32話 遅い新学期
レーデンの学院が新学期を迎えてから半月近くが過ぎた頃、他の生徒たちよりも少し遅れてセレスティナはレーデンの学院へ通い始めた。
帝国で社交界デビューを果たしたセレスティナは、夏期休暇の間はずっと帝国で社交をしていた。母に伴う形で茶会へ行き、父のエスコートで夜会にも出掛けた。
これまで領地で守られ続け、深窓の令嬢と思われていたセレスティナが、社交界デビューを果した事は帝国貴族たちの間で大きな話題となり、注目をされる事が多かった。
どこへ行っても注目されるので常に気を抜けず、笑顔の作り方と所作の細かなところまで神経を使わなければいけないので大変ではあったが、これがクロイツで生きる事を決めた第一歩だと思い、セレスティナは気持ちを引き締めて臨んでいた。
夏期休暇を終えて、レーデンの学院にいるセレスティナは、あの腕輪を再び着け初めて茶色の髪と瞳となっていた。セレス・ミュラーとして過ごしている今は、注目されるような事もなく、これまでのように目立たず大勢の生徒たちの中に紛れている。しかしセレスティナは帝国に戻った時のために、誰にも見られていなくても姿勢を伸ばし、指先にまで神経を使う事を忘れなかった。
両親やアルウィンには気持ちの整理をつける時間が欲しいと話したので、ヒューゴと会って話をしないといけないのだが、学院に通い出して数日ほどが過ぎても、まだヒューゴとは話せないでいた。
ヒューゴはセレスティナとの事は政略だと思っているようだし、彼自身からセレスティナへ特別な感情を感じた事はこれまでなかった。
いつもセレスティナの方から彼に会うために、放課後の鍛錬を見学するために足を運び、月に一度の交流会も、セレスティナからヒューゴの都合を聞いて場所を整えてきた。交流会での会話だって、ヒューゴから話題作りをしてくれる事は少なく、セレスティナから話しかけてばかりで、完全にセレスティナの一方的な片思いだった。
同じ学年でも騎士科とは校舎も違うし、授業が重なるような事もない。これまできっかけを作っていたセレスティナが何もしなくなると、ヒューゴの顔を見る事はなくなっていた。
ヒューゴを呼び出すと必ずニーナが付いてくる。レーデンでセレスティナが世話になっているミュラー子爵夫妻経由で子爵家に呼ぼうかと考えていた頃に、ヒューゴの方からセレスティナのクラスへやってきたのだった。
「やっと戻って来たんだな、いつ頃戻ってきたんだ?」
「お久し振りです、数日ほど前にレーデンに来ました」
「……今年の夏は手紙を送ってはくれなかったんだな」
昨年の夏期休暇中、セレスティナはヒューゴへ手紙を送っていた。しかしヒューゴからは何の反応もなかったので、彼に手紙を送ったのはあの一度だけだった。
手紙に書いた内容も、ヒューゴに元気に過ごしているか、鍛錬はどうなのかといった彼が返信をしやすい話題を選んで書いたのだが、結局ヒューゴからは返事がもらえなかった。帝都の屋敷で毎日ヒューゴからの返事はまだかと、執事に訪ねていたのは、もう随分昔の事のように思えてしまう。
今年の夏は手紙を送る必要性を感じていなかったし、帝都での社交とこれからの事を考える事で忙しかったから、最初からヒューゴに手紙を書くつもりはなかったし、書こうとも思わなかった。返事の届かない手紙を送って待つほどの気持ちが今のセレスティナはもうなかった。
「昨年お送りした時はお返事がなかったので、ああいったものは送らない方がいいかと思いましたので送りませんでした」
「実は昨年の夏に手紙をもらえた時は嬉しかったんだ」
照れがあるのか、ヒューゴは下を向いてぽつりと言った。
昨年の夏期休暇明けにはそんな事はひと事も言っていなかったし、返事だってもらっていない。一年も前に送った手紙を、ここで初めて嬉しいと言われても、感謝を伝える時期はとっくに過ぎている。
今だって「ああ、そうなんだ」程度の感想しか抱けなかった。
「そうでしたか……」
ヒューゴとは教室前の廊下で話している。昼休みが終わるまでにまだ時間はあったが、このような場所で込み入った話まではできない。
久しぶりに顔を見たというのに、セレスティナはヒューゴに対して何も感じなくなっていた。
ヒューゴは元々セレスティナに関心を持っていなかったし、セレスティナの気持ちがここまで冷めてしまった以上、離れた方がお互いにとっていい。
ヒューゴだって親に決められた相手よりも、自分が選んだ相手と一緒になりたいはずだ。
「そういえばさ、夏期休暇もあったから最近一緒に出掛けていなかったよな。次の休みに予定が空いているのなら、お茶でも飲みに出掛けないか?」
ヒューゴの方から外で会う誘いをくれたのはこれが初めてだった。
「いつもの交流の日ですね、承知いたしました。よく行くあのカフェにしましょう」
またニーナを連れてくるかもしれないが、セレスティナはもうそれでもいいと思えた。彼はそれだけ幼馴染を大切にしているという事なのだ。二人の間に恋愛感情が無いのは分かっていたが、ヒューゴがまたニーナを連れてきたら「お幸せに」とでも言ってすぐに帰って、それでヒューゴとの事は終わりにしてしまえばいい。
一年と数ヶ月前に再会してから、一度も優しさを見せてくれなかったヒューゴの事も、彼に纏わりつくニーナの事もセレスティナの中では、もうそれほど大きな存在ではなくなっていた。
セレスティナが誘いを受けてくれた事で、気を良くしたヒューゴは、いつもの明るい調子で思わぬ事を口走った。
「じゃあ、迎えに行くよ」
ヒューゴのその言葉にセレスティナの表情が一瞬だけサッと変わる。
「……いいえ、それには及びませんわ。いつも通りカフェで待ち合わせをしましょう」
「いや、でも」
「いいえ、これまでもそうでしたのですから、迎えは必要ありませんわ。お手を煩わせるような事ではありませんもの」
「分かった……」
ヒューゴは少し不満そうではあったが、セレスティナの強い口調にしぶしぶといった様子で了承をした。
歌劇のチケットをあげる事になった時のように、彼の馬車を頼ってひとりで帰る事になるのはもうたくさんだった。
あの時はたまたまアルウィンがセレスティナを見つけてくれたから良かったが、彼はまだ帝国にいる。同じような事があったら今度こそひとりで帰らないといけなくなってしまう。
それにヒューゴと二人きりで馬車に乗る事をセレスティナは咄嗟に嫌だと思ってしまった。
ヒューゴと馬車に乗るなんて事はこれまでは無く、少し前ならば嬉しく思えたかもしれないが、今は彼と近い距離にいたくはなかった。
アルウィンとは何度か馬車に乗ったが、小さな頃から身近な存在だったからか、彼に対しては一度もそのように思った事はなかった。
セレスティナは無意識に制服の上から腕輪を付けている左手首を触っていた。
その日学校から帰宅したセレスティナを待っていたのは、遠征で怪我を負ったからレーデンへ行くのが遅れるけれど、待っていて欲しいと書かれたアルウィンからの手紙だった。
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