【第13話】青い空
界門を抜けて最初の十分間、俺は草原のど真ん中で、空を見上げたまま突っ立っていた。
青かった。
雲が二つ、三つ、高いところをゆっくり流れていく。鳥の群れが横切って、その向こうにまだ青がある。どこまで見上げても、蓋がない。アーケイルの灰銀色の空もどきの下で暮らしてきた目に、それは色というより、ほとんど衝撃だった。
風が吹くと、膝の高さの草が一斉に倒れて、波になって丘を渡っていく。草の匂いと土の匂いが、一拍遅れて鼻に届いた。地球のどこかの、名前も知らない河川敷に似た匂いだった。
足の裏に、土の弾力がある。頬に日差しの熱がある。アーケイルの石畳は硬くて、灯樹の光はどこか作り物めいてあたたかいだけだったから、忘れかけていた。本物の太陽は、ちゃんと肌を焼くのだ。
「おーい、メグル! いつまで上向いてんだ!」
先を歩き出していたガロが、振り返って怒鳴った。声のでかさは世界を渡っても健在だった。深呼吸をひとつして、うまそうに鼻を鳴らす。
「いい草の匂いだ! オレの故郷に近いな。こういう土地は飯がうまいぞ!」
「悪い。……いや、空が」
「空? 空がどうした」
「青いなと思って」
「そりゃ青いだろ! 昼だからな!」
ガロには当たり前なのだ。こいつの故郷の草原にも、きっとこういう空があった。俺は「だな」とだけ返して、それ以上は言わなかった。地球の最後の空が何色だったかなんて、初遠征の門出にする話じゃない。
代わりにスマホを出して、一枚撮った。青い空と、草原と、先を行くでかい狼の背中。新しい世界の、最初の一枚。
(カメラロールに続きができるの、いつ以来だろうな)
振り返ると、いま抜けてきた界門が丘の中腹にぽつんと立っていた。古い石の門枠に、薄く光る膜。こちら側から見れば、静かな草原に遺跡がひとつあるだけの眺めだ。あの膜一枚の向こうに、あの馬鹿騒がしい街があるとは、とても思えない。
隣で、ノアも空を見上げていた。銀色の髪が風に流れて、灰色の目が細くなっている。
「ノアも、空は久しぶりか」
「……ん。三年ぶり」
それだけ言って、ノアはまた歩き出した。言葉は短いのに、歩幅がいつもより半歩広い。三年ぶりの空の下で、あいつなりに浮かれているのだとしたら、連れてきた甲斐があるというものだった。
ちなみにフィムは、出発からずっと俺の胸ポケットの中で、羽根を畳んで丸くなっている。
「フィム、生きてるか」
「生きてるよぉ……。都市の外だと、ボクら、いるだけで消耗するんだってば……。緊急時以外は省エネ。何かあったら起こして……」
都市であれだけ騒がしかった案内係は、遠征先ではあったかいポケットカイロになるらしい。静かで助かる、とは言わないでおいた。
■
依頼主の駐屯地、辺境砦グレンヴェルまでは、街道を半日だった。
街道といっても、轍の残る土の道だ。途中で荷馬車と二度すれ違い、二度とも御者に二度見された。ガロの狼の耳を見て、俺の見慣れない服を見て、最後にノアの銀髪を見る。じろじろというより、おっかなびっくりの見方だった。
「渡り手だ」と、すれ違いざまの小声が聞こえた。「都の外の、そのまた外から来なさるんだと」
都の外の、そのまた外。雑なくくりだが、間違ってはいない。世界の外だ。
道すがら、妙なものも見た。街道の辻に、腰の高さの丸い石が据えてあって、通りがかる村人が、みんな一度その石に手を当てていくのだ。老婆は立ち止まって何かをつぶやき、急ぎ足の男も、手だけはきちんと触れて通る。
「ガロ、あれ何だと思う」
「祠だろ。旅の無事でも祈ってんじゃねえか?」
ガロの故郷にも似た習わしがあるらしい。ただ、祈るというより、あれは確かめる手つきに見えた。石がそこにあることを、手のひらで確かめて安心する。そういう触り方だった。この時はまだ、深く考えなかった。
夕方前に、砦が見えた。なだらかな丘の上に石積みの壁、見張り塔が二本。壁の上で旗が揺れて、篝火の煙が細くたなびいている。近づくほどに、俺の目は妙なところばかり拾った。見張り塔は二本あるのに、人影は片方にしかない。壁の補修跡は真新しいのに、材木は明らかに使い回しだ。厩の前を通ると、馬の数より鞍の数のほうが少なかった。
(辺境の台所事情、ってやつか)
門前で依頼状を見せると、鎧の兵士が奥へ走り、代わりに出てきたのは背筋のまっすぐな女の騎士だった。金髪を後ろで固くまとめて、腰の剣は飾りじゃない差し方をしていた。
「辺境騎士団第三隊、隊長を務めております。セシル・オードランと申します」
「ギルドから来ました。メグルです。こっちはガロと、ノア」
「遠路、感謝いたします。……失礼ながら」
セシル隊長は、俺たちを順番に見た。ガロの体格で少し安心し、俺を見て不安になり、ノアで完全に困った顔になった。
「ギルドからは九級の方々と伺っておりましたが……率直に申し上げます。当方が期待しておりましたのは、もう少し、場数を踏まれた方々でした」
「その九級です。なりたてほやほやの」
「……そうですか」
正直な人だった。嫌味の気配はない。ただ本当に困っている。人手の足りない辺境に、来た援軍が新人二人と少女一人では、そうもなるだろう。
「あの、うちの推薦人が先にこっちへ来てるはずなんですけど。ヴァン・シルワースって男、顔を出してません?」
「いえ。渡り手の方をお迎えするのは、あなたがたが最初です」
(別件どこ行った、あの人)
特級の考えることは分からない。分かったのは、当面ここで頼れるのは自分たちだけ、ということだけだった。
「期待に沿えるかは約束できませんけど、目だけはいいんです、俺」
「オレは腕だ!」
「……わたしは、いる、だけ」
ノア、それは自己紹介として正しいのか。セシル隊長は三秒ほど黙って、それから生真面目に頭を下げた。
「いずれにせよ、来てくださった方々が、いまの我々の全てです。どうか、お力添えを」
■
聞き取りは、その日のうちに始めた。
魔物の目撃は、この二月で四十件あまり。以前は年に数件だったという。出るのは決まって砦の南の丘陵側で、家畜が襲われているのに、食われた痕がひとつもない。狩りでも縄張り争いでもない襲われ方だと、年かさの兵士は首をひねった。
「討伐には出たんですか」
「五度、討伐隊を出しました。二度は空振り。三度は交戦しましたが、仕留めたかどうか、確かめられておりません」
「確かめられてない、というのは」
「夜目の利く猟師を連れて追ったのですが……奴らは追うと、途中で足取りが消えるのです」
足取りが、消える。書き留める手が一瞬止まった。逃げ切られたのではなく、消える。嫌な言い方だった。
「明日はまず、麓のルタ村に入られるとよいでしょう。目撃のもっとも多い村です」
夕食は、騎士団の食堂で一緒にとった。黒パンと、豆と干し肉のスープ。素朴で、うまい。ノアは両手で椀を持って、猫舌なのか、ゆっくりゆっくり飲んでいた。向かいの兵士たちが、銀髪の小さい客をどう扱っていいか分からず、パンだの干し果物だのを黙って積み上げていく。ノアの前だけ、飢饉に備える倉みたいになった。
ガロが三杯目をやっつけるのを横目に、俺は明日の段取りを頭でなぞって、深く考えずに言った。
「了解です。明日は絶対、何か掴んできますわ」
食堂が、しんとなった。
スプーンの音が止まり、近くの兵士が二人、ぎょっとした顔でこっちを見ていた。セシル隊長の眉が、真剣な角度になる。
「メグル殿。いまのは、誓いですか」
「……はい?」
「『絶対』と口にされました。この地でそれは、軽い言葉ではありません。誓いは口にした者を縛ります。破れば、身の内を損なう。騎士であれば、剣を置く覚悟で口にする言葉です」
周りの兵士たちが、真顔でうなずいていた。冗談の気配が、どこにもない。年かさの兵士が声を落として教えてくれた。彼の故郷の村に婚姻の誓いを破った男がいて、半年後には鍬も持てなくなり、村では誓約堕ちと呼ばれたという。子供の小指がらみの約束から騎士の剣の誓いまで、この国の暮らしは誓いの重さでできているのだ、とも。
(『絶対おごるわ』が挨拶がわりの世界から来たんですけど、俺は)
「……訂正します。明日、できる限り頑張ります」
「それがよろしいかと」
セシル隊長が、初めて表情を緩めた。笑うと年相応だった。言葉の重い世界だ。気をつけよう、と胸ポケットに向かってつぶやいたら、フィムの寝言で「それ、経費で落ちないよ……」と返された。どんな夢を見てるんだ。
食堂を出るとき、配膳係の若い兵士が、窓の外を見てふと手を止めた。ちょうど、夕焼けの時間だった。
「今日もよく焼けてるなあ。……なあ、最近さ」
連れの兵士に向けた、ただの雑談だった。
「最近、夕焼けの色が、薄い気がしませんか」
俺は、廊下で足を止めていた。
窓の外の夕焼けは、綺麗な茜色をしていた。綺麗な、ただの茜色だ。……本当に、ただの、か? 一度そう思ってしまったら、もう見え方が戻らなかった。
地球の最後の朝も、俺は空を見上げて同じことを思った。徹夜明けの目のせいにして、寝たのだ。
「メグル? 行くぞ、部屋割りだとよ」
「……ああ、今行く」
もう一度だけ、窓の外を見た。夕焼けは赤かった。たぶん、まだ。




