づくと、駆け寄りもせず、じっと顔を見た。


「……メグル、生きてる」


「生きてる。そっちは」


「ん。……こわかった」


 怖かった、とノアが自分から言うのは、初めてだった。俺は何も言わずに、銀色の頭にぽんと手を置いた。振り払われなかった。


 胸ポケットの中では、フィムがまだ震えの残る声で言った。


「メグル、ボク……あんなの、台帳で見たことないよ。等級のつけようがない。あれと同じ空の下にいるだけで、羽根が縮むんだ」


 夜明けまで、結局、誰も壁を降りきらなかった。


 重傷が三人、軽傷は数え切れず、死んだ者はいなかった。ルタ村は、群れに素通りされたという。喜んでいいはずの報せを、喜べる人間はいなかった。あの群れは、俺たちを殺しに来たのですらなかったのだ。刈り入れ前の畑の、検分に来た。畑の麦が、鎌に届くわけもない。


 ガロは壁に背を預けて、腕の包帯を睨んでいた。やがて、あのでかい声には珍しい低さで、言った。


「なあ、メグル。……あいつの体術、ギルドの型に似てなかったか?」


「……型?」


「投げられる瞬間、見えたんだよ。剣の流し方と、足の払い。訓練場で教官連中がやるのと、同じ運びだった。……いや、忘れてくれ。んなわけねえよな」


 ガロは自分で打ち消して、立ち上がった。俺は何も返せなかった。返せないまま、手帳の隅に、体術、とだけ書いた。


 予定、という言葉が、まだ頭の中で回っていた。あの群れにも、この夜にも、たぶん番号が振ってある。世界の終わりは、どこかの帳面の上では、とっくに決まった行事なのだ。


 東の空が白み始めていた。水で割ったような、薄い朝焼けだった。五日前より、確実に薄い。


 壁の端で、ヴァンが一人、ノクスの消えた空を見上げていた。隣に立つと、特級渡り手は俺を見ずに言った。


「怖かった?」


「……はい。あれが、地球を」


「あの個体かは分からないけどね。ああいうのが、やったんだろうね」


 夜通し灼けた目に、朝の光がしみた。俺が黙っていると、ヴァンはひとりごとみたいに続けた。


「……予定、って言ったね」


「え?」


「あいつ、わざわざ予定を確認しに来た。刈る日が今日なら、確認なんて要らない」


 ヴァンの目は、もう空を見ていなかった。南の丘を——碑の立つ丘を、見ていた。


「なら、まだ猶予はある」


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