27話 失いかけているもの①
数日後に試験を控えたその日、午後の授業が終わり、セレスは帰ろうと教室を出た。しかし玄関まで続く階段を降りたところで立ち止まってしまった。
ちょうど玄関先にはセレスを待っているかのように、ヒューゴが立っていたのだ。セレスに気付いたヒューゴが顔を上げて声を掛ける。
「久し振りだな、セレス」
「お久し振りです、ヒューゴ様」
セレスがヒューゴと友人たちの会話を聞いてから二週間くらいが過ぎていて、あれからセレスは放課後に騎士科の鍛錬場へは行かなかったし、ヒューゴとの交流の日もあったが、試験前である事を理由に断りの手紙を送っていた。
今日も久し振りにヒューゴの顔を見たが、以前まで感じていた気持ちがざわざわするような感覚はなくなっていて、思っていた以上に落ち着いている自分に、セレス自身が驚いていた。
(何の用事があっていらしたのかしら?)
ヒューゴがセレスのために貴族科の校舎まで来てくれたのは三度目だったが、過去にあった二度に良い思い出が無いセレスは、警戒心を持ちながらヒューゴに話し掛ける。
「本日は鍛錬に行かなくてよろしいのですか?」
「元々自主参加だし、今日はいいんだ」
寝ても覚めても鍛錬ばかりしているような彼にしては珍しい事だったが、セレス自身は、早く帰って帝国の学院で受ける進級試験へ向けての勉強がしたかったので、話を長引かせないために余計な事は口に出さなかった。
「少し、話がしたいんだが、いいかな?」
「……承知しました」
ヒューゴに連れて行かれたのは、一階にある貴族科の食堂で、厨房の方を見たら料理人たちが明日のために料理の仕込みをしていた。
この時間、食堂は飲み物程度だったら出してくれるが、それは騎士科の鍛錬を見学に行く時に持って行く差し入れ用の果実水なので、食堂は長居が出来そうな場ではなかった。
自分から声を掛けてきているのに、これはないだろう。放課後なのだから街へ行ってカフェでお茶をするという事だって出来るのに、準備中の学食のテーブルに座らされている事で、セレスは自分自身に対して情けなくなってきてしまった。
そして食べ物も飲み物もないのに食事の席に着くというのは、婚約者候補という形があっても中身が伴っていない自分たちのようだと思えて、セレスは笑いたくなってしまった。
「先日はフォレット様と一緒にあのような場に行ってしまい申し訳ございませんでした」
そう言ってセレスは頭を下げる。ヒューゴがわざわざセレスに会いに来る理由として思い浮かんだのが、アルウィンと一緒にカフェにいた事だけだった。
あの事に対して何か言いたい事があって来たのだろうと思い、こうするのが一番穏便に済ませられると思ったので頭を下げたのだった。
しかし言葉に出した途端、自分だけが謝るのはおかしいという思いに駆られてしまう。
あの時はヒューゴもニーナを連れていたし、お互いに同じ状況だった。
ここで謝ってしまえばいつもの関係に戻れるだろう。良くも悪くもヒューゴはあっさりした性格なので、この場で彼の気持ちが収まれば納得してくれるはずだ。
しかし〝いつもの関係〟とは、素っ気ないヒューゴと彼にまとわりつくニーナを見せられるのが、最近の〝いつもの関係〟だった。自分からわざわざあの場所に戻る必要はあるのかと、セレスは疑問に思ってしまった。
セレスはヒューゴの隣にニーナがいるのを見ているだけだった。身分が無いから文句のひとつも言えなかった。あんなに恋焦がれたヒューゴの隣だったが、今はそれほど欲しいとは思えなくなっていた。
「それはもういいんだ、俺もニーナを連れていたし。それよりも最近鍛錬の見学に来ないが、体調が悪いのか?」
セレスの体調を気にするなんて普段はしない事をしているせいなのか、ヒューゴの様子が落ち着かない。いつもなら視点の定まっているヒューゴの視線が揺らいでいる。セレスを見たと思ったら、テーブルを見て、今度は自分の手を見ている。
「いいえ、体調は問題ありませんわ。試験勉強に集中をしたかったので控えていました」
セレスの口調はこれまでとは違い、声に抑揚がなくあっさりしていた。
今はそっとしておいて欲しいのに、どうして彼の方からやってくるのか。これまで来て欲しい時には一度もきてくれる事はなかったのに。
「……そうか、学業で良い成績をとっても辺境ではあまり役には立たない。勉学はそこまで頑張らなくても良いと思う」
辺境という言葉にセレスの胸はチクリと痛む。
(この人と私とでは、考え方すらこんなにも違う……)
強くなる事を己の目標とし、鍛錬を第一に考えるヒューゴにとってはそれが正しいのだろう。しかしセレスは両親から学ぶ事の大切さを教えられてきた。だから両親はレーデンに留学をする条件として、帝国の学院に籍を置いて卒業する事を条件としたのだ。それにセレスが帝国で生きる事を選んだ時に、学院の卒業資格は必要となる。
全く違う常識の中で生きて来た者同士が、夫婦となって共に暮らすという事はとても難しい事なのだと、冷静になれたから気付く事が出来た。これまではセレスがヒューゴにばかり合わせてきたが、それはセレスの中にヒューゴへの気持ちがあったから出来ていた事だった。
「私は自分のために頑張っています」
真っ直ぐにヒューゴを見つめて、きっぱりと言い切るセレスにヒューゴは息を呑んだ。
いつものセレスとは違うとヒューゴは感じたが、これまでセレスを見てこなかった彼には何が違うのかが分からなかった。
「じゃあ試験が終わったらまた見に来てくれるのか?」
様子を窺うようにヒューゴはセレスを見た。彼がこのようにセレスを注意深く見るのは初めてだった。
「試験が終わりましたらすぐに夏期休暇に入ります。帰る準備で忙しくなりますので、控えさせていただこうかと思っています」
変わってしまったセレスの態度に居心地の悪さを感じながら、ヒューゴは表情を曇らせて、彼自身が思い当たる理由を口にした。
「もしかしてニーナの事で怒っているのか?」
「……は?」
それはセレスにとって見当違いな事で、何を言っているのかと思ったセレスは言葉が出なかった。
怒るとか怒らないといった単純な問題ではないのだ。ニーナの事で気分を悪くしたから鍛錬の見学に行かないなんて、やるのならもっと早い段階でやっている。
きっかけはニーナだった。しかしこれまでのヒューゴとの関係を考えると、遅かれ早かれ起きていた問題だった。
辺境に行けば彼には大切なものがもっと増える。ヒューゴにとって大切なものの中にセレスは入っていない。そしてその事に耐えられるほどセレスは強くはなかった。
少し前ならばヒューゴの隣で頑張っていきたいと言えた言葉が言えなくなり、セレスは迷い始めていた。




