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忘却世界の渡り手ーー忘れないと決めた男の忘れられる旅  作者: 生サーモン


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【第17話】監察卿

 監察卿サマご到着の日、グレンヴェル砦は夜明け前から大掃除の音で目を覚ました。


 中庭では兵士が石畳を磨き、厩の前では馬糞のひとつまで拾われていた。見張り塔の旗は洗いたてに替えられ、篝火の台まで煤を落とされている。三日前の早馬からこっち、砦の人手は獣の警戒と掃除とに二分されていた。得体の知れない獣が夜ごとうろつく最中に、雑巾がけである。


「偉い人ってのは、どこの世界でも掃除させるんだな」


「王都のお貴族サマだからな! オレの故郷じゃ、偉いやつほど泥だらけだったぞ!」


「いい故郷だ」


 昼前、行列が街道の先に見えた。磨き上げた甲冑の護衛騎士が八騎、続いて漆塗りの馬車が二台。使い回しの材木で壁を継いだこの砦の前で、その行列は嫌味なくらい光っていた。


 馬車から降りてきたのは、恰幅のいい初老の男だった。仕立てのいい外套に、指ごとの指輪。そして香水。十歩離れたこっちまで、花の匂いが届いた。後ろには、分厚い帳面を抱えた書記官が三人続いた。


「出迎え、大儀。監察卿バルデスである」


 声だけは、よく通った。セシル隊長が騎士の礼を取る。


「辺境騎士団第三隊長、セシル・オードランです。遠路の査察、恐れ入ります」


「うむ。……時に隊長殿、報告書にあった『魔物の異常発生』とやらだがな」


 卿は挨拶もそこそこに、砦の壁を、旗を、整列した兵士たちを、値踏みの目で順に眺めた。


「王都からの道中、魔物の一頭も見なんだ。実にのどかな旅であったよ」


 それが、査察の第一声だった。





 査察は昼食の後、砦の会議室で始まった。


 俺とガロも同席させられた。卿が「界渡りの傭兵とやらも呼べ」と言ったからだ。傭兵じゃなく渡り手なんだが、訂正を挟める空気ではなかった。ノアは廊下で待たせ、フィムは俺の胸ポケットで置物になっている。


 卿はまず、書記官に数字を読み上げさせた。


「この二月の魔物目撃、四十一件」


「はい。例年の十倍を超えます」


「うち、死者は」


「……おりません。負傷者が三名です」


「家畜の被害は牛が七、羊が十二。銭に直せば、知れた額ですな。隊長殿、王都でその額と言えば、宴一晩の酒代ですぞ」


 書記官の筆が、さらさらと走る。セシル隊長の背筋は、まっすぐなまま動かなかった。


「卿。数字に出ないものがございます。村々は夜を恐れ、猟師は山に入れず、街道の行き来にも影が出ております」


「ほう。では、討伐隊を五度も出して、成果は」


「交戦は三度。手応えはありましたが、亡骸が」


「残らなかった。報告書で読み申した。倒せば灰になって消える獣、追えば足跡ごと消える獣。……隊長殿、王都の学士院でその話をしたらな、なんと言われたと思うかね」


 卿は初めて笑った。感じの悪い笑いの見本みたいな笑いだった。


「『辺境は夜が長く、酒が強い』」


 ガロの喉の奥で、低い音が鳴った。テーブルの下で、俺はガロの足を軽く踏んだ。


「発言、いいですか」


 黙っていられなくて、俺は借り物の地図を広げた。四十一件の目撃を書き込み、来た方角と帰った方角を線で結んだ、あの地図だ。


「目撃を線で結ぶと、全部が南の碑の丘に集まります。餌でも縄張りでもない、獣にはありえない動き方です。それと、これを見てください」


 スマホを出して、色の抜けた花畑と、碑の周りの灰色の円を映した。卿は身を乗り出しもせず、顎で書記官に見させた。


「卿……絵が、光っております」


「異国の妖術の絵か。それで、渡り手殿。その灰色とやらの現物は」


「灰は風で崩れます。持ち帰れません」


「つまり、物証はない、と」


 卿は指輪だらけの手を、腹の上で組んだ。


「地図の線は、おぬしが引いた。光る絵は、おぬしの道具の中にしか映らぬ。灰は消えた。……のう、渡り手殿。わしが四十年、王都で見てきたことを教えて進ぜよう。国庫の金というものはな、そういう『目に見えんもの』を語る者から順に、食い潰しにかかるのだ」


 反論なら、いくつも用意していた。用意していたはずなのに、口の中で全部乾いていった。この人は、見に来たんじゃない。削りに来たんだ。結論が先にあって、査察はその清書にすぎない。


「結論を申す」


 卿は書記官に頷いてみせた。筆が構えられる。


「当砦の討伐費は、実害に見合う額まで削減。壁の補修費の増額申請は却下。夜間の見回りは半数でよろしい。……それと、渡り手ギルドとやらへの調査依頼。これは規定にない支出ですな。規定にない支出は、認められませんな」


「卿! 彼らはすでに、獣を三頭仕留めております!」


「亡骸のない獣を、でしょうな。依頼の打ち切りは王都へ具申いたす。沙汰があるまで、報酬の追加払いは凍結。……異存があれば、王都で聞こう」


 凍結、のあたりで胸ポケットがもぞりと動いたが、フィムは辛うじて置物を守り抜いた。偉い。


 俺はといえば、怒りより先に、別のものが背中を這い上がっていた。


 帳面の上に線を一本引く。それだけで、壁の補修が止まり、見回りが減り、村の夜が薄くなる。この人は誰も殴らない。血も見ない。ただ、数字に見合わないものを、順番に切っていくだけだ。


(……この手つきを、俺は知ってる気がする)


 保護院で聞いた話を、思い出していた。世界の終わりには十日、二週間という相場があって、俺の世界だけが半日で畳まれた。急ぐのは、刈る側に都合があるときだ。帳簿のどこかで誰かが、地球に「見合わない」と判を押した。そう考えるのは飛躍だと、自分でも分かっている。分かっているのに、目の前で帳面を繰るこの手つきと、あの日の空とが、嫌な具合に重なって離れなかった。


 世界を数字で刈る者。その小さいやつなら、いま、目の前に座っている。





 会議室を出た廊下で、ガロが壁を殴りかけて、寸前で止めた。


「なんっだ、ありゃあ! 現場も見ねえで、帳面と睨めっこで全部決めやがった!」


「声がでかい。聞こえるぞ」


「聞かせてんだよ!」


 胸ポケットから、フィムが解凍された。


「ボクずっと我慢してたんだけど! いま『凍結』って言ったよねあの人!? 報酬凍結って、ここまでの路銀はどうなるの!? 帰りの門の通行料は誰持ち!?」


「落ち着け。まだ具申するって段階だ」


「具申って何!? 食べられるの!?」


 妖精は妖精で、命より帳簿の心配をしていた。もっとも、フィムの帳簿は俺たちの飯と直結しているので、卿の帳簿よりいくらか可愛げがある。


 廊下の隅で待っていたノアが、俺の袖をつまんだ。


「……あのひと、きらい」


「奇遇だな。俺もだ」


「オレもだ!」


「ボクも! 経費のかたき!」


 満場一致だった。多数決であの馬車が王都へ帰ってくれるなら、いくらでも手を挙げるんだが。卿の一行は、査察が済むまで砦に逗留するという。獣より長居する査察だった。


 夕方、城壁の上に、セシル隊長が一人で立っていた。


 声をかけるか迷って、結局、隣に並んだ。隊長は暮れていく街道を見たまま、ぽつりと言った。


「申し訳ありません。あなたがたの働きに、あのような沙汰を」


「隊長さんが謝ることじゃないでしょう」


「……卿は、あれで、嘘は言っておられないのです」


 意外な言葉に、俺は隊長の横顔を見た。


「王都から見れば、辺境の獣害など帳簿の端の数字です。国庫は無限ではなく、どこかで誰かが線を引かねばならない。卿はその役目を四十年、王命への誓いで果たしてこられた方です。誓いに殉じているという一点では……我々と、同じ作りの方なのです」


「同じ、ですか」


「ええ。ですから、余計に」


 隊長は、手すりを握る手に、初めて力を込めた。


「線を引くなら、一度でよい。線の下に立つ者の顔を、見てからにしていただきたい」


 言葉の重い国の人の、精一杯の悪態だった。俺は笑いかけて、やめた。笑いごとじゃなかった。依頼が打ち切られれば、俺たちは都市へ帰される。色の抜けていくこの世界を、置いて。





 その夜、寝つけないまま、燭台の明かりで手帳を開いた。


 ルタ村の斜面で摘んだ二本の花が、頁の間で乾きかけている。色の薄い一本と、比べるために摘んだ、ちゃんと黄色い一本。そのはずだった。


 黄色いほうの花の、色が薄くなっていた。


 押し花になる途中で褪せただけだ、と思おうとした。摘んで五日にはなる。乾けば色くらい落ちる。落ちるが……水気の残った花びらから、色だけが先に抜けるものだろうか。


 気がつくと、上着を掴んで廊下に出ていた。ガロを起こすかどうか三秒考えて、やめた。押し花の色褪せを確かめに行くのに、でかい狼を叩き起こす理由が見つからなかった。


 門番に断って、白み始めた街道を村へ走った。


 ルタ村の南外れ、畑の脇の斜面。五日前、円く切り取ったようにひと処だけ色の薄かった、あの花畑に着いたとき、ちょうど朝日が丘の稜線を越えた。


 朝日は、ちゃんと橙色をしていた。


 その光の下で、斜面の花は、端から端まで、まるごと灰色になっていた。


 黄色は、一輪も残っていない。風が渡って、色のない花畑が、色のない波になって揺れた。枯れてはいない。揺れ方で分かる。生きたまま、色だけが、この斜面から引き上げていったのだ。


 円は、もう円ではなかった。五日かけて手のひらほどずつ広がっていたものが、一晩で斜面をまるごと飲み込んでいた。


(……急ぎ始めた、のか)


 誰が。何の、都合で。


 朝焼けの下、灰色の花畑の前で、俺はしばらく動けずにいた。ポケットの中の手帳の、花を挟んだあの頁だけが、やけに重かった。


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