4話 留学生からの助け
その場の勢いでカフェを出たセレスは、たったひとりで表通りを歩いていた。
店を出て数歩ほど歩いたセレスは、一度だけ立ち止まって店のドアを振り返ってみる。しかし、ヒューゴが追い掛けてくれるような気配はなかった。そんな事をまだ期待してしまう自分に、セレスは自分が馬鹿だと自嘲気味に笑ってしまった。
ヒューゴにとってはセレスよりもニーナの方が大切なのだ。この一年、彼がセレスの為に何かをしてくれるなんて事はなかった。今日だってニーナの機嫌を取るばかりで、セレスを気に掛けるような事はなかったし、お願いするという形ではあったが、ヒューゴはニーナの為にセレスからチケットを取り上げたのだ。
帰りはヒューゴに送ってもらうつもりだったので、子爵家の馬車は帰してしまった。なのでセレスは自分で帰るしかなかった。
ふらふらと歩くセレスの目の前を辻馬車が通り過ぎて行く。辻馬車の存在を知っていても、使った事がないのでセレスには乗り方が分からない。もしも乗り方を間違えてしまったら全く違うところに連れて行かれてしまうかもしれないと思うと怖くて使えなかった。
セレスはあまり外へ出ない方なので貴族街の土地勘はあまりなかった。子爵家の方角だけは分かるので、記憶を頼りに自分の足で歩いて帰るしかなかった。カフェから劇場まで少し歩くかもしれないと、今日はヒールの低い靴を選んだのがせめてもの救いだった。
しばらく貴族街を歩いてみたが、見覚えのある道を見つける事は難しく、いくつも角を曲がってしまったせいで、先ほどのカフェに戻る道すら分からなくなっていた。
誰かに道を聞きたかったが、誰に聞いたらいいのかもセレスには分からない。
勢いで店を出てきてしまったが、チケットを譲らなかったとしても、あの状況では結局セレスはひとりきりで帰る事になっていただろう。あの時もう少し冷静だったら、店を出る前に店員に帰る方法を聞いたかもしれないが今さらだった。
そもそも、ヒューゴと一緒に出掛けようと思った事が間違いだったのかもしれない。チケットを一枚無駄にしてしまっても、観劇へはひとりで行くべきだった。
歩きながらセレスは周りを見渡した。
向こう側から歩いてくるドレスを着た貴族夫人のような女性は侍女を連れているから身分は確かだろうが、高位貴族の可能性もあるから気軽になんて話し掛けられない。果物店で働く中年女性は人の良さそうな感じだが、他の客と熱心に話し込んでいる。向こうから歩いて来る買い物籠を腕に下げた女性は忙しそうにしているし、少し厳しそうな表情をしているから、話し掛けられたら怒られてしまうかもしれない。
それに、もしも道を聞いた相手が悪い人間だったら、嘘を教えられるかもしれない。こうなるのなら、行きの時に窓のカーテンは閉めずに、馬車からの景色をよく見ておくべきだったと後悔したが、それももう遅かった。
◆◆◆
ヒューゴとカフェで待ち合わせたのは午後の早い時間だったが、既に太陽はかなり低い位置にあり、あと半刻ほどすれば完全に夜になってしまう。観るはずだった歌劇はとっくに終わっている頃だというのに、セレスは街の中ですっかり迷子になっていた。
街の景色も昼間の明るい雰囲気から、セレスの知らない夜の街へと様相が変わっていく。空が茜色に染まるのを視界に入れながら、セレスの不安はどんどん大きくなっていった。
足も重く、疲れ果ててしまったセレスは、遠くに見える王宮まで何とか歩いて行き、そこで助けを求めようと考えていたところで、背後から懐かしい帝国語で話しかけられたのだった。
「もしかしてミュラー嬢ですか? どうしてひとりでこんな所に?」
憔悴したセレスが振り返った先には、留学生のアルウィン・フォレットがいた。まさかこんな場所で顔見知りに会えるなんて思わなかったセレスは、安心して力が抜けたように地面に膝をついてしまう。一度腰を下ろしてしまうと、もうこれ以上は歩けそうになかった。アルウィンの背後には彼の従者と思われる者もいて、従者はセレスに向かって頭を下げる。
「……フォレット様」
「夕暮れ時だというのに、こんな時間に令嬢ひとりで出歩くなんて危険な事を……」
アルウィンの口調には咎める色が感じられたが、今のセレスにとってアルウィンと会えた事は幸運だった。
「どうして、ここに……?」
セレスはやっとの思いでそれだけ言う。
「俺の借りている家がここから近いのです。今日は食事が作れる通いの者を帰してしまったので、従者のトマスと二人で飯を食いに行こうと歩いていたところだったんです」
そう話すとアルウィンは口を閉じて、最初に自分が尋ねた、どうしてここにいるのかという言葉の返事を待つように、セレスの様子を見るのだった。
「……実は色々な事がありまして、家に帰れなくなってしまいましたの」
アルウィンの瞳が細められて眉間にシワが寄る。
「ミュラー家で何かあったのですか?」
「いえ、そちらではなくて……」
言いにくそうにしている事情をそれとなく察したのか、アルウィンからはそれ以上深く追求はされなかった。
「辻馬車の拾い方は知っていますか? お金は持っています?」
セレスは力なく首を横に振る事しかできなかった。
小さくため息を吐いたアルウィンは、座り込んでいるセレスの顔色を見るために自身も片方の膝を地面につく。彼が着ている私服はひと目で高価だと分かる生地が使われていて、そんな彼に片方だけでも地面に膝をつかせてしまった事を謝る余裕が、今のセレスにはなかった。
「俺が背負ってもいいですけれど、どうします? もう少しだけ歩けますか? ミュラー子爵家の場所は俺も分からないので、近くにある騎士団の詰め所にトマスを行かせて場所を聞いてきますから、その間はあちらの店で少し休みましょう。大衆食堂ですけれどいいですよね?」
そう言ってアルウィンは少し先にある食堂を指で差した。
「ありがとうございます。あの場所まででしたら、自分で、歩けます」
先に立ち上がったアルアウィンから差し出された手に助けてもらいながら、セレスは何とか立ち上がると、ゆっくりだが少しずつ歩き始めた。
◆◆◆
夕食の時間としては少し早かったので、食堂に来ている客は少なかったが、アルウィンは慣れた様子で一番隅のテーブルを指定して座ると、セレスにはシンプルなオニオンスープを注文して自分には軽食を注文する。
スープが運ばれてくるとセレスはひと匙掬い、ゆっくりと口の中へ入れる。あたたかい食事が労わってくれるように、疲れた体の中で広がっていく。そこでセレスの緊張はぷつりと切れてしまい、瞳からはそれまで我慢していた涙がぽろぽろと溢れ始めてしまった。
(どうしましょう、涙が止まらない……)
予想外の事に慌ててポケットからハンカチを取り出そうとしたのだが、セレスの動きよりも早くアルウィンが自分のハンカチをスッと出してくれたので、セレスは素直にそれを受け取って涙を拭った。
「ありがとう、ございます。……少しだけ昔を思い出してしまって」
「昔?」
「ええ、もうお父さまとお母さまと会えないと思ってずっと不安で……、あの時は水と固いパン以外は何も食べさせてもらえなくて、でも助けられた後に口にしたのが、こんな感じの温かいスープで……。あの時にホッとしたのを思い出してしまって」
涙ながらに話すセレスの言葉は、前後の説明がなくて要領も得ていなかったが、アルウィンは口を挟まずに黙ってセレスの話を聞いてくれていた。
ミュラー子爵家の場所を聞いたトマスが辻馬車を拾って食堂へやって来た時にはセレスの気持ちは大分落ち着いた頃で、涙も止まっていた。
スープを飲み終え、ひと休みしてからアルウィンにも辻馬車に同乗してもらい、ようやくセレスは子爵家まで帰って来ることができた。
子爵家の前で辻馬車から降りるのを手伝ってもらったセレスは、アルウィンに頭を下げる。
「今日は本当にありがとうございました。よろしかったら何かお礼をさせていただきたいので、夕食を召し上がっていきませんか?」
「お礼なんて気になさらないで下さい、俺が勝手にした事ですから。急な来客はミュラー家の方々の迷惑になるでしょうし、トマスを置いてきてしまいましたから俺はここで帰ります」
礼儀正しくそう告げて、アルウィンは今回もセレスの返事を聞く前に馬車の中へ入り、すぐにドアを閉めてそのまま去ってしまう。
親切にはしてもらったが、彼の行動にはセレスを避けているようなところがあり、拒絶されてしまったような気がして、それが今は少しだけ寂しく感じられた。
セレスはアルウィンの乗る辻馬車をしばらくの間見送っていた。




