【第18話】予兆の正体
ルタ村のはずれ、まるごと灰色になった花畑の前で、どれくらい突っ立っていたのか。背中の街道から、場違いに軽い声が飛んできた。
「やあ。朝の散歩にしちゃ、ひどい顔だね」
振り向くと、ヴァン・シルワースが立っていた。上等な外套に朝露ひとつつけず、散歩の途中で知り合いを見つけた、という顔で。
「……いつから、こっちに」
「ゆうべから。ちょっと数えごとをしていてね。そしたら明け方、砦から駆け出してくる無茶な新人が見えたから、ついてきた」
現地で顔くらいは出す、と言っていた男は、いちばん嫌なタイミングで顔を出した。俺は挨拶を飛ばして、斜面を指した。
「これ、何に見えますか」
ヴァンは俺の隣まで来て、花畑を眺めた。色のない花が、朝の風で一斉に揺れる。枯れてはいない。生きたまま、灰色の波になって揺れている。
軽薄な目が、すっと細くなった。その一瞬だけ、この男の歳が分からなくなった。
「……花の病気、と言ったら?」
「五日前は、手のひらくらいの円でした。昨日までは、じわじわ広がるだけだった。それが一晩で、斜面ごとこれです。それに」
手帳を開いた。頁の間で乾きかけた、二本の押し花。それからスマホを出して、撮りためた写真を順に見せた。薄くなっていく夕焼け。碑の丘の、色の抜けた円。最後に、地球の一枚を出した。灰色の空の下の、灰色の交差点。
「花の病気なら、俺の故郷も、同じ病気で死んだことになります」
ヴァンは長いこと、画面を見ていた。それから灰色の花を一本摘み、指先でくるりと回して、諦めたように息を吐いた。
「……色抜け、って呼ばれてる」
「いろぬけ」
「世界が刈られる前の、いちばん最初のしるし。空や花から、色が先に引き上げていくんだ。……剪定の予兆だよ。この世界、刈られかけてる」
分かっていた。ゆうべから、その答えしかないと分かっていた。それでも、特級の口から聞かされるのは別だった。膝から下が、花畑と同じ色になった気がした。
(地球と、同じだ)
「戻ろうか。仲間にも聞かせたほうがいい話だから」
ヴァンは摘んだ花を斜面にそっと戻して、先に歩き出した。
■
砦に戻ると、ヴァンの特級印がちょっとした騒ぎになった。
門番が背筋を伸ばし、伝令が走り、朝メシの途中だったガロが椀を持ったまま飛んできた。
「ヴァンさん! 来てたのか!」
「やあ。……ところでキミたち、監察卿サマに依頼を切られかけてるんだって?」
「知ってて聞いてます?」
「うん。だから今朝がた、手続きを変えておいた。ギルド経由の依頼は打ち切りで結構。今日からキミたちは、僕の私費による指名依頼だ。特級の指名は規定の外じゃなく、規定の上にあるんだよ。帳面がお好きな人には、帳面でお返しするのが礼儀だからね」
胸ポケットで、フィムが跳ね起きた。
「私費!? 特級の私費って、日当いくら!? ねえいくら!?」
「起きたね、経費の妖精。ギルド規定の倍、と言ったら」
「ヴァンさんは命の恩人だよ! ボク一生ついてく!」
安い一生だった。もっとも、これで堂々とこの世界に残れる。卿の帳面より上等な帳面があるとは、知らなかった。
中庭では、セシル隊長が寝ずの番明けの兵士たちをねぎらっていた。装備を整えて出ていく俺たちに気づいて、駆け寄ってくる。
「碑の丘へ? ……何か、分かったのですか」
「……確かめの、途中です」
嘘ではない。嘘ではないが、喉の奥に引っかかった。ヴァンが横から、軽い調子で引き取った。
「検分が済んだら、隊長殿には僕から必ず話すよ。……ああ、今のは誓いだ。この国式の」
セシル隊長は一拍おいて、騎士の礼を取った。誓いという言葉がこの国でどれだけ利くのか、よく分かる引き際だった。
■
碑の丘への登り道は、三日見ないうちに、また色を落としていた。
中腹の草は、もう緑と言い張るほうが苦しい。先頭のヴァンは道々、屈んでは土に触れ、立ち止まっては風の匂いを嗅いだ。飄々とした足取りのまま、やっていることは検分そのものだった。
ノアは俺の隣を、袖をつまんで歩いた。丘が近づくにつれ、空いたほうの手が胸を押さえる。
「また鳴ってるのか」
「……すこし」
「しんどくなったら言え。すぐ降りる」
「ん」
頂上に着くと、ヴァンは碑のまわりの灰色の円をゆっくり一周して、口笛を吹いた。感心の口笛でないことは、顔で分かった。
「刈られるって、なんだよ! 誰が刈るんだ!」
我慢の切れたガロが、でかい声で聞いた。ヴァンは碑を見上げたまま、答えた。
「剪定局」
「せんてい、きょく……?」
「三千世界の庭師を名乗ってる連中さ。世界樹の枝に実る世界を全部見て回って、『実らない』と決めた世界を、枝ごと刈る。それが剪定。キミたちが灰にしてきた獣は剪定獣——刈り入れの近い畑に湧く、羽虫みたいなものだよ」
風が丘を渡って、灰色の草を鳴らした。乾いた、音まで色の抜けたような音だった。
「なんで、この世界なんですか。実らないって、何が基準なんです」
「知らない。……茶化してるんじゃないよ。基準を知ってる渡り手は、一人もいない。ギルドが千年かけて掴んでいるのは、予兆の順番だけだ。色が抜けて、次に世界の縁が綻んで、裂け目から獣が湧く。その先は……順番に来る」
「順番、おかしくないですか。ここ、縁の綻びなんてどこにもないのに、獣は二月も前から出てますよ」
「そこが、僕がわざわざ足を運んだ理由。たぶんね、あの碑のせいだ。世界の核があんなふうに地表へ剥き出しになってる世界だと、獣は綻びを待たない。核の匂いに、直接引き寄せられて湧く。……順番を飛ばして、刈り入れの下見だけ先に始まってるようなものだよ」
保護院の談話室で聞いた話と、きれいに重なった。夕陽の色が薄れ、かまどの火が白くなり、歌が誰の喉からも出なくなった。じいさんたちの故郷を呑み込んだ順番の上に、いま、この世界が乗っている。
聞くべきことは、あとひとつだった。怖い順に並べたから、最後に残った。
「止める方法は」
ヴァンは、すぐには答えなかった。碑の刻み文字を読むでもなく眺めて、それから、俺を見た。
「……ないよ。少なくとも、僕らには」
「僕らって、誰までですか」
「渡り手には。ギルドには。この丘の騎士団には。三千世界のどこを探しても、剪定を止めた記録は一枚もない。僕らにできるのは、逃げる算段と……看取りだけだ」
ガロが何か言いかけて、言葉にならずに唸った。ノアは灰色の円の外から、じっと碑を見ていた。
俺は、うまく怒れなかった。怒りより先に、腑に落ちてしまったからだ。地球は事故で消えたんじゃない。病気でも、天災でもない。どこかの誰かが帳面を繰って、地球の欄に「実らない」と書き込んだ。あの朝、あとでかけ直すわ、と俺が切った電話の向こうの世界は——誰かの、決裁ひとつで畳まれた。
握った拳の中で、爪が掌に食い込んでいた。その痛みで、辛うじて立っていた。
■
丘を降りる頃には、日が傾いていた。夕焼けは、また薄くなっていた。
先を行くガロとノアの背中を見ながら、俺はヴァンの隣に並んだ。言うと決めていた。この世界に来てからずっと腹の底で形になりかけていたものが、今日、名前を持ったのだ。
「ヴァンさん。俺、決めました」
「うん?」
「俺は、地球を取り戻す」
ヴァンの足が、止まった。
薄い夕焼けを背負って、特級渡り手は俺を見た。笑うか、諭すか、はぐらかすか。どれでも受けて立つつもりだった。ヴァンは、どれもしなかった。
「……止める方法はない、って言ったばかりだけど」
「止める方法が、ないんでしょう。刈られた世界を取り戻す方法がないとは、聞いてません」
我ながら、屁理屈だった。取り戻す、の中身も、手がかりも、まだ何ひとつ持っていない。それでも、言葉の重いこの世界で、俺は口に出した。出した言葉は、もう戻せない。この国の流儀は、たぶん、こういうときのためにある。
ヴァンは俺の顔を長いこと眺めて、それから、ふ、と息だけで笑った。いつもの茶化した笑いと、少しだけ違って聞こえた。
「——ほんと、面白いね、キミは」
それだけ言って、また歩き出した。
否定は、最後までしなかった。




