【第15話】灰色の獣
夜明けの草原には、膝の高さまで霧が溜まっていた。
ゆうべの足跡は、南の丘陵へ向かっている。追跡は俺とガロ、それに砦から駆けつけた兵士二人の四人で始めた。ノアはルタ村に残してきた。ピノが「銀色のねえちゃんはぼくが案内する!」と胸を叩いていたから、いま頃は羊の囲いの見学ツアーが開催されているはずだ。
「旦那がた、本当に行きなさるんで」
兵士の片方は、まだ二十歳前に見えた。槍を握る手に、力が入りすぎている。
「行かないと調査になりませんから。先頭はガロ、俺が足跡を読みます。お二人は、俺たちより前に出ないでください」
偉そうに段取りを仕切ったが、白状すると、俺の膝も朝からずっと軽く笑っていた。地球で俺が経験した「危険」の最高記録は、バイト先に深夜に来た酔っ払いだ。あれはあれで怖かったが、少なくとも、匂いと理屈はあった。
足跡は霧の中を、まっすぐ南へ続いていた。まっすぐすぎた。獣の道というのは、水場や茂みを縫ってうねるものらしい。ガロがそう言った。この足跡は、定規で引いたみたいに、丘へ向かって一直線だった。
「腹が減って村に降りた、って足取りじゃねえな。あれだ、使いっ走りの帰り道だ」
「使いって、誰の」
「知らねえよ! 例えだ、例え!」
例えのくせに、妙に腑に落ちるから困る。誰かに用を言いつけられた足取り。行きと帰りしかない道。俺は手帳にそれも書いた。
小川を越えたあたりで、足跡が消えた。
ぬかるみはまだ続いているのに、跡だけがない。猟師が音を上げた理由はこれか、と思いながら進むと、五十歩ほど先で、何事もなかったように跡が再開していた。途切れる理屈も、再開する理屈も分からない。若い兵士が槍を握り直して、聞こえよがしに唾を飲んだ。気持ちはよく分かる。
「見えなくなる獣より、途中で歩くのをやめる足跡のほうが、オレは嫌だぜ」
ガロが小声で言った。同感すぎて、返事をしそこねた。
■
霧が晴れかけた頃、丘の斜面に、そいつらはいた。
三頭。大きさは大型犬くらい。最初は岩かと思った。灰色一色で、毛並みの艶も、目の光もない。粘土をこねて獣の形にする途中で放り出したような、のっぺりした体。それが三頭、斜面の途中に、置物みたいに立っていた。
そして、あの灰色を、俺はどこかで見たことがあった。すぐに思い当たって、口の中が乾いた。狭間だ。世界と世界の間の、何もない場所の色。あの虚無をすくって、獣の型に流し込んだら、こうなる。
風が、こっちの背中から吹いた。匂いは届いたはずだ。反応がない。
「……見えてんのか、あいつら」
ガロが囁いた瞬間、三つの灰色が、一斉にこっちを向いた。
目もないくせに。
最初の一頭が地面を蹴った。速い。若い兵士が槍を構えるより早く、ガロが前に出た。体当たりをまともに受け止め、組んだ腕ごと振り回して、地面に叩きつける。骨の折れる音の代わりに、砂袋を落としたみたいな湿った鈍い音がした。
「かってえ! なんだこいつ!」
叩きつけられた灰色は、ひしゃげた脇腹をそのままに、平然と起き上がった。血が出ない。へこんだ場所が、ゆっくり盛り上がって元に戻っていく。痛がらない。吠えない。息も、していない。ただ、また跳びかかってくる。
戦いの音が、半分しかなかった。ガロの咆哮、兵士の怒号、槍の穂が体をこする音。こっちの出す音だけがあって、向こうからは、何もない。唸りも、爪が地面を掻く音すら聞こえない。羊番のばあさんの言った通りだった。あいつらは、鳴かせもしないし、鳴きもしない。
二頭目が兵士たちへ向かった。三頭目は、大回りに弧を描いた。その弧の先を目で追って、胃が縮んだ。回り込む先にいるのは、俺だ。
(だよな。一番弱いの、どう見ても俺だもんな)
選ばれた理由は分かるが、選ばれて嬉しい理由ではなかった。俺は転がるように距離を取りながら、そいつを見た。見るしか能がないから、見た。《観察》の名前をもらった目で、穴が開くほど見た。
跳びかかる直前、灰色の体の、胸の奥がわずかに濃くなる。
一度目は、見間違いかと思った。二度目、同じだった。踏み込みの力が入る瞬間だけ、胸の中心の一点に、灰色が影みたいに凝る。濁った水の中に沈んだ、小石ひとつ。そういう見え方だった。外側はいくら潰しても戻る。なら、戻る体を戻している「元」は、あそこだ。
「ガロ! 胸の真ん中だ! 濃い芯みたいなのがある! 外をいくら潰しても戻るぞ!」
「胸だな!!」
ガロは疑わなかった。組み付いてきた一頭目の胸へ、拳を突き込む。一発目は手応えがない。二発目も同じだ。三発目で、何かの砕ける感触があったらしい。
灰色の巨体が、動きを止めた。
止まって、端から崩れた。乾いた砂の城が崩れるみたいに、輪郭から順に灰になって、風にほどけていく。あとには何も残らなかった。骨も、牙も、死体と呼べる何もかもが、なかった。
「……オレはいま、何を倒したんだ?」
ガロの問いに、答えられる者はいなかった。
その間に、三頭目が俺との距離を詰めていた。跳ぶ、と胸の芯が濃くなる。分かったところで、俺の足では躱しきれない。横っ飛びに転がって、二撃目が来る前に体が起きない。爪が来る。来ると分かって、動かない自分の体を初めて呪った。
爪は、来なかった。
灰色の首から先が、視界の端で吹っ飛んでいた。割り込んだガロが、そのまま胸を踏み抜いて、二頭目はそれで灰になった。残る一頭も、芯の場所さえ分かれば、兵士二人の槍で沈んだ。
最後の灰が風に散ったとき、俺はまだ、草の上に尻をついたままだった。
「メグル! 無事か!」
「……ああ。悪い、足引っ張った」
「何言ってんだ、芯を見つけたのはおまえだろ」
ガロは笑って、それから俺の肩を掴んだ。声のでかさはそのままで、目だけが真剣だった。
「けどな、次からは最初っからオレの後ろにいろ。おまえの目は、おまえの体ごと無事じゃねえと役に立たねえんだ。いいな!」
「……了解」
ありがたかった。ありがたくて、同じくらい悔しかった。守られる前提の作戦は、守るやつの手を一本塞ぐ。ガロが俺を庇いに割り込んだあの一瞬、あいつの背中はがら空きだった。相手が三頭だったからよかっただけの話だ。四頭目がいたら? 分かっていて、いまの俺には、その前提を外せない。手帳を握る手に、変な力が入った。
■
灰は、匂いすら残さなかった。
ちなみに戦いが終わってから、胸ポケットのフィムが寝癖のついた頭で顔を出し、「いま! いま緊急だった気がする!」と叫んだ。過ぎた。緊急、もう過ぎたよ。フィムはしばらく灰の跡を飛び回って、青い顔(光の顔だが)で戻ってきて、「ボクの知らない何かだ」とだけ言って、またポケットに沈んだ。案内精霊の台帳にもない、ということだけ分かった。
ガロいわく「燃えかすの匂いもしねえ」。かき集めようとした灰は指の間でさらに細かくなって、風に消えた。証拠として持ち帰ることもできない。倒す前と倒した後にスマホで撮った数枚だけが、あいつらがいた記録だった。
若いほうの兵士は、槍にすがったまま座り込んで、灰のあった場所と自分の手のひらを、交互に見ていた。
「魔物ってのは……ああいうもんなんですかい、旦那」
「いや。俺も初めて見た」
帰り道になって、ようやく気づいたこともある。行きにあれだけうるさかった草の虫が、あの斜面の周りだけ、一匹も鳴いていなかった。鳥もいない。野兎の糞も、途中からぱったり消えていた。生き物は、あいつらの通り道を知っていて、避けている。知らずに突っ込んだのは、俺たちだけだ。
嘘じゃない。ギルドの資料で読んだどの魔物とも違う。食わないのに家畜を襲い、血の代わりに灰が詰まっていて、死んだら跡形も残らない。生き物の理屈のどこにも、あいつらの席がない。騎士団が二月追いかけてきた「魔物の異常発生」の正体は、獣の皮をかぶった、何か別のものだ。
じゃあ、何だ。
考えても答えは出なかった。出なかったが、代わりにやれることはあった。午後いっぱいを使って、俺は砦で目撃記録を洗い直した。日付、場所、頭数、現れた方角と消えた方角。四十件ぶんを、借りた地図の上に全部書き込んでいく。単純作業は得意だ。レジ締めで百円を三十分探す種類の人間なので。
夕方、砦の会議室で、その地図をセシル隊長の前に広げた。ルタ村で散々連れ回されたらしいノアは、部屋の隅の長椅子で、船を漕いでいる。
「目撃場所そのものは、ばらばらに見えます。でも、それぞれの『来た方角』と『帰った方角』を線で結ぶと、こうなります」
地図の上で、四十本の線は、綺麗に一点へ集まっていた。
南の丘陵の、いちばん高い丘。線の束の先を、セシル隊長は長いこと見つめていた。ろうそくの火が、硬い横顔の上で揺れた。
「……ここは、碑の丘です」
「碑?」
「誓いの碑。この王国が生まれるより前からあるという、古い石碑です。あの丘には獣の餌になるものも、巣にできる森もありません。碑がひとつ、立っているだけの丘です」
ただ碑があるだけの丘から、灰色の獣は来て、灰色の獣は帰っていく。
「明日、案内していただけますか」
俺が言うと、セシル隊長は頷いた。頷いてから、独り言のように付け足した。
「あの丘は、我々の誓いの源です。……何もないことを、祈ります」




