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忘却世界の渡り手ーー忘れないと決めた男の忘れられる旅  作者: 生サーモン


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【第14話】灰色の花

 ルタ村の朝は、鶏より牛が先に鳴いた。


 砦の麓に広がる、家が三十ばかりの農村だ。石を積んだ低い塀、藁葺きの屋根、道を横切る鶏。畑は麦で、村はずれに羊の囲いがある。絵本から切り出したような村だった。もっとも、絵本の村に、俺たちみたいな来客は出てこないが。


「わたりての旦那がた、まずはうちの牛を見てくだせえ」


 村長のじいさんに案内されて、午前中は聞き取りに費やした。歩けば村人が寄ってくる。半分は物珍しさで、半分は藁にもすがる顔だった。子供たちは塀の陰からノアの銀髪をこっそり見ては、目が合うと引っ込んだ。


 まず見せられたのは、破られた囲いの柵だった。太い横木が、へし折られている。噛み痕でも爪痕でもない。押しただけで折った、という折れ方だった。倒された牛は角の立派な若い雄で、じいさん曰く「群れで一番強い牛から順にやられる」らしい。腹の減った獣は、普通は一番弱いのを狙う。逆だ。


 被害はこうだ。夜中に家畜の囲いが破られる。牛や羊が倒される。だが、食われていない。爪の痕はあるのに、血の痕が妙に少ない。そして番犬が吠えない。吠えないどころか、朝まで囲いの反対の隅で震えている。


「犬が吠えねえなんて、初めてでさ。狼のときも熊のときも、あいつら命がけで吠えるのに」


 羊番のばあさんは、もっと薄気味の悪いことを言った。あの晩、囲いの羊が全部で三十と六頭いて、暴れる音で目が覚めたのに、鳴き声をひとつも聞いていないというのだ。羊も、犬も、襲ったやつも、音という音は柵の折れる音だけ。猟師は三日追って手ぶらで帰り、それきり山に入りたがらないという。


 ガロが囲いの周りに膝をついて、地面に鼻を近づけた。獣人の嗅覚は猟犬並みと聞いている。その鼻が、しばらく地面の上をさまよって、止まった。


「……メグル。おかしいぞ」


「何かいたか」


「逆だ。何もいねえ。牛の血の匂いと、村の連中の匂いだけだ。囲いを破ったやつの匂いが、どこにもねえ」


 匂いのない獣。ガロの耳が、落ち着かなげに二度動いた。冗談を言っている顔ではなかった。


 俺は手帳に書きつけた。食わない。血が少ない。鳴かせない。匂いがない。並べれば並べるほど、獣の行動から遠ざかっていく。ヴァンの言っていた「動物の理屈に合ってない」は、こういうことか。


(じゃあ何の理屈なら、合うんだよ)





 昼すぎ、村の南の外れで、俺は足を止めた。


 畑の脇の斜面に、花畑があった。誰かが植えたものじゃなく、勝手に咲いているやつだ。黄色い小さな花が斜面いっぱいに広がって、風のたびに揺れる。のどかな眺めだった。その一角を見るまでは。


 斜面の真ん中あたり、ちょうど円く切り取ったような範囲だけ、色が薄かった。


 黄色が、褪せている。枯れているんじゃない。花びらはみずみずしいまま、色だけが、日に焼けた古いポスターみたいに抜けている。周りの花との境目は曖昧で、それでも確かに、そこだけ別の季節だった。


 膝から下が、すっと冷えた。


 知っている。この抜け方を、俺は知っている。信号の赤が灰色になった、あの交差点。カメラは嘘をつかないと思いながら撮った、薄い空。それに、保護院の談話室で、じいさんたちは口を揃えて言っていた。最初は夕陽の色が薄くなった、と。次の日は海の青が薄くなった、と。


 世界の終わりは、色から始まる。


「ノア、この花……」


 言いかけて、やめた。振り向いた先で、通りがかりの農夫がこっちに気づいて、人のいい顔で近寄ってきたからだ。


「ああ旦那、そこの花が気になりますかい」


「この辺だけ、色が薄くないですか」


「薄い?」


 農夫は花畑を見て、俺を見て、もう一度花畑を見た。本気で分からない顔だった。


「……そういうもんじゃねえですかい? 日当たりやら土やらで、花の色なんぞまちまちでさあ」


「ですよね。すみません、変なこと聞きました」


 笑って流した。流しながら、背中に汗が伝っていた。見えていないんじゃない。あの人には、あれが「そういうもの」に見えている。地球の交差点で、灰色の信号を「赤ですけど」と言った、あのスーツの男と同じ目だった。


 スマホを出して、花畑を撮った。画面の中でも、そこだけ色が薄い。カメラは嘘をつかない。なら、おかしいのは俺の目じゃなくて、この世界のほうだ。


 いや、待て。落ち着け。この世界の花にはそういう咲き方があるのかもしれない。土のせいかもしれないし、病気かもしれない。俺は地球の終わりを一度見ただけの素人で、花の色が薄いことと世界が終わることの間には、まだ何百歩もある。


 何百歩もあるのに、膝の冷えが引かなかった。


 俺は薄い色の花を一本だけ摘んで、手帳に挟んだ。隣に、斜面の下で摘んだちゃんと黄色いやつも挟む。数日おいて見比べれば、少なくとも「進んでいるかどうか」は分かる。それくらいしか、いまの俺にできることはなかった。


 ノアが、俺の袖を軽くつまんだ。


「メグル。顔、こわい」


「……悪い。なんでもない」


 なんでもなくはなかった。でも、そう言うしかなかった。この世界の人に向かって、あんたの世界は色が抜け始めてる、なんてどの口で言う。証拠はあるのかと聞かれたら、俺の故郷がそうだった、しかないのだ。





「ねーねー! それなに!?」


 村の広場で昼メシを使っていたら、真横から声が飛んできた。


 十歳くらいの男の子が、俺の手元のスマホに、目の高さを合わせてかぶりついていた。麦わら色の髪に、そばかす。後ろでは村の子供が三人、遠巻きにこっちをうかがっている。


「これ? えー……遠くの国の、道具」


「ひかった! いま中で絵が動いた! ねえそれなに!? たべもの!?」


「食い物ではない」


 ピノ、と名乗った。村の水汲みと羊番が仕事だという。渡り手を見るのは生まれて初めてで、ゆうべは楽しみで眠れなかったらしい。正直でよろしい。


 俺は少し考えて、カメラを起動して、ピノに向けてシャッターを切った。画面に映った自分の顔を見た瞬間、ピノは文字通り跳び上がった。


「ぼくがいる!! 中にぼくがいる!!」


「魂は取ってないから安心しろ」


「すごい、すごい! ねえ旦那、じいちゃんも撮れる!? うちの羊も撮れる!?」


 撮れる撮れる、と応じているうちに、遠巻きだった子供たちも寄ってきて、広場はちょっとした撮影会になった。ガロが牙を剥いて変な顔をするたび、子供たちが転げて笑う。ノアはその輪の半歩外にいて、差し出された画面を覗き込んでは、静かにまばたきを繰り返していた。


 ピノは撮った端から俺の隣に張りついて、質問を浴びせてきた。旦那の国はどこにあるの。空の街ってほんと。銀色のねえちゃんはお姫さま? 最後のやつにノアが振り向いて、ピノは「ちがったらごめん!」と直角に頭を下げた。ノアは三秒考えて、真顔で「……ちがう」とだけ返した。この二人、妙に波長が合うらしい。


「なあピノ。夜は外に出るなよ。例の獣の件が片付くまでは」


「知ってる! 母ちゃんとやくそくしたもん。ゆびきりで」


 ピノは小指を立てて見せた。指切りは、この世界では子供の遊びじゃない。ゆうべの食堂の話を思い出して、俺は少しだけ安心した。この国の約束は、破られにくくできている。


 夕方、解散の間際に、ピノが西の空を指差した。


「旦那、見て。ゆうやけ」


「おう。……綺麗だな」


「ねえ。ゆうやけって、昔っからこの色?」


 シャッターを切りかけた指が、止まった。


 ピノに深い意味はない。子供の言葉だ。じいちゃんがね、昔の夕焼けはもっと火事みたいだったって言うんだ、と笑っていた。年寄りの思い出話は色が濃くなるものだと、俺だって思う。思うが。


(……頼むよ。思い出補正であってくれよ)


 俺はその夕焼けを、一枚撮った。昨日の砦の夕焼けと、見比べるために。





 夜、村長の家の客間でデータを見返すつもりでいたら、戸が乱暴に叩かれた。


 羊番の男だった。青い顔で、村はずれに来てくれと言う。ガロと顔を見合わせて、駆けた。


 月明かりの下、羊の囲いから少し離れた畑のへりに、男は立っていた。足元のぬかるみを、震える指で差す。


「足跡でさ。……夕方までは、こんなもん、なかった」


 泥の上に、足跡が並んでいた。


 犬より大きい。狼とも違う。指の数が、四本のやつと五本のやつが混ざっている。歩幅はばらばらで、右と左で沈み方も違う。生き物の歩き方として、何かが根本から狂っていた。しかもその足跡は、畑の真ん中から、いきなり始まっていた。手前には何もない。空から降ってきたみたいに、途中から。


 ガロが屈んで鼻を寄せ、すぐに顔を上げた。耳が、真後ろに伏せていた。


「匂いが、ねえ」


 昼間と同じ台詞を、昼間よりずっと硬い声で言った。


「旦那がた……ありゃあ、いったい何なんです」


 羊番の男の問いに、答えられる言葉を、俺は持っていなかった。騒ぎを聞きつけた村人が松明を持って集まってきて、足跡を囲んで、誰も囲いの外へは踏み出さなかった。松明の火が、みんなの顔を下から照らしていた。


「明日、砦から応援を呼んで追います。今夜は戸締まりを固くして、犬を家の中に入れてください」


 それだけ言うのが精一杯だった。


 足跡は村にいちばん近いところで折り返して、南へ、点々と続いていた。月の位置と照らし合わせて、俺は方角を手帳に書き込んだ。南の丘陵。目撃の続く、あの丘のほうだった。


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