3話 せがまれたチケット
学院が休みの週末、セレスはヒューゴと王都のカフェで待ち合わせをしていた。
ヒューゴは学院を卒業した後は実家のある辺境伯領へ帰り、当主となる兄を支える立場となる。彼は辺境で暮らしている兄や父への尊敬する気持ちが強く、自分が生まれ育った辺境という土地を愛していた。
しかし、国境付近は隣国から逃げてくる賊や不法に国境を越えようとする者が多く、治安があまり良くないので、他の土地から嫁ごうとする女性は少ない。
そういった事情もあり、辺境の地では辺境伯領やその近くの村や町で生まれた者同士で結婚をするケースが多く、セレスのように外から嫁ぐためにやってくる女性は少なかった。
なのでセレスにはヒューゴと婚約を結ぶまでに猶予期間が与えられており、セレスの両親の希望で、学院の卒業までにヒューゴと結婚するかどうかを決める事になっている。
今はお試し期間という事もあり、まだ婚約を結んでいないセレスとヒューゴは書類の上でも他人なのだが、一応は婚約者候補として月に一度だけお茶をする程度の交流を持つ約束をしていた。
これらの事はすべて、セレスとヒューゴの両親が手紙でやり取りをして決めた事だった。
交流会のお陰でセレスはヒューゴから辺境の話を聞く事が出来たし、ヒューゴがどんな事を考えているのかも知ることができた。
彼の頭の中は辺境と鍛錬に関係する事ばかりで、セレスにはよく分からない話題もあった。しかし時間は短くても一年も交流を続けたお陰で、ヒューゴがまっすぐに前を向いて進んでいく人だと知る事が出来た。それに彼は強くなりたいという気持ちが強かった。そういう彼の気質がセレスは好きだった。それが自分に向けられた感情ではなくても。
ヒューゴは本当に鍛錬ばかりしていて、熱心に取り組んでいる。休日も屋敷の庭でずっと鍛錬をするのは当たり前だし、雨が降った日は外で剣を振る事が出来ないので、雨が嫌いだと話していた。
本当はヒューゴと過ごす時間がもっと欲しいとセレスは思っていた。ヒューゴの方から会いたいと言ってくれたのなら、セレスは喜んで時間を作っていただろう。しかし最初に彼から今は自分を鍛える事を大切にしたいと言われてしまったので、お茶会の日が増える事はなかった。早く家に帰って剣を振りたい彼は、セレスとの時間をすぐに切り上げようとするので、ヒューゴとの時間はすぐに終わってしまう。
だからセレスは、知り合いがいない中で寂しいと思っていても、彼らしい生き方を曲げさせてまで、自分のためにもう少し長く居て欲しいとは言えなかった。
◆◆◆
ヒューゴとの待ち合わせのカフェに先に来ていたセレスは、いつものように本を読みながらヒューゴを待っていた。まさか個室のドアが開くと同時に、ニーナの甲高い声を聞く事になるとは思わなかった。
「このお店で待ち合わせをしているなんて意外ねぇ。ヒューゴがこんな流行りの店を知ってるなんて思わなかったわぁ」
「いや、この店はセレスが教えてくれたんだ」
「ええっ、セレスさんって真面目そうだからもっと違うお店に行きたがると思ったのに、こっちも意外だわ!」
どういうわけなのか、今日の交流会はニーナも一緒だった。あっけに取られて何も話せないでいるセレスに、ヒューゴがニーナを連れて来た理由を話し始める。
「ニーナがさ、どうしても来たいって聞かないんだよ。俺が乗ろうとした馬車に無理矢理乗ってくるんだぜ。学院に入学したばかりでまだ友人が出来ていないから、セレスに会いたいって聞かないんだ」
辺境伯家と侯爵家のタウンハウスは隣同士ではないが、同じブロックにあると聞いていた。一緒に住んでいるわけでもないのに、ヒューゴが馬車に乗ろうとした時にその場にいるなんてどのような状況なのか、セレスにはまったく想像ができなかった。
交流会の日はセレスにとって誰にも邪魔されずにヒューゴと向かい合って会話が出来る大切な日のはずだった。セレスがヒューゴと交流が出来る僅かな時間までニーナは取り上げようというのだろうか。
ヒューゴがセレスの正面の席に座ると、ニーナは当たり前のようにヒューゴの隣へ座ってメニューを広げ始める。
交流会の場として選んだこの店は、セレスにとって数少ないこの国での思い入れのある場所だった。人気のある店なので客は多いが、ヒューゴと外で会う時は必ずこの店だったので、たった一年だったが思い出深い場所になっていた。どうしてヒューゴがこの店にニーナを連れてきたのかが理解できなかった。
「だってセレスさんだけカフェに行くってずるいじゃない。それにこのお店って予約しないと入れないし、家格が低すぎると断る事もあるって聞いてるわ。セレスさんは子爵家だからギリギリだったのでしょうけど、私が一緒だとうるさいからってお母さまはこのお店に連れて行ってくれないし、私だってこのお店には行ってみたかったのよ!」
セレスは先に紅茶をオーダーして本を読んでいたのだが、もうお茶を飲むような気分ではなくなっていた。
「だから侯爵夫人がこの間ウチに来た時に、ニーナをよろしくねって言ってたのかよ。くそっ、俺はお前のお守りじゃないんだぞっ」
「ふふふ、ヒューゴはこ~んなに小さな頃から私のお守り役だものね」
ニーナは手の平を床と平行に広げると、テーブルよりも低いくらいの高さで手を横に振って幼い子供の背丈くらいの高さを伝えてくる。
「まったく、お前がうるさいからセレスがずっと黙ってるじゃないか、ごめんなセレス」
「いいえ、気になさらないでください」
今日はカフェでお茶をした後は、ヒューゴを誘って観劇へ行く予定だった。
セレスの持っているチケットは二枚で、ボックス席ではないのでチケット分の人数しか観劇はできない。
ヒューゴにも今日の予定を伝えていたはずだから、どこかでニーナが離れてくれるように彼から話をしてくれないかとセレスは心の中で願っていた。
「ねえねえ、今日はどこに行くの? まさかカフェだけって事はないでしょう? ドレスショップや宝石店にでも行くの?」
ニーナは強請るような視線をヒューゴへ向ける。
「ああ、今日は……」
「お天気もいいですし、公園を散策しませんかっ?」
嫌な予感がしたセレスは、咄嗟にヒューゴの言葉を遮った。これ以上面白い事はないのだと思ったニーナが興味を失くしてくれればと思って吐いた嘘だった。
「あれっ、今日は観劇に行くんだろう? もしかして日にちが違ってたか?」
(ヒューゴ様の馬鹿っ!)
セレスは内心で舌打ちをするが、ニーナは獲物を見つけた猫のように瞳を輝かせながら、セレスを見てニヤリと笑った。
「まあ! 観劇だなんていいなあ。ねえ演目は何かしら? 私も行きたいなぁ」
「ダメだよ、チケットは二枚しかないし、今日のためにセレスが用意してくれたんだ。お前はここで帰れよ」
「ねえねえ、セレスさんって確か帝国出身よね? 今ちょうど帝国から劇団が来ているのだけれど、まさかその劇団の歌劇じゃないわよねぇ?」
ニーナの勘は鋭く、セレスが行こうとしていたのは、まさにその劇団が公演している歌劇だった。
「えっ……」
セレスは言葉に詰まってしまった。
「ねえ、セレスさん一緒に連れて行ってなんて言わないから、どうやってチケットを手に入れたのかを教えてっ! 私が帝国に憧れているのは知っているでしょう? 帝国の事を少しでも学びたいのよっ、お願いっ!」
ニーナはセレスに頭を下げる。侯爵令嬢に頭を下げられてまで黙っているわけにはいかなかった。
「……帝国にいる知り合いから送られてきたのです」
「何それ、ずるいわ! それじゃあレゴリー家の力を使ってもだめじゃないのっ。あの歌劇のチケットってもう完売しちゃったのでしょう? セレスさんだけ見れるなんてひどいわっ、ねえヒューゴ、何とかしてよっ」
顔色を変えたニーナは、隣に座るヒューゴの腕を掴むとぶんぶんと振り回し始める。
「そんな事を言われても無理なものは無理だろう? 俺だってそんなにすごい劇団の歌劇だったなんて知らなかったんだから。でも歌劇だったら帝国語が分からなくても楽しめそうだな。なあセレス、ニーナはお前とは違ってまだ帝国語が話せないんだ。前に帝国で見た事がある劇団だって言ってただろう? 今日はニーナに譲ってくれないか?」
セレスの様子を伺いながら眉を下げるヒューゴの顔を見たセレスは、足元ががらがらと崩れていくような感覚を覚えた。
「私に……、譲れとおっしゃるの? ……同じ劇団でも、あの歌劇は私もまだ観ていませんのよ」
セレスは信じられない物を見るように並んで座る二人を見つめる。
「そういう言い方はないだろうっ」
これまでいつも自分に従ってきたはずのセレスに言い返されたヒューゴは、表情を曇らせて不機嫌さを顔に出す。
「でも、このチケットは……」
「もういいわっ、ごめんなさいセレスさん。私がわがままを言ってしまって。ヒューゴ、私はここで帰るわね。なんか私ってお邪魔虫みたいだわ」
そう話すニーナの瞳にはうっすら涙が浮かんでいる。しかし言葉とは裏腹にニーナが席を立とうとする気配はなかった。
「俺が悪かったよセレス。お願いだから俺の分のチケットをニーナに譲ってくれないか? ニーナは学院になかなか馴染めなくて、休みの日は家に引きこもり気味だってこの間侯爵夫人が話していたんだ。それで気晴らしになればいいって今日はここに来たんだよ。この埋め合わせは後でするからさっ」
そしてヒューゴまでセレスに向かって深く頭を下げるのだった。
(ニーナさんのためなら私に頭を下げてしまうの?)
セレスからはもう何も言えなかった。セレスの知っているヒューゴはセレスに対してはあまり頭を下げない。これまで待ち合わせに遅れてきた事がヒューゴは何度もあったが、いつも言葉で簡単に謝る程度で彼が頭まで下げた事はなかった。彼の矜持だと思い、気にしないようにしていたのだが、今のヒューゴにセレスは違和感を感じてしまう。
お茶どころか、もう観劇をする気分でもなくなってしまったセレスは、持っていたバッグからチケットを二枚と自分が飲んでいた紅茶の代金を出してテーブルの上に置く。
どうせ今日はもう気分が晴れる事はないのだから、歌劇を観ても楽しめないだろう。ならば、ここでチケットを渡して今日の事は忘れてしまった方がいい。
「……お二人で楽しんできてください」
立ち上がったセレスは個室のドアを開けて店を出た。チケットをテーブルに置いた時に、満面の笑みを浮かべるニーナの顔が視界の隅に入ってきたが、もうどうでも良かった。
鼻の奥がツンと痛んだので唇をキュッと強く結び、帰りの馬車の用意が無いままセレスは店を出る。二人がどんな顔をしているのか振り返る事はできなかった。




