【第12話】特級ヴァン
ヴァン・シルワースは、翌日の昼、ギルドの酒場にいた。
受付で面会を申し込んだら、ミレーヌさんが「あちらです」と酒場の隅を指した。指す前に、ほんの一瞬、憐れむような間があった。今なら分かる。あれは「頑張ってくださいね」の間だった。
そこにいたのは、昼から果実水を飲んでいる優男だった。歳が読めない。二十代にも四十代にも見える。上等そうな外套を椅子に引っかけて、勘定書きの裏に落書きをしていた。周りの席だけ、微妙に空いている。誰も近寄らないのか、近寄れないのか。
これが、生ける伝説。
「やあ。来たね、噂の新人」
「……メグルです。こっちはガロ。あの、依頼状の推薦人の欄に」
「うん、僕。座りなよ」
軽い。声も所作も、何もかも軽い。ガロが緊張で直角に座るのが逆に浮いて見えた。尻尾が椅子の脚に巻きついている。緊張すると巻きつくのか、あれ。
「単刀直入に聞きますけど、なんで俺たちなんですか。九級になりたてですよ」
「ヴェルタ爺を唸らせた新人がいるって聞いてさ。見たら面白そうだったから」
「見たら?」
「試験、見てたよ。上の観覧席から」
(暇なのか、特級って)
思ったのが顔に出たらしい。ヴァンはにやりと笑って、果実水を揺らした。
「暇なんだよ、特級って。行ける門は増えるのに、行きたい門は減るんだ。不思議だね」
冗談とも本音ともつかない言い方だった。ヴァンは落書きした勘定書きをくるりと裏返した。裏は依頼の見取り図だった。落書きに見えたのは、アルディアの辺境の地図だ。等高線まで描き込まれた、やたら精密な地図だった。この男、掴めないくせに仕事は細かい。
「第八〇三界、通称アルディア。剣と誓いの世界。のどかな田舎だよ。そこの辺境で、魔物の異常発生が続いてる。現地の騎士団が調査依頼を出したけど、第一界圏の低額依頼なんて、ベテランは受けたがらない。だから新人に回す。ここまでは、よくある話」
「よくない部分が、あるんですね」
「うん。報告書の数字がね、ちょっと変なんだ」
ヴァンは地図の三か所を、指で順にとんとんと叩いた。
「魔物の出る場所も、数も、時期も、動物の理屈に合ってない。獣ってのは、餌と水と縄張りで動く。この出方は、そのどれでもない。……ま、行けば分かるよ。僕も別件でアルディアに行くから、現地で顔くらいは出す」
特級が「別件」で行く先に、九級の調査依頼。偶然だと思えるほど、俺はもうこの街に染まっていなかった。だが、断る理由もなかった。門の向こうに行ける。日当は倍。そして数字が理屈に合わない魔物の話は、なぜだか、放っておけない匂いがした。
「受けます」
「おう! オレも!」
「よろしい。じゃ、手続きしておくよ。……ええと、名前、なんだっけ。ガロと」
「メグルです。空木廻」
「うつぎ」
ヴァンの手が、一瞬だけ止まった。
ほんの一瞬だ。果実水の氷が半分溶けるほどの間でもない。だがその一瞬、軽薄な目の奥で、何かが真顔になった。《観察》がなくても分かった。《観察》があったから、なお分かった。あれは、聞き覚えのある単語を耳が拾ったときの目だ。
「……へえ。うつぎ、ねえ」
「何か?」
「ううん。いい姓だね」
それきり、ヴァンはいつもの軽さに戻った。戻ったからこそ、あの一瞬が引っかかった。こいつは今、名字のどこに反応した?
■
出発準備は三日で整った。もめたのは、装備でも日程でもなく、同行者だった。
「わたしも、行く」
保護院の部屋で、ノアがそう言ったのだ。
遠征の話をしたのは、しばらく会えなくなる断りを入れるためだった。行きたいと言い出すとは思っていなかった。ノアが自分から何かを望むのを、俺は初めて見た。
「危ないぞ。魔物の調査だ」
「……メグルと離れると、わたし、薄れる」
それを言われると、弱かった。事実だからだ。俺が遠征に出れば、その間、風化は再開する。数週間ならもつのか、もたないのか、院長にも分からないという。三年かけて削られてきた残りが、あとどれだけあるのか、誰にも見えないのだ。
「それに」
ノアは、窓の外の界門街を見た。
「アルディア。……行かなきゃいけない気がする。なんでかは、わかんないけど」
行かなきゃいけない気がする。理由の分からない衝動ほど、扱いに困るものはない。だが、三年間ほとんど何も望まなかった子が、初めて口にした「行く」だった。それを「危ないから」の一言で摘む資格が、俺にあるとは思えなかった。
結論から言うと、話は妙にすんなり通った。
院長は渋った。当然だ。ギルドの規定でも、部外者の随行は原則不可。詰んだかと思ったら、翌朝には「保護観察対象の特例随行」なる許可証が下りていた。発行手続きの欄には、見覚えのある特級印。
「ヴァンさん、なんでノアのこと知ってるんだ?」
「さあ……? でも助かったね?」
フィムは首を傾げていた。助かった。助かったが、借りが増えるほどに、あの優男の考えが読めなくなる。俺たちの指名も、ノアの許可も、全部あの男の掌の上で進んでいる気がしてならない。
出発前日、ガロにノアを引き合わせた。ガロは腰を屈めて、目線を合わせて、いつもの音量で言った。
「オレはガロ! メグルの相棒だ! ノアだな、覚えた!」
「……うるさい」
「よく言われる!」
ノアは俺の後ろに半歩下がって、それから、ほんの少しだけ前に戻った。半歩マイナス少し。ノアの距離感覚は、それくらいの刻みで動く。ガロは気にした様子もなく、「メシはいっぱい食えよ、細いのから死ぬからな」と屋台の親父と同じことを言った。この街の食文化、圧が強い。
■
出発の朝、界門街の第八〇三番門の前に、俺たちは立った。
メンバーは、俺、ガロ、ノア、そして俺の肩のフィム。ヴァンは「先に行ってる」と言い残して、昨日のうちに門をくぐったらしい。
ガロは大剣と革鎧。俺は革の胸当てと、腰に短剣。短剣は「ないよりマシ」とガロが選んでくれたもので、俺の戦力の全てだった。ノアは小さな背嚢を背負っていた。中身は着替えと、薬湯と、水差しの花を一輪、布に包んだもの。花なんか持ってどうする、とは聞かなかった。三年住んだ部屋から持ち出したいものが、それだったのだ。
ミレーヌさんが、見送りに来てくれた。
「初遠征ですね。九級の遠征中死亡率は、都市内業務の八倍です」
「見送りの言葉がそれですか」
「はい。ですから、九級の遠征帰還率も申し上げます。九割五分。……ちゃんと、帰ってきてください」
最後だけ、数字じゃない言葉だった。
門の光の膜が、目の前にある。理酔いの圧が、耳の奥を押してくる。実習の日、三歩手前で膝をついた圧だ。だが今日は、膝をつくわけにはいかない。くぐる者は、圧の中を通り抜ける。フィムいわく「一瞬だから大丈夫」。その一瞬が問題なんだよ。
ガロが先に、膜に手を入れた。手首から先が波紋の向こうに消える。
「おお……変な感じだな! 行くぞ!」
ノアが俺の袖をつまんだ。
「行くか」
「おう!」
「……ん」
俺は、膜に足を踏み入れた。
光が視界を白く塗り潰して、圧が全身を包んで、耳の奥で世界がまるごと入れ替わる音がして——抜けた。
最初に来たのは、匂いだった。草の匂い。土の匂い。それから、頬に風。目を開けると、足元から地平線まで、緑の草原が続いていた。
そして、頭の上に。
空があった。青い、ちゃんと青い、どこまでも高い空が。
俺は、しばらく動けなかった。




