【幕間】レゴリー家では……
レゴリー家ではその春、ようやく当主の交代が行われた。
当主となったニーナの兄家族は、それまで暮らしていた別邸から内装を新しくした本邸へ移り住む事になった。
ニーナの父親である元侯爵と歳の若い夫人は、領地に用意された小さな屋敷で隠居生活をする事になり、学院の二年生になったばかりのニーナは、学院へ通い続けるために兄家族が暮らしていた別邸に部屋を与えられていた。
「もうっ、どうしてお父様は私の婚約が決まる前に当主じゃなくなっちゃたのよ!」
ニーナに与えられた部屋は、三歳年下のライザが使っていた部屋だった。狭すぎるわけではないが、本邸にいた頃よりも部屋は狭くなってしまった。本邸に移る際にライザが使う家具は全て新調されたので、ライザが置いていったお下がりの家具をニーナは使っていた。
せめてニーナが本邸で使っていた家具を運び入れてくれればよかったのに、当主となった兄であるフィリップの「お前にあの家具はもったいない」のひと言で、それまでニーナが使っていた家具たちは物置へ仕舞われてしまった。
ニーナはかつて三歳年下の姪が使っていた机の上にマナー教本を広げていた。
これを読んで、週末に義姉であるフィリップの妻に試験をしてもらって合格をしないと、次の週におやつを出してもらえないのだ。先々週はカーテシーが出来なくて「これで侯爵令嬢だったの?」と本心から驚かれ、ライザのカーテシーを見本にするように言われたのだった。
意地になったニーナは、一週間頑張ってカーテシーを練習した。ため息をつきながらではあったが義姉は及第点をくれたので、クッキーだけだったが今週はおやつにありつける事ができた。しかし今度は週末までに貴族同士の付き合いに関係するマナーについて覚えて、聞かれた事に答えなければいけない。
カーテシーは身体に覚えさせる事だったが、マナーについての知識は頭で覚える事なので、手紙すら書いた事のないニーナにとっては知らない事ばかりだった。
生活に不便を感じる事は多かったが、食事は以前と変わらないものを出してもらっていた。しかし本館から運ぶのでニーナが食べる時には冷めているし、甘い菓子が好きなニーナにとって、おやつを抜きにされるのは辛い事だった。
だから頑張って教本を読んでいるのだが、書いてある事がなかなか頭に入ってこない。
「本を読むのって苦手なのよねっ、ああっもうっ!」
ニーナは立ち上がると、気晴らしに庭を散歩する事にしたのだった。
別邸には最低限の使用人しか置いておらず、侍女がひとりと下女がふたりほどしかいなかった。別邸の修繕が必要になった時や薪を運ぶ時は本邸から下男がやってくる。
ニーナの世話と別邸の維持のために置かれた使用人しかいないので、慢性的な人手不足だった別邸では、ニーナの動向を気にかけている者はいなかった。
これまで気晴らしをしたい時は、ヒューゴの住むマドック家へ出掛けていたのだが、代替わりをして以降、門番がニーナをマドック家の敷地の中に通さなくなったのだ。
これまでだったら、侯爵夫人だった母親に言えば侯爵夫人の威光を使って何とかしてくれたのだが、母親は侯爵夫人ではなくなってしまったし、今は領地で暮らしているので、ニーナだけの力ではどうしようも出来なくなってしまった。
学院でヒューゴを捕まえても「前からウチには勝手に来るなって言ってただろう、もう無理だから。それにお前の母親のせいで俺の母親は王都に来なくなったのだから、もう都合良くウチには来るな」とまで言われてしまい、ヒューゴにも相手にされなくなってしまった。
ニーナは知らないままだったが、ニーナとヒューゴが付き合っているという噂が立っていた。そしてヒューゴ自身の態度と、ニーナが関わった事が原因で失恋をしてしまったヒューゴは、ニーナを見ると振られた痛みを思い出してしまうので、ふたつの理由からヒューゴは徹底的にニーナを避けるようになっていた。
父親が侯爵でなくなると、こんなに色々な事が変わってしまうなんてニーナは思わなかった。
なので今のニーナに出来る気晴らしといったら、庭を散歩するくらいしかなかった。
兄一家が住んでいた時の別邸は使用人の数も多く、別邸の庭も整えられていたのだが、ニーナが移り住んでからの別邸には新たに花が植えられる事も無く、荒れない程度に時々庭師が草や木を刈り込みに来るだけとなっていた。なのでニーナは整えられた本邸の庭に忍び込んでこっそり散策するのだった。
本邸の庭の奥には季節の花に囲まれた白い東屋がある。ここは父親がニーナのために作ってくれた場所で、ニーナのお気に入りの場所だった。そして本邸で暮らしていた頃は、そこでよくお茶をしていた。いつか自分に婚約者ができたら一緒にお茶をしたいと思っていて、幼馴染のヒューゴにも教えていない、とっておきの場所だった。
「えっ、嘘……」
かつてニーナ専用の東屋として作られたその場所は、ライザによってお茶会の場所として使われているところだった。周りには給仕のために侍女が三人ほど控えていて、東屋の中に置かれた応接テーブルの上には色とりどりの菓子が並べられ、ライザと向かい合う椅子にはひとりの令息が座っていた。
今日のために化粧をしているライザのそばかすは以前ほど目立たず、瞳はそれほど大きくはないが、金髪に青い瞳をして水色のデイドレスを纏ったライザは、普段より大人びた雰囲気で、どこから見ても高位貴族令嬢だった。
そしてライザと向かい合ってお茶を飲んでいる令息は、一年生の時にニーナのクラスメイトだった令息で、入学前にニーナの父親がニーナの婚約相手にどうかと話していた裕福な伯爵家の嫡男でもあった。彼は少しふっくらとした体型でニーナの好みではなかったので、学院で彼の姿を初めて見た時に、お見合いを断って良かったと思ったのだった。
「ちょっと! あんたたち、ここは私の場所よっ!」
一瞬で頭に血が上ったニーナは気が付いたら東屋に向かって駆け出していた。この時もう少し彼女が冷静だったら、この場は見なかった事にした方がいいと彼女の勘が教えてくれたはずだったが、お気に入りの場所と自分に釣書を送ってきた令息をライザに取られたと思ったニーナは、完全に我を忘れていた。
「この場所でっ、何をしているのよ!」
東屋の前で金切声を上げるニーナに、ライザが静かに立ち上がる。
「叔母さまこそ、何をしにいらっしゃいましたの? ここは叔母さまがいらしてもいい場所ではございませんわ。今すぐ帰られるのでしたら、お父様には言わないでおいてあげますから、早く別邸へお帰りになってくださいな」
言いながらライザは冷ややかに笑う。
これまでライザが生意気な態度を見せたら父親に言い付けていたが、侯爵を引退した父は領地にいる。それを知っているからだろうが、ライザの言葉と態度には容赦がなかった。
「彼はっ、先に私の方に釣書を送ってきたのよ! それを横取りするなんてズルイわ!」
「あら、ですが当家から釣書を送った時、ダニエル様には婚約者はいらっしゃいませんでしたのよ。今は私の婚約者ですし、いつの話をしていらっしゃるのかしら?」
ニーナの〝ズルイ〟も、ライザには通じない。
ニーナを可愛がるあまり、初孫なのにライザは祖父に関心を持たれなかった。両親はライザを可愛がってくれたが、ドレスや人形といったライザの持ち物をニーナが〝ズルイ〟と言って欲しがった事で、祖父により取り上げられた事がライザには何度もあった。後で祖父から父へ詫びとして金銭を渡されたので、似たものを買い与えらえたが、ニーナに取られたものの中には、ライザにとって思い出の籠った大切なお気に入りのものもあった。
「でもっ! ダニエル様のおじい様と私のお父様はお友達ですのよ、彼だって私の方がいいと言うに決まってるわ!」
ニーナがそう叫んだところで、それまで静観していたダニエル・パークが立ち上がった。
「ニーナ・レゴリー嬢、その話は二度としないでくれないか。入学前だったからキミがどのような令嬢か分からずに、おじい様に命じられるまま釣書を送ってしまったが、学院に入学してからの僕は、キミに求婚をした男として陰で笑い者にされていたんだ。本当はレゴリー家と縁を持ちたくなかったけれど、ライザのお父上である侯爵閣下の熱意に押されてライザに会ってみたら、キミとはまったく違う令嬢だったからライザと婚約を決めたんだ。僕はキンキンと高い声をあげるキミなんかよりも静かなライザの方がいい!」
「なっ、……なっ」
はっきりとそう言われてしまったニーナは何も言えなかった。ニーナはライザの事を自分より器量が悪いと思っているが、両親が高位貴族であるライザの容姿はニーナが思うほど悪くはなく、貴族の中にあっても見劣りしないくらいには整った顔立ちをしていた。
◆◆◆
「それで、どうしてここに呼ばれたのか分かっているのか?」
椅子に腰かけたまま、ニーナの兄であるフィリップは重厚な執務机越しに、その価値を測ろうとしているかのように、歳の離れた妹をじっと見る。
〝ここ〟とはかつてニーナの父親が使っていた執務室だった。今は母親違いの兄であるフィリップが使う部屋となっている。
「……ごめんなさい」
きっと東屋での事をライザがフィリップに言い付けたのだとニーナは思った。子ども同士の喧嘩に親が出てくるなんてズルイと思いながらも、それしか出来ないニーナは頭を下げた。
ニーナは小さな頃からこの兄が苦手だった。早くこの兄と離れるには謝るのが一番早い方法だと知っているので、すぐに謝罪を口にしたのだった。
フィリップは椅子にもたれながら、大きくため息をつく。
「貴族家に嫁がせるには最低限のマナーと学院の卒業が必要だから、こちらも骨を折ってお前の教育をしているというのに、パーク家からお前の件で苦情がきた。ライザとダニエル令息がいるところに乗り込んだたそうだな」
この兄に告げ口をしたのはライザではなくダニエルの方だったのかと、ニーナは内心で舌打ちをする。
「やはり血は争えないな。お前の母親は私の二歳下の男爵令嬢だったが、一年生なのに婚約者のいる令息に言い寄る事で有名だった。父がお前の母親を当家に連れてきた時、後妻として入れる事には反対したのだが、どうやって取り入ったのか分からないが、父が話を聞いてくれなかったんだ。お前がライザの婚約者に言い寄るなんて、あの時にもっと強く反対すべきだったよ」
「わ、私は言い寄っていたわけではありませんっ!」
ふっくらとしたダニエルの容姿はニーナの好みとは外れるので、彼に言い寄ったという言葉がニーナのプライドを傷つけたのだった。
「とにかく、これ以上ダニエル令息に関わるな。次に何か問題を起こしたら学院を辞めさせて領地にいる父のところへ送る事にする。学院を卒業出来なかったら貴族へは嫁げなくなると思え、いいな?」
「ひどいですわ、お兄さまっ」
父を前にした時のようにニーナは泣きそうな顔をするが、フィリップの表情は変わらない。不出来な妹に対する優しさを彼は持ちあわせていなかった。
そしてフィリップがニーナを嫁がせようとしている相手は、後妻を探しているフィリップと同世代の貴族ばかりで、ニーナとの歳の差は二十歳以上もあったが、それをフィリップは敢えてニーナには言わなかった。
相手が決まったら、婚約期間は置かずにすぐに嫁がせるつもりなので、直前で嫌がって暴れられても面倒だし、相手の事を言う必要はないとフィリップは考えている。
ここまで育てたのだから少しでもレゴリー家のためになるようにと、ニーナの価値を少しでも上げようと再教育を始めたところだったが、フィリップの妻からはニーナが思っていた以上に出来が悪いらしいと聞いており、政略の駒として使えそうにないので、捨てようか迷っているところだった。
その後、学院で移動教室の時にダニエルとばったり行き会ってしまったニーナが、兄からの最終通告を忘れて「あんたなんて好みじゃないんだから!」と金切り声で叫んだ事が原因で、両親が暮らす領地へ送られる事が決まるのは、数日後の話だった。
しかし領地にある屋敷に住めるのは老いたニーナの父親がいる間だけなので、生活の面倒を見てもらえている今のうちに、これから先の事を考えなければいけなかった。だが、過去を反省する事もなく、目の前の事しか考えないニーナとニーナの母親はまだその事に気付いていなかった。




