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5話 ハンカチのお礼と満たされないお詫び

 翌日、週明けの学院に登校したセレスは、教室の窓際の席に座って読書をしていたアルウィンの元へ向かい、昨日のお礼を改めて伝えるために帝国語で声を掛けた。


「フォレット様、昨日はありがとうございました」


 本を読む事を止めて顔を上げたアルウィンは、転校初日に見せた貴族特有の笑みを見せる。窓からは朝の光が差していたので、アルウィンのダークブロンドの髪色は金色が強く見える。


 彼はどこから見ても完璧な帝国の高位貴族で、隙を感じさせない彼にセレスは気遅れしてしまいそうになるのだが、もしあの場で彼に行き会わなかったら無事に子爵家に帰れたのかもわからない状況だった。そして彼の顔を見た時に、強い安心感を覚えたのも事実だった。


「昨日も言いましたが、俺がやりたくてした事なのでお気になさらないで下さい」


「あのっ、お借りしたハンカチをお返ししたくて……。洗っただけなので申し訳ないのですが、新しく買ったものを別にお返しいたしますから」


 セレスは昨日泣いてしまった時に、アルウィンから手渡された、まっさらな白いハンカチを差し出す。


「……ああ、でしたら新しいものはいりませんので、そのハンカチに何か刺繍をしていただけませんか? 簡単な柄で構いませんから。一度そういうものをもらってみたかったのです」


 少し考えるような仕草をしてから、アルウィンは早口の帝国語でそう答える。帝国出身のセレスなら問題無く聞き取れるが、他の生徒たちにはおそらく全ては聞き取れないだろう。上手いお願いのやり方だった。


「あまり刺繍は得意ではないのですが、それでもよろしいのでしたら……」


「ミュラー嬢の手によるものでしたら、どのようなものでも構いませんよ。急いでいませんので、いつまでも待ちます」


 表面的な微笑みを向けるアルウィンの様子から、さほど期待しているようには見えず、社交辞令のように思えなくもないが、助けてもらったお礼はしなければいけない。


(刺繍なんて数えるくらいの柄しか刺した事がないわ……)


 これまで練習をしてこなかったので、人に贈れるほどの刺繍の腕がセレスには無い。しかも贈る相手は、綺麗なものなど嫌というほど見てきているような相手なのだ。子爵家の侍女に刺してもらったらすぐにバレてしまうだろうし、失礼に当たる。困ったと思いながら取り出したハンカチを再びポケットへ仕舞った時、教室の出入口の方からセレスの名を呼ぶ声がした。


「おーい、セレス! ちょっといいか?」


 教室中に聞こえるような大きな声でセレスの名を呼んだのは、騎士科の制服を着たヒューゴだった。


 ヒューゴの声はよく通り、教室にいた生徒たちは彼を見た後に名前を呼ばれたセレスを見る。ヒューゴが貴族科にいるセレスの元まで来てくれたのは初めての事だった。自分のためにわざわざ貴族科の教室まで足を運んでくれた事を喜ぶべきなのに、チケットの事があったので、セレスの気持ちは少しも晴れなかった。


 昨日はチケットを取られた上に帰る馬車が無かったというのに、彼はセレスの事を心配してくれなかった。今日も呑気そうな彼からは反省や謝罪の様子は見られない。


 ヒューゴはセレスよりも幼馴染のニーナを優先する。以前から優しくされる事は少なかったが、ニーナが入学してからは特にそれが酷くなったような気がする。セレスはヒューゴがニーナに甘い顔をするたびに、自分とは違うのだと言われているような気持ちになってしまう。


 それに貴族科の生徒は、低位貴族の令息でも室内ではあんなに声を張り上げない。騎士科は屋外での活動が多く、鍛錬中に声を掛け合う事も多いので、大きな声を出す事が癖になっているのかもしれないが、ヒューゴは辺境伯家の令息なのだ。教室にいる男爵や子爵家令息の方がよほど貴族令息らしい振る舞いをしている。そしてそんなヒューゴの行動を少しだけ不快に感じてしまった事に、セレスは自己嫌悪に陥りそうになった。


 高位貴族令息らしくない、まっすぐで飾らない彼の事を好きになったはずのに、どうしてこんな気持ちになるのかが自分でも理解できなかった。


 ヒューゴが現れる直前までアルウィンと話していたからだろうか? アルウィンは高位貴族のお手本のような令息だ。ヒューゴとは違う存在だと理解はしている。しかし学院内とはいっても、ここは一応貴族科の校舎内なのだ。最低限のマナーというものは存在している。セレスにはヒューゴのしている事が、この場に対しての配慮が欠けていると思えてしまう。


「おはようございますヒューゴ様、本日はどうされましたか?」


 ヒューゴの前まで来たセレスは、自分の気持ちを取り繕うように微笑みを浮かべる。


「ああ、昨日は悪かったかなって思ってさ。お詫びに今日の昼は学食で飯でも食べないかなって思って」


 昨日のセレスに起きた事を「悪かった」のひと言で終わらせてヒューゴは本題を話し始める。ヒューゴの声は大きいので、窓際に座るアルウィンにも聞こえているかもしれない。散々な姿をした昨日のセレスを見ているアルウィンには、詳しい経緯をあまり知られたくはなかった。


「昼食……、ですか」


「えっ、嫌なの?」


 躊躇いがちな様子のセレスを見て、ヒューゴの口調に不機嫌な色が混じる。


「いえ、急なお話でしたので、驚いてしまって」


 これまでヒューゴとはお茶を一緒にしても、食事を一緒にした事がなかった。入学したばかりの頃にセレスから昼食に誘った事はあったが、ヒューゴには昼休みも騎士科の仲間たちと過ごしたいと言われてしまったので、セレスはヒューゴと昼食を食べる事を諦めたのだ。


 もし彼が純粋にセレスと食事をしたいという気持ちだけで誘ってくれたのなら嬉しくも思えただろう。しかしあの貴重なチケットの代わりが、手軽に食べられる食堂の昼食だと思うと、セレスの中には喜びよりも落胆の方が大きくなる。


 もう手に入れられない歌劇のチケットと、大した手間もかけずに食べられる学院での昼食では対価としては合わない。金額が問題ではないのだが、自分が粗雑に扱われたと思えてしまったのだ。


(ニーナさんは歌劇のチケットで、私には学院での昼食の価値しかないという事なのね)


 彼には伝えそびれてしまったが、あのチケットは帝国で暮らしているセレスの両親がヒューゴと一緒に見に行けばいいと送ってくれたものだった。


「わかりました、では昼休みに食堂へ行けばいいですか?」


 交流会の時も、鍛錬する時間が惜しいと言うヒューゴに合わせて、ヒューゴと会う時はいつもカフェで待ち合わせるか、辺境伯家のタウンハウスへセレスが行くかのどちらかだったので、セレスの頭の中ではヒューゴが迎えに来てくれるという発想が無かった。


「せっかくだから迎えに行くよ。……そういえばさ、さっきまでセレスが話していたアイツって誰?」


 ヒューゴは声を潜めながら窓辺の席に座るアルウィンの方を見る。彼は先ほどまで読んでいた本を再び読み始めていた。


「あの方は留学生ですわ。先日学院長直々にお世話をするように言われましたの」

「ふーん、お前は一応俺の婚約者候補なんだから、あんまり他の男とは話すなよ」

「えっ、でもヒューゴ様もよくニーナ様とお話をされますよね」

「あいつはまだ婚約者がいないし、幼馴染みだからいいんだよ」

「……幼馴染み、ですか」


 ヒューゴとは正式に婚約を結んでいないので、自分もニーナと同じで婚約者がいないと言い掛けたが、セレスの言葉は続かなかった。それを口にすれば、ニーナとセレスは違うと彼から言われそうな気がして、その言葉を聞きたくないと思ったからだった。


 ――幼馴染よりも大切にされない存在。


 ヒューゴと婚約をして結婚まですれば、少しでも自分の事も考えてくれるようになるのだろうか?


 去っていくヒューゴの背中を見送りながら、ヒューゴと一緒にいても自分が大切にされる未来なんて存在しないように思えてしまう。ヒューゴはセレスとの未来をどんな風に考えているのだろうか?




 ◆◆◆




 昼休みになると、朝の言葉通りにヒューゴはセレスの教室まで迎えに来てくれた。しかし彼の後ろに薄ら笑いを浮かべるニーナの姿を見てセレスはうんざりするのだった。


「ついそこでニーナに見つかっちゃってさ、セレスと昼飯を食うって言ったら一緒に食べたいって聞かないんだ」


 言い訳をしながらヒューゴは苦笑いを浮かべる。一応申し訳なさそうな顔をしているが、悪いと思っているようには見えなかった。


「セレスさんだけヒューゴとランチをするなんてずるいじゃないじゃない。私だって学生らしい思い出が欲しいのに、婚約者がいないから全然楽しくないのよ。私を仲間外れにして、セレスさんだけヒューゴと楽しく学院で過ごしているなんてひどいわ」


「っ……」


 セレスは絶句してしまった。確かにニーナには婚約者がいない。しかしそれは彼女が高望みをしているからだとヒューゴから聞いている。それに今回のランチは観劇のチケットを譲らされた詫びなのだ。それなのに今日も付いて来ようとするニーナの神経も、簡単に受け入れてしまうヒューゴの頭の中も、セレスには理解ができなかった。


「飯もさ、人数が多い方が楽しいじゃん、とにかく食堂へ行こうぜ。貴族科の食堂って初めてなんだ。美味いものはあるかな?」


「じゃあ私が案内してあげるっ! ヒューゴが好きそうなメニューもあるから一緒に選びましょう!」


 ニーナはヒューゴの腕を引き、セレスを置いてさっさと歩き出した。

 教室の中を振り返ると、こちらを見ている生徒は一様に微妙な表情を浮かべている。ヒューゴとニーナの声は大きいのでこのやり取りは教室中に聞こえていただろう。こんな場所で揉めたくないと思ったセレスは、二人の後を追って食堂へ行くしかなかった。


「そういえばセレスさん、昨日の歌劇なんだけどすっごく良かったの! あれは絶対に見るべきよね! それでね、その話をしたらお母さまも観たいって言うのよ。チケットってまだ余っていないの?」


「……もうありませんわ」


「本当にそうなのぉ? つまんなぁい。もう一回くらい見てもいいと思ったのになあ。あの劇団って帝国でも有名なのね。近くに座っていた人たちが話していたのだけれど、帝国のクロイツ侯爵家が支援して有名になった劇団らしいの。帝国人なら平民でもクロイツ家の名前くらいは知っているでしょう? あの歌劇は侯爵夫人が、領地で暮らしている侯爵令嬢のために作った歌劇なんですって! でもその歌劇に登場する主人公とヒロインがね、まるで私とヒューゴの関係みたいな幼馴染同士なのっ。本当に昨日はヒューゴにくっついて出掛けてよかったわあ! ありがとうヒューゴ!」


「礼なら俺じゃなくてセレスに言えよ」

「それもそうね、ふふふ。ありがとう、セレスさん」


 ニーナは笑いながらゆっくりと礼を言う。ニーナの態度には明らかにセレスを嘲る様子が感じられる。セレスは無意識に自分の手を強く握っていた。


 前を歩くヒューゴとニーナが食堂へ入ろうとしているところだったが、セレスは足を止めた。


「……そういえば、昼休み前の授業が終わる時に、先生から教員室へ来るように言われていたのを思い出しましたわ。申し訳ございませんが、今日の昼食はお二人で召しあがって下さい」


 食堂に入るドアの前で立ち止まったセレスは低い声でそれだけ言うと、ヒューゴが言葉を返す前に頭を下げて二人に背を向けた。背後から小さく「無理しちゃってぇ、ふふふ」というニーナの声が耳に入ってきたが、聞かなかったフリをするしかなかった。


 淑女としてはあるまじき行為だと分かっていたが、居た堪れない心境に陥っていたセレスは小走りで校舎から外へ出て行く。そして誰もいない裏庭まで来ると、冷たい石のベンチに座る。瞳からは涙があふれて止まらなかった。


「……私がっ、何をしたって言うのよっ」


 ヒューゴに好きな令嬢がいるのなら、レーデン王国へ来る前に身を引くつもりでいた。でも調べてもそのような令嬢はいなかった。それにヒューゴの実家であるマドック辺境伯家へ婚約の話を持っていった時だって、彼の両親に確認をしたのだ。好きな令嬢も婚約を考えている令嬢もヒューゴにはいないと聞いたからセレスとの話を進めてもらったのだ。


 ニーナだって学院に入学するまではここまでひどくはなかった。多少ヒューゴにじゃれつくようなところはあったが、それだけだった。理由は分からないが、今のニーナはあからさらまにセレスに対して敵対心を持っているのだと分かる行動ばかり取っている。


 一年かけてセレスが築いた、ヒューゴとの素朴で穏やかだと思っていた関係が、こんなにもろく崩れてしまうとは思わなかった。それはセレスにとって衝撃的な事で、セレスが頑張って作ってきたはずのヒューゴとの絆なんてどこにもなかったと突き付けられているような気持ちになってしまう。


 セレスは教室へは戻らずに医務室に行くと、養護担当の教師に気分が悪いと伝えてからそのまま早退した。




 ◆◆◆




 夕方の時間、部屋で過ごしていたセレス宛に、紫色をしたライラックの花束が届けられた。まさかヒューゴがそんな事をと心のどこかで期待をしてしまい、逸る気持ちで誰が贈ってくれたのかを確認したら、送り主の名前にはセレスが兄と呼んでいる幼馴染の名前が書かれてあった。


 セレスの幼馴染である彼は二歳年上で、家同士の家格も近くセレスが物心をつく前から家族ぐるみで定期的に会う関係だった。


 幼い頃はセレスも彼によく懐き、一緒に遊ぶことも多かった。しかしセレスがヒューゴを好きになってしまった事で、セレスの方から距離を取るようになった幼馴染だった。


 セレス個人とは付き合いが薄くなってしまった彼だが、セレスの家と彼との関係はずっと続いていて、彼からは時々気まぐれのようにこうして花やお菓子を贈られるのだが、この一年は何も贈られていなかったので、その事をすっかり忘れていた。


 メッセージカードは毎回付いていないし、不定期に送られてくるものなので、彼がどのような理由で送っているのかがわからない。彼からは大した物でもないし、気が向いた時に送っているだけだから、お礼の返事はいらないと言われているので、これまでセレスからはお礼の手紙すら返していなかった。いつも受け取るばかりで、たまに顔を合わせた時にお礼を言うだけなのに、どうしてなのか彼はセレスへのささやかな贈り物をやめる事はなかった。


 セレスは早速侍女に水の入った花瓶を持ってきてもらうと、ライラックを自分の部屋に飾る。アメジストのような薄紫色の可愛らしい花を見ていると、昼間にあった刺々しい記憶も少しだけ薄まっていくような気がした。


「ありがとう、お兄さま……」


 幼い頃に柔らかく笑いかけてくれた彼の顔を思い出しながら、セレスはそう呟いた。

 帝国にいた頃は恵まれ過ぎていたから、何も考えずに彼から贈られるまま受け取っていたが、レーデンで孤独を味わっている今だからこそ、ささやかな気遣いから贈り主の人柄を感じるのだった。

 彼の優しさに甘えるわけにはいかないと思いつつも、今はその優しさが嬉しかった。


 花を飾った事で、気持ちが落ち着いたセレスは、刺繍糸と針を取り出すと、アルウィンとの約束を守る為に、黙々と刺繍の練習を始めるのだった。


 ライラックの花言葉には「友情」「思い出」とあるが、セレスに贈られた紫色のライラックの花言葉には「初恋」という意味があった。

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