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忘却世界の渡り手ーー忘れないと決めた男の忘れられる旅  作者: 生サーモン


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【第16話】誓いの碑

 碑の丘への道は、砦から歩いて小一時間の登りだった。


 翌朝、セシル隊長みずから先導して、俺とガロとノア、兵士が四人の隊列で丘へ向かった。登り口に例の丸い石が据えてあって、兵士たちが順に手を当てていく。街道の辻で見た、あの手つきだ。


「誓い石です」と、セシル隊長が教えてくれた。「昔の人が、小さな誓いを結んだ場所に据えたもの。畑を守る、子を育てる、そういう誓いの。国じゅうの誓い石は、みなこの丘の碑の子だと言われています」


 なるほど、この国は誓いでできている。道端の石ころに至るまで。俺も見よう見まねで手を当てた。ただの冷たい石だった。当たり前だが。


 街道を外れると道は羊の踏み分け道になって、登るほどに風が強くなる。振り返れば、ルタ村の藁屋根と、麦畑と、遠くにグレンヴェル砦。額に入れて飾りたいような眺めだった。


 その額の中身が、登るにつれて、色を落としていった。


 最初に気づいたのは草だ。斜面の下では夏の緑だったのが、登るほどに、じわじわと鮮やかさを失っていく。枯れ色じゃない。緑の形をした灰色に、近づいていく。写真アプリで彩度を一段、また一段と下げていくのを、坂道で再生しているようだった。


「なあガロ。この辺の草の色、どう見える」


「あん? ……ふつうの草だろ」


 ガロにも、そう見えている。兵士たちも、セシル隊長も、誰も足元を気にしていない。花畑の農夫と同じだ。この世界の住人の目は、この変化を「そういうもの」として素通りする。


 ノアだけが、さっきから黙って足元を見ていた。いや、あいつは大体黙っているんだが、今日は黙り方が違った。


「ノア。どうした」


「……わかんない。なんか」


 ノアは自分の胸のあたりを、服の上から軽く押さえた。


「なんか、鳴ってる」


 鳴ってる。何が、と聞き返す前に、先頭のセシル隊長が「見えました」と言った。





 丘の頂は、風の通り道だった。


 膝丈の草の真ん中に、石碑が一本、立っていた。高さは俺の背丈の倍ほど。長い年月に角の丸くなった立石で、表面に古い文字が刻まれている。囲いも祠もない。ただ、碑の周りだけ草が短く踏まれているのは、参る人間がいまも絶えない証拠だった。


「王国最初の騎士が、ここで誓いを立てたと伝えられています」


 セシル隊長は碑の前で膝をつき、剣の柄に手を添えて頭を垂れた。慣れた、というより、体に染みた動きだった。


「まだ王国もなく、騎士という言葉すらなかった頃、一人の男がこの丘で『我、この地を護る』と誓ったのだそうです。その誓いに人が集まり、集まった人々の誓いが、やがて国の形になった。……我々は叙任の日、必ずこの丘に登ります。私も、ここで剣に誓いました」


「その誓いの言葉が、これですか」


 碑の文字は、大半が風化して読めなくなっていた。ただ、中ほどの一行だけ、彫りが深いのか、はっきりと残っている。セシル隊長は頷いた。


「はい。『我、この地を護る』。……誓いは、守るためにあります。千年守られてきた誓いが、この国の背骨です」


「なあ、隊長さんよ。その最初の騎士ってのは、何から護る誓いだったんだ?」


 ガロの問いに、セシル隊長は少しだけ間を置いた。


「……伝承は、そこを語りません。ただ『護る』と。相手の名は、どの写本にも残っていないのです」


「なんだそりゃ。肝心なとこが抜けてんな!」


「ええ。私も叙任の日、同じことを思いました」


 千年。気の遠くなる話に、ガロが「ほへえ」と間の抜けた声を出した。俺も似たような声を出すはずだった。出せなかった。


 碑の周りの草が、灰色だったからだ。


 丘の中腹の「鮮やかさの落ちた緑」なんて、可愛いものじゃなかった。碑を中心に、半径十歩ばかりの円の内側で、草も、地面の苔も、色というものがほとんど抜け落ちていた。古い白黒写真の中に、碑だけが立っている。俺は膝をついて、灰色の草を一本つまんだ。感触は生きた草のままだった。指の腹に、ちゃんと水気がある。生きたまま、色だけがない。それが余計に薄気味悪かった。


(村の花畑より、ずっと進んでる。……ここが、いちばん深い)


 色の褪せは、この丘を中心に広がっている。灰色の獣は、この丘から出て、この丘へ帰る。この世界で起きている何かの真ん中が、ここだ。根拠と呼べるものは、俺の目と、地図の上の四十本の線だけ。それでも、俺の背筋を凍らせるには十分すぎた。


「メグル殿? どうかされましたか」


「……いえ。古い碑だなと、思って」


 セシル隊長には、この灰色が見えていない。見えない人に、何と言えばいい。あなたたちの背骨のこの丘が、俺の故郷と同じ抜け方をしています、とでも? 言葉の重いこの国で、そんな台詞を軽々しく口にできるほど、俺はまだ何も知らない。


 スマホを出して、碑と、灰色の円を撮った。昨日までの写真と並べて、俺だけの証拠が、また一枚増えた。





 そのとき、ノアが碑に近づいた。


 ふらり、という歩き方だった。名前を呼ばれて席を立つときの、あの何気なさで、ノアは灰色の草を踏み、碑の前に立ち、白い手を石の面に当てた。


 風が、止んだ。


 大げさでなく、丘の上の音が一拍ぶん消えた。ノアの銀色の髪が、風もないのにわずかに浮いて、碑の刻み文字の溝を、光ともいえないほど淡いものが走った。気のせいだと言われたら反論できない。それくらいの、一瞬。


 ノアが、膝から崩れた。


「ノア!」


 駆け寄って支えた体は、ぞっとするほど軽かった。ノアは自分の手のひらを見つめて、それから碑を見上げて、小さな声で言った。


「……よばれた」


「呼ばれたって、誰に」


「わかんない。……とおくで、鐘みたいなのが鳴って。わたしの、なかで」


 本人がいちばん、わけの分からない顔をしていた。セシル隊長が慌てて水筒を差し出し、ガロは「碑に触ると何かあるのか!?」と自分でべたべた触って、何も起きなかった。兵士が触っても、俺が触っても、石はただの冷たい石だった。俺のときだけ、ほんの一瞬、指先があたたかい気がしたが、直前までノアの手があった場所だ。ぬくもりの残りと区別がつかなかった。


 ノアのときだけ、丘は確かに、別の顔をした。


「……この碑が、何か知りませんか。伝承以外のことで」


 セシル隊長は首を横に振った。


「碑は碑です。千年、ただここに立っているだけの。……ですが」


 彼女は、まだ少し青い顔のノアを見て、言葉を選んだ。


「騎士団には古い言い伝えがあります。碑が応えるのは、誓いを捧げる者だけだと。……その子は、何かをこの丘に、誓ったのでしょうか」


 ノアは俺の袖をつまんだまま、黙って首を振った。帰り道、その指は最後まで離れなかった。


 (碑と、ノア。……こいつはたぶん、あの「段差の欠け」と同じ棚の話だ。丘の色抜けとは、別の棚の)





 夜、砦の中庭で、ノアは空を見上げていた。


 満天の星だった。灯りの少ない辺境の夜空に、びっしりと星が出ている。アーケイルの空もどきでは、星なんて一度も見なかった。食堂のほうからは、ガロと兵士たちの腕相撲大会の歓声が聞こえてくる。あいつは二日で、この砦の名物になりつつあった。


 ノアは首が痛くなりそうな角度のまま、身じろぎもしない。俺も隣の切り株に腰を下ろして、同じ角度で空を見上げた。首が痛かった。よくやるな、この体勢。


「地球にも、星はあった。ただ俺の住んでたとこは街が明るすぎて、これの百分の一も見えなかったけど」


「……もったいない」


「だな。もったいないことしてたよ、いろいろ」


 星が見えないことを、もったいないと思ったことすらなかった。失ってから数える持ち物が、また一つ増えた。でも今夜のこれは、湿っぽい話じゃない。頭の上に星があって、隣に星の世界の子がいる。それだけの夜だ。


「エルメアの星と、似てるか」


「……ちがう。ならびが、ぜんぜん」


 そうか、と俺は言った。星を読む世界の子に、よその星空は、知らない言葉で書かれた本みたいなものかもしれない。余計なことを聞いた、と思った矢先だった。


「でも、星がある」


 ノアは空を見上げたまま、続けた。


「空があって、風があって、ひるまは、あったかい。……この世界、好き」


 好き。


 その言葉を、ノアの口から初めて聞いた。三年間、好きも嫌いも言わなかった子が——言っても覚えていてくれる相手がいなかった子が、いま、世界をひとつ丸ごと指して、好きだと言った。


「そっか」


 俺はそれだけ返した。それだけしか返せなかった。この丘で何が起きているのか、俺はまだ何も知らない。知らないが、決めごとがひとつ増えた。ノアが初めて好きだと言ったこの世界の空を、灰色になんて、させたくない。


 誓いは、守るためにあります、か。口には出さなかった。この国では、言葉が重すぎる。


 中庭の向こうが騒がしくなったのは、そのときだった。


 早馬が砦の門をくぐり、伝令の兵士が息を切らしてセシル隊長を呼ばわっている。何事かと近づいた俺の耳に、口上が届いた。


「王都より通達! 監察卿バルデス様、辺境査察のため、三日ののちに当砦へお見えになります!」


 松明の明かりの中で、セシル隊長の顔が、はっきりと曇った。


 剣より、獣より、よほど嫌なものが来る。そういう顔だった。


 丘の謎の上に、王都の政治。別の棚の厄介ごとが、間の悪いときに届いた。そういう夜だった。


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