56話 あなたの隣はいりません
アルウィンと剣を交わすまでのヒューゴは感情的だったが、勝負に負けてしまった事と、肉体的な疲れから、彼の瞳の色は先ほどより落ち着いていた。そして、セレスティナとアルウィンから数歩ほど距離を置いたところで立ち止まる。
「婚約者がいるのに、セレスの事はどうするんだよ?」
ヒューゴにしては珍しく、低い声音にはアルウィンを責める気持ちが見えていて、アルウィンは瞳を細めた。
「教える必要はなかったが、ティナとは一年後に結婚をする。彼女を誤解しているよ、キミは」
アルウィンが再びセレスティナの腕輪に触れようとするが、セレスティナはアルウィンを遠ざけるように左腕を後ろへ引く
「大丈夫よ、アル。自分の名誉は自分で守りたいの」
セレスティナは左腕の袖を少しだけ捲って手首を出す。手首にはもちろんアルウィンから贈られた透かし模様の入った銀色の腕輪が輝いていて、彼の瞳と同じ色の翡翠が嵌っている。
一度呼吸を落ち着かせてからセレスティナは腕輪に自らの魔力を流した。すると継ぎ目の無かった腕輪がカチリと外れて、魔法の効果が切れる。セレスティナの髪と瞳の色は一瞬で元の色に戻った。
茶色の髪が銀色に変わり、同じく茶色の瞳が神秘的な紫色に変わったので、周りからざわめきが起こる。
これまで地味で大人しそうな容姿をしていたセレスが、髪と瞳の色が変わっただけで妖精のように儚くも美しい令嬢へと変わったのだ。色が変わっただけなのに、まるで印象が違う。弱々しそうに見えていた白い肌も、髪や瞳の色のせいか今は透き通るような白い肌に見えるのだから不思議だった。
「えっ……セレス、なのか?」
セレスティナの変化に一番驚いていたのは、間近で見ていたヒューゴだった。
「この姿でお会いするのは久し振りですわね。過去に辺境であなたに助けていただいた、セレスティナ・クロイツですわ、騎士様」
「そっ、そんなっ……嘘だっ! あの時の女の子がセレスだったと言うのかっ?」
ヒューゴは嘘だと思いたかったが、彼女の姿と言葉がそうだと言っている。
「あなたがこの姿を信じようと信じまいと、私にとってはもうどちらもいいのです。先ほどあなたは婚約者候補から外すとおっしゃいましたが、既に婚約者候補ではなくなっていますわ。お互いに住んでいる場所が違い過ぎました。マドック様もそう思われていたでしょう?」
「で、でも俺はセレスと……」
ヒューゴが〝結婚〟という言葉を言う前に、アルウィンが口を挟む。
「マドック令息、セレスティナの両親が結婚相手に最も望んでいる事は彼女を守る事だ。その両親の気持ちに反してまで彼女はキミがいるからこの国へ来ていた。キミに力が無くても、せめて彼女を大切にしてくれていたら俺もすぐに帰ったが、この国にいる彼女はいつもひとりで寂しそうにしていた。どうしてたったひとりでこの国にやってきた彼女を、少しも支えようとはしなかった?」
「そ、そんな事は……」
そんな事はないと言いたくても、ヒューゴの言葉は続かなかった。実際に一年生の時のヒューゴはセレスティナよりも鍛錬を優先していたし、二年生になってからは鍛錬の次にニーナを優先していて、彼が優先する事柄の中にセレスティナは入っておらず、守るとか守らない以前の問題だった。
「ありがとう、アル。もういいのよ。……マドック令息、これまでお話ししていませんでしたが、アルウィンは幼い頃から私の両親が婚約者として決めていた方です。あなたとニーナさんと同じ幼馴染同士ですわ」
過去を思い出しているのか、セレスティナは瞳を伏せ気味にする。
「辺境であなたと出会ってから、私はアルウィンと距離を置いていました。だからあなたとニーナさんの関係が理解できなかった。私はアルウィンとの関係を断っていたのに、あなたは違った。きっとそういった違いが私とあなたが合わなかった理由ですわね。両親もこうなる事を見越していたから、正式な婚約は卒業後としていたのでしょう」
「い……、嫌だ。セレスと別れたくない。……キミがあの子だと知っていたらもっと、俺だって……」
泣きそうな顔をしながらヒューゴは首を横に振る。狼狽えるヒューゴを見てもセレスティナの心は動かず、ため息だけが漏れた。
「両親との約束でしたの、身分と名前を隠しておくことは。ですから私がこの姿を見せる時は、あなたとの関係が終わった時だけなのです」
「す……好きだったんだっ」
追い縋るような表情をしながら、ヒューゴの黒い瞳から涙が流れ始める。
彼の涙を見てもセレスティナの気持ちは揺らぐ事はなく、微かに眉根を寄せて可哀想なものを見るような表情を浮かべる。
それは今のヒューゴへの同情心からくるものと、自分の想いを打ち明けても聞き届けてもらえなかった、かつての自分を憐れむ気持ちからきたものだった。
「でも一番ではなかったでしょう? これまであなたが私の言葉に耳を傾けてくれた事が一度でもあったのでしょうか?」
「ち、違うっ……剣術大会が終われば、そうすれば……」
食い下がろうとするヒューゴに、今度はセレスティナが首を横に振る。
「いいえ、あなたはきっとまた次の試合のために私を放って鍛錬を続けていましたわ。いつも一番でなくても良かったのです。でもあなたにとって私が一番だった事は一度もありませんでしたわね。私はもう疲れてしまいました。辺境騎士の妻としては、私は辛抱が足りなさ過ぎるのですわ」
セレスティナは隣にいるアルウィンを見上げた。
「帝国で一度だけアルウィンが剣の稽古をしている所へ行った事がありました。その時、私の姿を見つけたアルウィンは、とても嬉しそうな顔をしてくれましたの。マドック様には鍛錬の見学に来るなと言われていたから驚いてしまいましたわ。多分あの頃からだと思いますの……」
アルウィンから想いを告げられて、彼と向き合おうと思った頃からセレスティナの気持ちは変わり始めていた。
「……セレスに見られていると、恥ずかしくて集中できなかったんだ」
ヒューゴは自分の腕で涙を拭いながら絞り出すような小さな声でそう答えた。
その言葉を最初の頃に話してくれていたら、違っていたかもしれなかったが、セレスティナとヒューゴの間には、言葉以上に足りないものが多過ぎた。
「何をおっしゃっても、もう遅いのです。私はアルウィンとクロイツで生きていくことを決めました。元々決められていた道に戻っただけですわ」
そう言ってセレスティナは微かに笑う。辺境で別れた時の彼女も笑っていた。ヒューゴの中で、子どもだった彼女が泣きながら笑っていた姿と今の彼女とが重なる。セレスティナは自分の場所へ戻って行く。
彼女はもう覚えていないだろうが、あの時自分は彼女に、笑顔で別れようと言った。
しかし今のヒューゴには笑う事が出来なかった。
「一年と半分近くをレーデンで過ごしていましたが、知らない土地で知り合いもいなくて本当は寂しかったんです。でもあなたは私に強くなれと言って、寂しいとは言わせませんでしたよね。あなたの隣に私の場所はありませんでした」
セレスティナは腕輪を再び自分の手首に着けて、髪と瞳が茶色いセレス・ミュラーに戻る。学院の中とはいえ、守りの少ないレーデンでは、あまり元の姿ではいたくなかった。
「帝国は生まれ育った国ですが、楽な事ばかりではありませんわ。でもアルウィンが私の隣にいてくれたら私は頑張れるし、今よりも強くなれるような気がしています。ですからここでお別れです。一度も私の場所になった事はありませんでしたが、あなたの隣はもういりません。さようならヒューゴ様」
そう言ってセレスティナはヒューゴに背を向ける。背後から嗚咽する声が聞こえたが、セレスティナは二度と振り返らなかった。




