2話 あなたの隣にいるのは……
セレスが騎士科の校舎前に作られた鍛錬場へ着いた時は、ちょうど休憩時間に入ったところだった。訓練場の端にある休憩スペースでは生徒達が木のベンチに座って手巾で汗をぬぐっていたり、飲み物を飲んでいたりしている。
休憩スペースといっても外との仕切りになる壁も無いし、床も無いから地面がむき出しになっている。日差しと雨が凌げるが、柱の上に屋根があるだけの簡単な作りをした木の小屋が並んで二棟あるだけのものだった。地面には木のベンチがいくつも置かれてあって、休憩中の生徒や彼らの姿を見るために来ている貴族科の令嬢たちが腰を下ろしていた。
今日は留学生を案内した事ですっかり出遅れてしまったセレスだったが、普段ならセレスが見学をする事を許されている日である今日は、クラスでの授業が終わってすぐに見学に来ているはずだった。
「ヒューゴさ……」
騎士科の生徒たちの中に黒い短髪の男子生徒を見つける。彼はセレスと同じ学年のヒューゴ・マドックで、彼とは婚約の約束をしていた。セレスは急いで彼の元へ掛け寄ろうとしたのだが、彼のすぐそばには彼の幼馴染であり侯爵家令嬢のニーナ・レゴリーもいたので、声を掛ける前にセレスの言葉と足は止まってしまった。
ヒューゴはちょうどニーナから飲み物を受け取ろうとしているところで、ニーナに向かって白い歯と笑顔を見せている。
あんな風に本心から笑っているような笑顔を向けられた事のないセレスは下を向いて小さくため息を漏らす。
(付き合いの長さが違うのだから、比べても仕方がない事よ……)
心の中でそう自分に言い聞かせながら、セレスは顔を上げる。
時間があったのならセレスも食堂へ寄って飲み物を用意してから来たのだが、学院長室へ呼ばれてアルウィンに校舎を案内する用事があったために時間的な余裕が無く、今日は飲み物を持っていなかった。
制服のポケットからハンカチを取り出してセレスは二人へ近づく。
「こんにちは、ヒューゴ様」
「ああ、セレスか」
声を掛けられた事で、ヒューゴがやっとセレスの事に気付いてくれた。彼の視線がセレスへ向けられ、セレスも彼に話し掛けようとしたのだが、すぐにニーナがセレスの前に立ったので、視界を遮られてしまった。
「まあ! 額の汗がすごくてよヒューゴ。汗を拭いてあげるから動かないで。あなたって小さな頃から本当によく汗をかいてたわよね」
「おお、ありがとう!」
割り込んできたニーナがヒューゴの額の汗を拭いてしまう。セレスは手にしていたハンカチをグッと握り込んだ。
「セレスさん今日はずいぶん遅かったのねえ、ヒューゴったらさっき練習試合で勝ったのよ。ヒューゴって強いのね」
一学年下のニーナは春に入学したばかりで、昨年のヒューゴを知らない。一年生の時のヒューゴは試合で負ける事が多く、休憩時間のセレスは負けて悔しがるヒューゴをよく励ましていた。ヒューゴが強くなってきたのは一年生が終わる頃で、騎士科の中でも少しずつ頭角を現してきたのはつい最近なのだ。
「俺もさ、一年生の時は負けてばかりだったんだぜ、なあセレス」
「え、ええ……」
突然名前を呼ばれたセレスは慌てて答えたのだが、大した返事ができなかった。
「そうなの? さっきは強かったのに信じられないわぁ」
甘ったるい口調のニーナの手が、ヒューゴの二の腕に触れる。まるで彼は自分のものだと言いたいような振る舞いだった。ヒューゴと幼馴染の関係にあるニーナは、セレスが近づけなかった領域まで簡単に踏み込む事ができるし、ヒューゴもそれを咎めない。彼らの間には強い繋がりがあるのだと、彼女が入学したこのひと月でセレスは痛感していた。
昨年まで自分がいた場所から押し出されるように、ニーナによってヒューゴの隣を奪われてしまったセレスは、時折ヒューゴへ訴えるような視線を送るのだが、セレスの様子に気付く気配がヒューゴにはなく、ニーナを中心とした空気が出来上がっていくのだ。
ヒューゴは辺境伯家の次男でニーナは侯爵家の末っ子なので、家を継がない事から深く考えていないのかもしれない。しかし、高位貴族家の令息と令嬢が婚約者同士でもないのに、腕であっても故意に身体に触れる事は避けるべきなのに、どうして分からないのだろうか。
セレスに、というより生家の事を考えて、周りの視線に対しての配慮や気遣いといったものを二人から感じた事がセレスにはなかった。
(いつまでも子どもではないのに……)
放課後の鍛錬は自由参加なので、休憩の始まりは頃合いを見て教師が合図をするが、終わりは特に決まっていない。中には用事があるからと休憩が終わるとそのまま帰ってしまう生徒もいる。
休憩を終えた生徒からぱらぱらと鍛錬場へと戻っていくので、生徒たちは周りの空気を察して鍛錬を再開する雰囲気に変わっていく。休憩スペースにいる騎士科の生徒たちが半分くらいに減ったあたりでヒューゴもベンチから腰を上げる。
「それじゃ、そろそろ鍛錬に戻るから」
それだけ伝えるとヒューゴは仲間たちがいる方へ走って行く。騎士科の生徒たちの自主鍛練は時には日が暮れるまでかかってしまう事もあるので、見学が出来るのは休憩時間までと決められていた。だからお目当ての令息が鍛錬場へ戻ってしまうと、令嬢たちも帰ってしまうので、休憩スペースにいる令嬢の人数は半分ほどに減っていた。
結局今日もセレスはヒューゴとニーナのやり取りを見ていただけで、ヒューゴとは挨拶程度の言葉を交わす程度しかできないまま終わってしまった。ニーナが姿を見せるようになった最近はいつもこんな調子だった。
ヒューゴがいなくなると、ニーナはセレスの事なんてちらりとも見ずにさっさと帰ってしまう。爵位の高いニーナの方から挨拶がないので、いつもお互いに無言で立ち去る事になる。セレスはこういう事に最初は慣れなくて、別れ際に挨拶が無い事に最初は驚いたが、今では当たり前になってしまった。
ヒューゴとニーナは、王都の屋敷がお互いに近く、幼い頃から付き合いがあると聞いている。
セレスが婚約者候補としてヒューゴと会ったのが学院に入学する直前なので、ヒューゴとセレスの付き合いよりも幼馴染としての彼らの付き合いの方がずっと長い。
入学してからの一年で、セレスは少しずつヒューゴとの距離を縮めていった。
集中できないから、剣の稽古を見るのは週に一度にして欲しい。そう言われても文句ひとつ言わずにヒューゴの言葉に従ってきたし、飲み物や手巾を手渡す時だって彼の手に直接触れないように気を遣ってきた。
それなのにニーナは入学して早々鍛錬場に現れると、セレスとは違って躊躇いもなくヒューゴの腕に触れてくる。腕を絡めるような事をされても、ヒューゴは軽くたしなめるくらいで、僅かに頬を赤らめているのだった。
(ヒューゴ様ってこんな方だったかしら?)
一年ほどではあったが、ヒューゴとセレスは良く言えば節度のある付き合いをしてきた。二人の間には物理的な距離があったが、それでも最初の頃はセレスもヒューゴと顔を合わせるだけで胸がドキドキして頬も熱くなった。
しかし、ヒューゴはいつも冷静で落ち着いていた。友人たちと一緒のときはよく笑っても、セレスと向かい合うヒューゴの瞳に熱は感じられず、少し話すとすぐに彼は話を切り上げて、セレスとの時間を終わりにしようとするのだ。
彼がセレスとの時間よりも鍛錬をする時間の方を大切にしている事は知っている。しかし、淡々とした関係が数ヶ月も続けば、最初の頃にあった胸の高揚はいつの間にかなくなっていく。
ヒューゴからセレス自身の事を聞いてくるような事はほとんどなく、いつもセレスから話しかけてばかりではあったが、それでもヒューゴの元気そうな顔を見ると嬉しく感じるし、自分が関心を持たれていないと分かっていても、セレスがヒューゴを好きだと思う気持ちは変わらなかった。ニーナが入学してくるまでは。
ニーナは高位貴族らしい金色の髪を持つ令嬢で、自慢の髪はいつもカールさせて、赤やピンクといった色のリボンで髪を結んでいる。幼い印象にはなるが、可愛らしい顔立ちをしているのでよく似合っていた。そして彼女の甘ったるい声もまた、彼女の容姿にぴったり合っていた。
ニーナには婚約者がいないから自由にできるのだろうが、それでも密着し過ぎだとセレスは思う。しかし身分の高い二人を相手に、注意をする事なんてできなかった。
セレスはニーナとは違って派手な顔立ちではないが、顔のパーツそれぞれの形やバランスが品良く整っていて、綺麗な顔立ちをしている上に肌も透き通るように白い。髪と瞳の色が茶色なのでパッと見が目立たないのだが、よくよく見ると美人という容姿をしていた。
もしもセレスが金色の髪に青い瞳といった目を引く色を持っていたら、学院の中でもその美しさが評判になっていただろう。
低位貴族専用の馬車寄せへ向かったセレスは、ミュラー子爵家の家紋が入った馬車を見つけると乗り込む。この馬車は揺れが激しくて入学したばかりの頃は酔う事もあったが、今では大分慣れて酔う事も無くなった。世話になっている子爵家への帰り道、重い気持ちのままセレスはヒューゴとの事を考えてしまう。このひと月で嫌というほどニーナとの〝幼馴染み同士の交流〟を見せられてきたせいで、ヒューゴへの気持ちがかなり冷めてしまったのだ。
しかしセレスは、引き返す事が出来ないところまできている。いや、両親に頭を下げればまだ間に合うのだろうが、セレスはこれまで意地を張り過ぎた。今さらどう説明すればいいのか、自分はどこまで頑張ればいいのかがもう分からなくなり、セレスは迷い始めていた。




