【第19話】できること
翌朝、ルタ村の寄り合い所には、村の年寄り連中が顔を揃えていた。
集めてもらったのは俺だ。議題は、村を空けること。もちろん、世界が刈られかけているから、とは言えない。表向きの理由は獣害だった。嘘でもない。獣の目撃は日に日に増えて、夜警はバルデス卿のお達しで半分に減らされたままなのだ。
「というわけで、せめて女子供と年寄りだけでも、しばらく砦か、街道の宿場に移ってもらえませんか。獣の件が片付くまでで、いいんです」
悪くない筋だと思っていた。村長のじいさんは、囲炉裏の火を見ながら最後まで聞いてくれて、それから静かに首を横に振った。
「ありがてえ話だ。だが旦那、できねえ相談でさ」
「どうしてですか」
「誓いですよ」
村長は、皺だらけの手で床板を、とん、と叩いた。
「この村の家はどれも、開墾のときに土地と誓いを結んでおりましてな。この地を耕し、この地で生きる、と。代替わりのたびに、跡取りが誓い直す。わしも誓った。ピノんとこの母ちゃんも誓った。……土地を捨てりゃあ、誓約堕ちだ」
「一時だけでも、ですか。捨てるんじゃなくて、避難です」
「言葉の綾が利くほど、誓いは甘くねえんで」
隣の年寄りが、静かに言い足した。誓いを結んだ畑から三晩離れただけで、腕の上がらなくなった男がいたこと。心と体の芯が、土地と結ばれているのだということ。脅しの気配はなかった。この人たちは、そういう理の中で千年暮らしてきたのだ。
「それにな、旦那」
村長は笑った。歯の抜けた、人のいい笑いだった。
「離れられねえ、だけじゃありませんや。離れねえんでさ。じいさまのじいさまが起こした畑だ。麦が待ってるうちは、どこにも行かねえ」
帰り道、ガロが唸った。
「頑固すぎんだろ……。けど、悪い頑固じゃねえのがなあ」
「ああ。悪くないのが、な」
誓いはこの世界の背骨だ。人を立たせて、国の形を保って、そして、いざというとき、人をその場から動けなくする。背骨は、外して逃げられない。
実を言えば、ゆうべヴァンにも聞いたのだ。界門をくぐらせて、都市へ逃がす道はないのかと。答えは分かりきっていた。門をくぐれるのは、登録した渡り手と認可を受けた者だけ。それに、とヴァンは言った。「くぐれたとして、彼らの世界は、ここだけだよ」
■
止められない。逃がせない。なら、九級の渡り手に残っている仕事は、ひどく地味なものだけだった。
昼の間、俺たちは村の防備を固めた。ガロは男衆と一緒に囲いの杭を打ち直し、倒れた柵に丸太を足した。でかい声で仕切って、でかい飯を食って、子供を三人ぶら下げたまま丸太を担ぐ姿は、もう半分この村の名物だった。俺は篝火の位置を決めて回った。あの獣は火を恐れない。恐れないが、火があれば、人間の側から胸の芯が見える。夜回りの組分けも引き直した。卿に減らされた分は、村の男衆の自警で埋める。
ノアはといえば、子供たちの羊番に混ざっていた。混ざっていたというか、囲いの柵に腰掛けて、ピノの質問攻めを浴びていた。銀色のねえちゃんは砦の飯で何が好きか。豆のスープ。走るのは速いか。おそい。あの光る板の中に住んでるのは誰か。だれも、すんでない。
合間に、俺は手帳の定点観測を続けた。花畑を、同じ場所から、同じ刻限に一枚。色は、確かめるたびに薄くなっていた。昨日より今日。今朝より夕方。締切のある世界で、締切の日付だけが見えない。
(数えごとをしてる、って言ってたな、あの人)
ヴァンは今日も朝から姿を消していた。丘の向こうのどこかで、たぶん俺の手帳より正確な帳面をつけている。
■
「旦那! 母ちゃんが、メシ食ってけって!」
夕方、ピノに袖を引かれた。断る理由は、探したが見つからなかった。
ピノの家は、村はずれの羊飼いの家だった。土間に囲炉裏、梁から吊るした干し草の匂い。母ちゃんは日に焼けた大柄な人で、じいちゃんは、例の「昔の夕焼けはもっと火事みたいだった」のじいちゃんだった。
夕食は、かぶと豆の鍋に、塩漬け肉を奮発した一皿、焼きたての平パン。うまかった。砦の飯もうまいが、家の飯というのは別の生き物だ。ガロは三杯目で母ちゃんに気に入られ、四杯目で「あんた食が細いね」と叱られた。あれで細いなら、俺は何なんだ。
ノアの椀には、気がつくと肉がいちばん多く入っていた。ノアはゆっくりゆっくり食って、椀の底が見えた頃、小さく言った。
「……おいしい」
「だろ! うちのかぶは村一番だもん!」
ピノが自分の手柄みたいに胸を張った。母ちゃんが笑いながらお代わりをよそい、囲炉裏の火が爆ぜて、じいちゃんの昔話にガロが大げさな相槌を打つ。……こういう晩を、俺は知っている。世界のどこにでもあって、失くしてみるまで、あるとも思っていないやつだ。
(頼むから、続いてくれよ。この晩の続きが、ちゃんと)
食後、ピノが板切れの箱を抱えてきた。蓋に下手くそな星の彫ってある、宝箱だそうだ。中身は、川で拾った丸い石と、鷹の羽根と、隊商の男にもらったという異国の銅貨が一枚。
「旦那の写真! これに入れたい!」
「入れてやりたいけどな、こいつは板の外に出せないんだ」
スマホの画面を見せると、ピノは世界の終わりみたいな顔をした。そのやりとりを、囲炉裏の向こうから、じいちゃんがじっと見ていた。
「旦那。その絵、しばらく点けたままにできますかい」
「できますけど……」
「若い時分、王都の写し絵工房で炭運びをしておりましてな。道具、まだ取ってあるんでさ」
じいちゃんが納戸から出してきたのは、掌ほどの白い板と、瓶に入った釉薬だった。写し絵。光の魔法で像を板に焼き付ける、王都の祝い事の道具だという。婚礼だの叙任だの、一生に何度かの日に、金持ちが職人を呼んでやるものらしい。
「本物の写し絵師は光の魔法を使いますがね。要は、強い光と、じっとしてる根気があればいい」
一回目は失敗した。板は真っ白に焼けて、じいちゃんは首をひねった。スマホの画面が明るすぎたらしい。輝度を落として、二回目。香を焚いたような匂いがして、釉薬の上に、じわりと像が浮いた。
昼間に撮った一枚だった。ピノと母ちゃんとじいちゃん、その横にガロとノア、端に俺。ピノがどうしてもと言うから、母ちゃんにシャッターを頼んで全員で写った、あの一枚だ。色は釉薬の飴色ひと色で、細かいところは滲んでいる。それでも、写っていた。全員、ちゃんと写っていた。
「ぼくの、たからもの」
ピノは写し絵を両手で受け取って、星の彫られた箱の中に、銅貨より上等な場所をこしらえた。
礼を言うのは俺のほうだった。うまく言えない安堵が、胸の底にあった。データじゃなく、板だ。この世界の釉薬に、この世界のやり方で焼き付いた、ここの物だ。なんでそこに安心したのかは、自分でもよく分からなかった。
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砦への帰り道、ノアが言った。
「ピノのいえ、あったかかった」
「だな」
「……まもりたいね」
守りたいね、と、当たり前の相槌みたいにノアは言った。俺は「ああ」とだけ返した。言葉の重い世界で、それ以上を続けると、誓いになってしまいそうだった。
その夜。
夢も見ないくらい深くまで沈んでいた俺を、鐘が叩き起こした。
一打じゃない。連打だった。廊下を兵士の足音が駆け抜け、隣の寝台からガロが跳ね起きる。窓の外は真夜中で、見張り塔の上で松明が振り回されていた。
壁に駆け上がって、南を見た。
月明かりの下、丘陵の稜線が、動いていた。地面が流れているのかと、最初は本気で思った。違う。全部、獣だ。灰色の群れが丘を埋めて、こっちへ来る。
隣に駆け上がってきたセシル隊長の呼吸が、一瞬、止まるのが分かった。
「……数えられません」
数えるのが仕事みたいな人が、そう言った。




