【幕間】彼と彼女
アルウィンが初めてセレスティナと会ったのは、彼自身の記憶も朧げになるほど幼い頃だった。
小さくて柔らかな彼女の手を引きながら、おぼつかない歩き方をする彼女と緑溢れる彼女の家の庭を歩いたのが彼女との最初の思い出だった。
(作りたてのフィナンシェみたい……)
ぷにぷにとした彼女の手の感触を確かめながら繋いだ手の先を見ると、彼女の紫色の瞳がこちらを見上げていた。
兄しかいないアルウィンが、自分よりも小さな子どもに会ったのは初めてだった。
小さな子には優しくするようにと教えられていたので、アルウィンは彼女に笑いかけてみる。すると意外にも、彼女も笑顔を返してくれた。
(小さい子って、かわいいな)
「あっち、いこう」
「あいっ」
言葉が通じたのか、彼女は笑いながら彼の提案に頷き、彼はそんな彼女の事を更に可愛らしいと思った。
初めて来た屋敷の庭の中を指で差しながら、アルウィンは彼女の手を引いて再び歩き出す。彼女の乳母や侍女といった大人たちが、付かず離れずといった距離で見守るように、トコトコとゆっくり歩く彼らの後を追って行った。
こうして幼い彼女との交流が始まる。彼女からは「るぅ」と呼ばれていた。
次に会った時は「ある」、翌年は「あるうぃんしゃま」「アルウィンさま」と会う度に少しずつ呼ばれ方が変わっていき、最後には「お兄さま」で固定された。
最初の数年はお互いの家族を交えた交流で、二家族で近くに湖がある別荘へ行ったり、ピクニックをしたりといった、セレスティナとアルウィンを中心とした交流だった。
それらの思い出は、アルウィンの中では幼い頃の温かな思い出として大切に残されている。
彼女の家を訪れるときには彼の兄もいたのだが、彼女と遊ぶのは歳の近い彼の役目だった。
年を追うごとに、忙しくしている父や兄が彼女の家へ行く事は少なくなり、彼女の家を訪れるのは自分と母親だけとなっていった。
やがて母が付き添うのは、彼女の母親とのお茶会の時だけとなり、アルウィンは自分ひとりで彼女の家へ行く事が増えていった。
自分を兄のように慕う彼女との関係は、庭に植えられている常緑樹のように変わることもなくそれから何年も続いていった。
彼女の家では、彼女の父からクロイツ家の歴史を学び、領地経営に関係する本を渡されて課題を与えられた。そして次に来た時には、与えられた課題について彼女の父に自分なりの考えを伝えて、彼女の父とクロイツ領について語り合った。
剣術は自分の父親から教わっていたが、領主としての考え方は、彼女の父親から教えられた事が多かった。
クロイツ家の人たちは国外で暮らしているので、クロイツ家を訪れるのは、一年のうちで限られた期間であった。
彼らが帝国にいる間、アルウィンは毎日のようにクロイツ家に迎え入れられ、侯爵が不在の日は、セレスティナの勉強に付き添い、それが終わったら彼女の遊びに付き合って人形を操ったり、絵本を読んだり庭を一緒に散策したりして過ごしていた。
子どもながらに空気を読む事が得意だったアルウィンは、家族や使用人たちの様子を見て、自分はいずれ彼女と結婚をして、この家で暮らす事になるのだろうと、何となく感じていた。
彼が十歳の誕生日を迎える前の日の事だった。両親に呼ばれたアルウィンは、自分の婿入りと彼女との結婚が決まったのだと伝えられた。
彼女とクロイツ家とは、物心がついた頃からの付き合いだったので、アルウィンは彼女が自分の結婚相手となる事を、自然な流れとして受け入れた。
まだ八歳の彼女が自分との結婚をどう思っていたのか、それを彼は聞いた事がなかった。
彼女は話をする事が大好きだから、あと何年か過ぎればいずれ彼女の方から、自分たちの将来の事を話すようになってくれるだろう、そんな風にアルウィンは思っていた。
二歳年下のセレスティナは表情がくるくると変わり、おしゃべりでかわいらしい女の子だと思っていたから、彼女と作る家庭は賑やかで陽だまりのように暖かなものになる、アルウィンはそう思っていた。
しかし自分が彼女との未来を考えていて、それを彼女に伝えなかった事を、彼は長い間後悔する事になるのだった。
結局、セレスティナの口からは、アルウィンとの将来について語られる事は一度もなかった。
彼の思いを裏切る出来事が起きたのは、彼女が結婚相手と決められてから三年が過ぎた頃だった。
十一歳になったセレスティナはついに恋をするのだが、相手はアルウィンではなかった。
それが彼女にとっての初恋だった。
セレスティナは運命を見つけて、アルウィンが運命を失った瞬間だった。
その日から彼の世界は変わってしまう。
彼は彼女を失ってしまうかもしれないと思った時に初めて気付くのだった。彼女の事が大好きで、誰よりも大切な存在だったということに。
クロイツ侯爵夫妻は、いずれアルウィンとセレスティナとを婚約させるつもりではいた。しかしそれは数年先の未来であって、まだ正式に婚約を結んではいなかった。
彼女が初恋の相手でもあるヒューゴを慕う気持ちはとても強く、想いの度合いは日増しに強まっていった。
親同士が決めた結婚相手でしかないアルウィン。
それは恋する彼女にとって、その恋を阻む存在であった。
彼は無理に彼女に近づこうとはしなかったが、それでも彼女の中では彼を拒絶する気持ちが強くなっていく。セレスティナがヒューゴの事を思うほどに。これは彼女の両親にもどうしようも出来ない事だった。
しかしセレスティナの初恋は実る事なく、一瞬の出会いでしかなかったヒューゴは、彼女の想いに気付けなかった。だからセレスティナとヒューゴは、もう二度と会わないはずだった。
それはアルウィンにとって、幸いにも思えた。しかしその事は、彼にとって逆風となるのだった。
恋した相手に会えないという時間は、セレスティナの胸の中でくすぶる想いをより強くする燃料となり、彼女の恋心を大きな炎へと変えてしまったのだ。そしてしばらくの間、その事は誰も気付かれなかった。
セレスティナに近づく事さえ出来なくなってしまったアルウィンは、遠くから彼女を見守る事しかできなくなっていた。
どんなに恋焦がれても、彼女の心が決まってしまった以上、彼の想いは一方的なものでしかなかったのだから。
婚約者候補だったどの令息たちよりも早く、最初に彼女と会ったのはアルウィンだった。
彼女は自分だけのものだと思いたい気持ちと、そうはならないという現実の間で、彼の想いはどこにも辿り着けないままだった。
長年彼女を見てきたから、彼女の想いの強さはよく知っている。
周りが自分の味方をしてくれても、きっと自分は彼女を手に入れられない。
それを確かめるための留学だった。
アルウィンは、自分の初恋を終わらせるために、彼女のいるレーデンへ来たのだった。




