3.精霊達はている
王都は凱旋祭の準備が進み、人々は浮き立っている。
王太子エレイン率いる討伐隊が、大規模な魔物討伐を成功させたからだ。
もっとも、その成功の裏側を知る者は少なかった。
「今回の魔獣討伐の最終決算の確認です」
エリアーヌは執務机に向かいながら書類をまとめる。
討伐隊の通った各領地への保障や備蓄。
食料や魔力回復薬の確保の為の経費。
武器の補充や整備。
怪我をした騎士や兵士への保障。
しかし、それらの書類に記される責任者の名前はすべて王太子エレインになっている。
「お嬢様……」
リリアが言葉を濁す。
「はい?」
「ご不満はありませんの?」
エリアーヌは首を傾げた。
「何がでしょう?」
「だから、その……」
リリアは思わず机を叩いた。
「全部です!」
執務室に声が響いた。
聖霊たちがびくりと震える。
リリアは慌てて頭を下げた。
「も、申し訳ございません」
「大丈夫ですよ」
エリアーヌは苦笑する。
そして窓の外を見る。
王城の庭園では噴水が穏やかな音を立てていた。
「誰かがやらなければ困るでしょう?」
「ですが!」
「私は王太子の婚約者で未来の王妃です。国のために働くのは当たり前のことですよ。出来る者がしなくてはね」
あまりにも自然な言葉だった。
リリアは思う。この方は根本的に優しすぎる。
優しすぎて、自分が損をしていることに気付いていない。
あるいは、気付いていても気にしていない。
それが余計にリリアを苛立たせる。
その時扉を叩く音がして顔色の悪い王太子の側近が入ってきた。
「エリアーヌ様」
「?」
「少し、ご相談が……」
その声音にエリアーヌは察した。
また問題が起きたのだろう。
応接席へ移動すると、側近は疲れ切った顔で頭を抱えた。
「最近の殿下は、ミリア嬢のことしか見えておりません」
「そうですか」
「そうですか、ではありません!」
珍しく声を荒げる。
「公務を欠席されるのです!」
「まあ」
「会議にも遅刻を!」
「それは困りますね」
「もともと書類仕事は貴方様に頼っていましたが、他の事も繕う事さえしなく成ったのです!」
「それはいけません」
エリアーヌは真面目に頷くが、どこか他人事のようでもあった。
側近は頭を抱えたままだ。
「どうしてそんなに落ち着いていられるのですか……」
「怒って解決するなら楽なのですけれど」
エリアーヌは柔らかく笑った。
「残念ながらそうではありませんから」
その言葉に側近は黙る。
その通りだったから。
エレインはもう誰の忠告も聞かなくなっていた。
そして、問題はそれだけではなかった。
「実は……」
側近は声を潜めた。
「夜会で、殿下が何か大きな発表をなさるそうです」
「発表?」
「婚約に関することだと」
その瞬間、部屋の温度が少しだけ下がり、怒った聖霊たちが一斉に浮かび上がる。
「みんな、落ち着いて」
エリアーヌが優しく声を掛けると聖霊たちは渋々戻った。
その一瞬の出来事で側近は青ざめる。
精霊達の怒りで空気が冷えたのが解ったからだ。
「申し訳ありません」
「いいえ」
エリアーヌは微笑む。
「教えてくださってありがとうございます」
その笑顔は穏やかだった。
穏やかすぎて逆に何を考えているのか分からない。
側近は帰り際、何度も振り返った。
彼女は本当に理解しているのだろうか。
婚約破棄されるかもしれないのだ。
だがエリアーヌはいつも通り書類へ目を落としていた。
まるで明日の天気を聞いた後程度のようだった。
◇
アルヴェール公爵邸の最上階。
王妹であるセレスティアは、報告書を読んでいた。
炎のような赤い髪を揺らしながら。
一枚。
また一枚。
読み進めるたびに笑顔が消えていく。
「……へえ」
静かな声。
部屋に控える騎士たちは内心震えていた。
王妹でもあるエリアーヌの母が怒っている。
彼女の周囲の空気が、怒りの魔力が溢れて揺れる程に。
「五年分」
ぱさり、と書類をめくる。
「我が娘の成果を五年間横取りして」
さらに別の書類。
「魔力供給、結界の維持、水源の管理」
もう一枚。
「王子の功績とされていた業績のほぼ全て」
さらに一枚。
「王子の仕事処か、本来は王の政務までさせておいて」
沈黙。
そして、笑った。
「なめているのかしら?」
周囲の騎士たちは顔面蒼白になる。
彼女の美しい面が国を滅ぼす魔女のように恐ろしい。
言葉と共に浮かんだ口許の笑みが、かえって彼女の怒りを表していた。
その時、窓辺の空間が歪む。
現れたのはこの国最強の魔術師と呼ばれる、エリアーヌの父アルベルトだった。
「調査結果か。まぁ判っていたことの確認に過ぎぬが」
「ええ。今更なのだけど。思っていた以上なのだもの」
セレスティアが書類を放る。
アルベルトは黙って目を通した。
「遊ばせ過ぎたな。ここまで愚かだとは」
細めた目と共に室温が下がる。
「エリアーヌが将来王妃になるからと、目を瞑り過ぎたわ。どうしましょうね?」
妻が尋ねるとアルベルトは即答した。
「潰す」
セレスティアは満足そうに頷く。
「うふふ、ようやくね」
柔らかく笑う声さえ裁きの鈴の音のように聞こえて騎士たちは静かに恐れを深めた。
夫婦の意見は一致している。
愛娘を傷つけた者にもう慈悲はない。
「困った甥にもお兄様にも反省して貰わなくてはね」
◇
同じ頃。
学園の温室。
ミリアは上機嫌だった。
「あと少しだわ」
彼女の前には完全に骨抜きになっているエレインがいた。
「夜会で婚約破棄を宣言する」
「ありがとうございます、エレイン様」
「当然だ。聖女の君こそ私に相応しい」
ミリアは笑う。
あまりにも順調に攻略対象は落ち、周囲も皆味方になった。
悪役令嬢は、大人しい性格らしく、何もせず、言っても来ない。
まるで勝負にならない、そう思っていた。
だからミリアは気付かなかった。
温室の外にいた小さな水の聖霊達が、怒りで震えていたことに。
◇
精霊達は今の出来事を報告するために、大好きなエリアーヌの元へ飛ぶ。
そして、王都の上空の満月の下に巨大な水の輪が静かに現れた。
そこから水の聖霊王が黄金の瞳で見下ろしていた。
「あらあら」
美しい唇が弧を描く。
だが目は笑っていなかった。
「うちの可愛い子に随分好き勝手言ってくれるじゃない」
王都中の川がざわめく。湖が揺れる。井戸の水面が震える。
誰も気付かない。だが水という水が静かに怒っていた。
凱旋の夜会まで、あとわずか。
取り返しのつかない日がゆっくりと近づいていた。




