52話 彼の願いが叶う時
少年だった彼が、その腕輪を初めて見せてくれた時、それは淡い緑色の包みの中に入れられて、ラベンダー色のリボンが掛けられていた。
――これ、家にあったんだ。でもね、これはただの腕輪ではないんだ。魔道具でティナの姿を少しだけ変えてくれるものなんだよ。家の中にいても、これで気分を変える事が出来るから使ってみて。……ほら、この透かし彫りなんかすごく綺麗だよ。これを着ければ、明るい気持ちになれる、と思うんだ。
確か彼は少しだけはにかんだ表情を見せながらセレスティナにそう話してくれた。
男性が女性に対してアクセサリーを贈るという事に、特別な意味があるのだと知っていたセレスティナは、アルウィンから腕輪を受け取りたくなかった。
――……いらない。
――セレス、せっかくアルウィンが持ってきてくれたのよ。一度くらい着けてみましょう。
――でもお母さま、お兄さまからこのようなアクセサリーをいただくのは……。
不満そうなセレスティナにアルウィンは一度だけ笑顔を見せるが、どこか悲しそうだった。
――そうだな……、兄として妹にこれをあげたいんだ。兄妹だったらこういうものをあげることもあると聞いた事があるから、おかしな事ではないよ。もし気に入らなかったら捨ててしまってもいいから、試しに一度だけでいいから着けて欲しいんだ。
母親や侍女たちが向ける咎めるような視線に押されて、仕方無いと思いながらセレスティナはアルウィンから腕輪を受け取ったのだ。今思えばアルウィンに対してひどく傲慢な気持ちと態度を取っていた。
――わかったわ。でも継ぎ目がないわ。どうやって着けるの?
――これはね、腕輪にほんの少しだけ魔力を流す事で着け外しが出来るんだ。ティナと俺の魔力にしか反応しないから、そこだけは気を付けて。
そうやってアルウィンに腕輪を着けてもらったら、周りにいた母親や乳母が驚きの声を上げた。
――ティナっ、あなた髪の色がっ! まあ、瞳の色も変えられるのね!
――お嬢さまっ、御髪のお色がお変わりになられましたっ。
――えっ、どうなっているの? 誰か鏡を持ってきて、いいえ部屋に戻るわ!
自分の部屋へ向かおうと、セレスティナは突然走り出す。すぐに追いついたアルウィンが、セレスティナの手を握る。
――ティナ、転ぶと危ないから。
自室にある大きな鏡の前に立った時、茶色く変わった髪と瞳を見たセレスティナは驚きの声を上げる。
――すごい、全然違う人みたい。ねえ見てお母さま、私すごい事になってるわ!
――アルウィン、貴重なものをセレスにありがとう。こんなに明るい顔をしたセレスを見たのは久し振りだわ。
そう言いながら、セレスティナの母親であるグローリアは、ハンカチを目元に当てる。
――聞いて、ティナ。髪と瞳の色が変われば、キミはもう目立たなくなる。誰もティナの事をクロイツ令嬢とは思わないだろう? 服を替えれば使用人と思われるかもしれない。令嬢と思われなければもう攫われてしまう心配はないし、これでもう大丈夫だね。試しに庭へ出てみないか?
――でも……。
――大丈夫、俺もいるから。これでも毎日剣の鍛錬をしているし、父に褒められる事もあるんだ。ティナを攫おうと思うヤツがいたら俺がそいつをやっつけるから安心して。
そうやってアルウィンに励まされならがセレスティナは数カ月ぶりに屋敷の外へ出たのだった。
左手をアルウィンに優しく引かれながら、セレスティナは右手で茶色く変わった長い髪をひと房手に取り、それをぎゅっと握りながら外への一歩を踏み出した。
空を見たら午後の空は青く、太陽の光は優しくて風も穏やかだった。
クロイツ家の明るい庭の中に、怖いものは何もなかった。
――私、……外へ出れたのね。ねえお母さま、私、外へ出れたわ!
久しぶりに屋敷の外へ出る事が出来たセレスティナは、その事が嬉しくてアルウィンがその時どんな表情をしていたのかを覚えていなかったが、母親は彼が泣きそうな顔をしていたと言っていた。
どうして自分はここまでしてくれたアルウィンの想いに気付かなかったのだろう。セレスティナは少年だった頃の彼の姿を頭の中に思い浮かべながら申し訳ない気持ちになった。
「私、これまであなたに酷い事をしていたわ。ごめんなさい。……それに今まで私の事を見捨てないでいてくれて、ありがとう」
セレスティナの呟きに、それまでセレスティナを見ようとしなかったアルウィンの視線がようやく動き、セレスティナは彼の翡翠のような瞳と目が合った。
彼はその瞳に、これまで何度セレスティナの姿を映してきたのだろうか。
(この人はずっと私を見てくれていた……)
セレスティナは、自分という存在が彼の中にずっとあったのだと、やっと気付く事ができた。
そしてその瞬間、セレスティナの頭の中で、過去のアルウィンの姿が次々と思い出されていく。
それは幼い頃から今まで十数年の彼の姿だった。小さな自分の手を引きながら庭を歩く小さな彼。一緒に絵本を読んでくれた彼、セレスティナに付き合う形でマナー教師から共に学び、ダンスのレッスンも一緒にした。
彼を避けていた時期は、クロイツ家を訪れた彼を遠目で見かける事はあったが、それだけだった。時々母と彼がお茶をする席に呼ばれた時には挨拶程度しかしていなかった。
あの頃のアルウィンはいつも遠慮がちにしていて、セレスティナの事をチラリと少し見るだけですぐにセレスティナから視線を外していた。
それでもアルウィンは、決してセレスティナ以外の令嬢を自分の隣には置かなかった。
彼がレーデンに留学してきた時は、両親に頼まれて帝国に連れ戻しにきたのではないかと、最初は警戒もしたが、アルウィンは無理にセレスティナに近づくようなことはしなかった。むしろセレスティナを助けてくれたり、孤独だったセレスティナに勉強を教えるという形で寄り添う事もしてくれた。
今まで彼の事をたくさん傷つけてきたのに、それでもセレスティナの事を好きだと言ってくれた。
その時、セレスティナの心の中でこれまで言い表せなかったアルウィンへの気持ちがはっきりと形を持った。
(この人の事が、とても愛おしい……)
突然飽和して、溢れ出した気持ちのまま、セレスティナは熱の籠った瞳でアルウィンをじっと見つめる。
「あの頃の事はもういいんだ。キミは幼かった、それだけだよ」
セレスティナの中で起きた、内面の変化にまだ気付いていないアルウィンは、いつものように微笑む。
愛おしいと感じた瞬間から、見慣れたはずの笑顔でさえも輝いて見えてしまい、セレスティナはパチパチと目を瞬かせた。
「アルウィン、どうしましょう。私……」
言葉に詰まったセレスティナの様子に、いつもとは違う何かを感じたアルウィンがセレスティナの顔を覗きこもうとしたら、アルウィンの動作にセレスティナは頬を染めて両手で顔を覆ってしまった。
「俺……、何かした?」
セレスティナが手で顔を覆ってしまった事で、泣かせてしまったのかと思ったアルウィンの表情が険しくなる。
「……違うの」
「違う?」
セレスティナはゆっくりと両手を顔から外すと、恐る恐るアルウィンを見つめる。普段は白い筈のセレスティナの顔は、熱でもあるかのように真っ赤だった。
「私、多分……。あなたの事を好きになってしまったの」
セレスティナの言葉を理解できないアルウィンが、ぽかんとした表情を浮かべる。
「俺の事が、好き? ……家族ではなく、俺が望んでいた方の好きという意味?」
アルウィンは慎重に言葉を選ぶ。ここでセレスティナに好きだと思われる理由が全く思い浮かばなかったからだった。
セレスティナは無言で小さく頷く。
「……少し前から、アルウィンに見つめられたり触れられたりするだけで、すごく恥ずかしく感じていたの。それはあなたが大人で異性だからだと思っていたのだけれど、この帳面を見て、改めてあなたが私の事を想ってくれていたって知ったら、今までのあなたとの事がたくさん思い出されて、それで思い出した全てのあなたがこんなにも私の事を想ってくれていたのだと思ったら……、アルの事が好きだって気付いたの。どうしよう、すごく胸がドキドキする」
セレスティナは再び手で顔を覆い、小さな声でそれだけ言うと、ついに泣き始めてしまった。
ヒューゴから冷たくされてきたから分かるのだ。自分がアルウィンに関心を持たず、彼を避け続けてきた事がどれだけ彼を深く傷つけてきたのかという事を。
それなのに、そんな事をしてきた自分が、今度はアルウィンの事を好きになってしまった。
これまで彼という存在に寄りかかり、何も返さずに甘え続けてきてしまった事がとても恥ずかしかった。
「……ごめんなさい。自分がしてきた事を思うと、あなたに好きになってもらう資格なんてないのに、でもあなたが私の事を想ってくれる事が嬉しいの」
アルウィンが顔を覆っていたセレスティナの手の甲に、予備として持っていたハンカチをそっと当てる。
「涙を、拭くから。……顔を、見せて」
「優しすぎよ、アル。私は酷い人間なのよ。……それに今は顔も酷い事になっているわ」
「大丈夫、キミの泣き顔はいつだってかわいかったよ」
小さな頃に一緒に遊んでくれたアルウィンが帰ってしまう時、離れるのが嫌でセレスティナはいつも泣いていた。そしてセレスティナがかわいそうだからと、彼はもう少し長く一緒にいてくれたのだった。彼はきっとその時の事を言っているのだろう。
セレスティナが自分の顔から手をそっと離すと、目元を真っ赤にして涙を流す顔が現れたので、アルウィンはセレスティナの目元にハンカチを当ててやり、こぼれ落ちる涙をそっと拭い、セレスティナの頭を優しく撫でる。
「好きだよ、俺のかわいいセレスティナ」
アルウィンの柔らかな声色に、セレスティナの胸が強く大きく高鳴り始める。
「もうそれ以上何も話さないで。これ以上あなたに何かを言われたら、おかしくなってしまうかもしれないわ」
「うん、わかった」
そう言ってアルウィンは微笑んだ。
何も話さないまま時間だけが過ぎていった。昼休みが終わるまでアルウィンは何も話さずにずっとセレスティナの頭を優しく撫で続けていた。
この日、ようやくアルウィンの願いが叶った。




