19話 失いかけているもの
数日後に試験を控えたその日、午後の授業が終わり、セレスは帰ろうと教室を出た。しかし玄関まで続く階段を降りたところで立ち止まってしまった。
ちょうど玄関先にはセレスを待っているかのように、ヒューゴが立っていたのだ。セレスに気付いたヒューゴが顔を上げて声を掛ける。
「久し振りだな、セレス」
「お久し振りです、ヒューゴ様」
セレスがヒューゴと友人たちの会話を聞いてから二週間くらいが過ぎていて、あれからセレスは放課後に騎士科の鍛錬場へは行かなかったし、ヒューゴとの交流の日もあったが、試験前である事を理由に断りの手紙を送っていた。
今日も久し振りにヒューゴの顔を見たが、以前まで感じていた気持ちがざわざわするような感覚はなくなっていて、思っていた以上に落ち着いている自分に、セレス自身が驚いていた。
(何の用事があっていらしたのかしら?)
ヒューゴがセレスのために貴族科の校舎まで来てくれたのは三度目だったが、過去にあった二度に良い思い出が無いセレスは、警戒心を持ちながらヒューゴに話し掛ける。
「本日は鍛錬に行かなくてよろしいのですか?」
「元々自主参加だし、今日はいいんだ」
寝ても覚めても鍛錬ばかりしているような彼にしては珍しい事だったが、セレス自身は、早く帰って帝国の学院で受ける進級試験へ向けての勉強がしたかったので、話を長引かせないために余計な事は口に出さなかった。
「少し、話がしたいんだが、いいかな?」
「……承知しました」
ヒューゴに連れて行かれたのは、一階にある貴族科の食堂で、厨房の方を見たら料理人たちが明日のために料理の仕込みをしていた。
この時間、食堂は飲み物程度だったら出してくれるが、それは騎士科の鍛錬を見学に行く時に持って行く差し入れ用の果実水なので、食堂は長居が出来そうな場ではなかった。
自分から声を掛けてきているのに、これはないだろう。放課後なのだから街へ行ってカフェでお茶をするという事だって出来るのに、準備中の学食のテーブルに座らされている事で、セレスは自分自身に対して情けなくなってきてしまった。
そして食べ物も飲み物もないのに食事の席に着くというのは、婚約者候補という形があっても中身が伴っていない自分たちのようだと思えて、セレスは笑いたくなってしまった。
「先日はフォレット様と一緒にあのような場に行ってしまい申し訳ございませんでした」
そう言ってセレスは頭を下げる。ヒューゴがわざわざセレスに会いに来る理由として思い浮かんだのが、アルウィンと一緒にカフェにいた事だけだった。
あの事に対して何か言いたい事があって来たのだろうと思い、こうするのが一番穏便に済ませられると思ったので頭を下げたのだった。
しかし言葉に出した途端、自分だけが謝るのはおかしいという思いに駆られてしまう。
あの時はヒューゴもニーナを連れていたし、お互いに同じ状況だった。
ここで謝ってしまえばいつもの関係に戻れるだろう。良くも悪くもヒューゴはあっさりした性格なので、この場で彼の気持ちが収まれば納得してくれるはずだ。
しかし〝いつもの関係〟とは、素っ気ないヒューゴと彼にまとわりつくニーナを見せられるのが、最近の〝いつもの関係〟だった。自分からわざわざあの場所に戻る必要はあるのかと、セレスは疑問に思ってしまった。
セレスはヒューゴの隣にニーナがいるのを見ているだけだった。身分が無いから文句のひとつも言えなかった。あんなに恋焦がれたヒューゴの隣だったが、今はそれほど欲しいとは思えなくなっていた。
「それはもういいんだ、俺もニーナを連れていたし。それよりも最近鍛錬の見学に来ないが、体調が悪いのか?」
セレスの体調を気にするなんて普段はしない事をしているせいなのか、ヒューゴの様子が落ち着かない。いつもなら視点の定まっているヒューゴの視線が揺らいでいる。セレスを見たと思ったら、テーブルを見て、今度は自分の手を見ている。
「いいえ、体調は問題ありませんわ。試験勉強に集中をしたかったので控えていました」
セレスの口調はこれまでとは違い、声に抑揚がなくあっさりしていた。
今はそっとしておいて欲しいのに、どうして彼の方からやってくるのか。これまで来て欲しい時には一度もきてくれる事はなかったのに。
「……そうか、学業で良い成績をとっても辺境ではあまり役には立たない。勉学はそこまで頑張らなくても良いと思う」
辺境という言葉にセレスの胸はチクリと痛む。
(この人と私とでは、考え方すらこんなにも違う……)
強くなる事を己の目標とし、鍛錬を第一に考えるヒューゴにとってはそれが正しいのだろう。しかしセレスは両親から学ぶ事の大切さを教えられてきた。だから両親はレーデンに留学をする条件として、帝国の学院に籍を置いて卒業する事を条件としたのだ。それにセレスが帝国で生きる事を選んだ時に、学院の卒業資格は必要となる。
全く違う常識の中で生きて来た者同士が、夫婦となって共に暮らすという事はとても難しい事なのだと、冷静になれたから気付く事が出来た。これまではセレスがヒューゴにばかり合わせてきたが、それはセレスの中にヒューゴへの気持ちがあったから出来ていた事だった。
「私は自分のために頑張っています」
真っ直ぐにヒューゴを見つめて、きっぱりと言い切るセレスにヒューゴは息を呑んだ。
いつものセレスとは違うとヒューゴは感じたが、これまでセレスを見てこなかった彼には何が違うのかが分からなかった。
「じゃあ試験が終わったらまた見に来てくれるのか?」
様子を窺うようにヒューゴはセレスを見た。彼がこのようにセレスを注意深く見るのは初めてだった。
「試験が終わりましたらすぐに夏期休暇に入ります。帰る準備で忙しくなりますので、控えさせていただこうかと思っています」
変わってしまったセレスの態度に居心地の悪さを感じながら、ヒューゴは表情を曇らせて、彼自身が思い当たる理由を口にした。
「もしかしてニーナの事で怒っているのか?」
「……は?」
それはセレスにとって見当違いな事で、何を言っているのかと思ったセレスは言葉が出なかった。
怒るとか怒らないといった単純な問題ではないのだ。ニーナの事で気分を悪くしたから鍛錬の見学に行かないなんて、やるのならもっと早い段階でやっている。
きっかけはニーナだった。しかしこれまでのヒューゴとの関係を考えると、遅かれ早かれ起きていた問題だった。
辺境に行けば彼には大切なものがもっと増える。ヒューゴにとって大切なものの中にセレスは入っていない。そしてその事に耐えられるほどセレスは強くはなかった。
少し前ならばヒューゴの隣で頑張っていきたいと言えた言葉が言えなくなり、セレスは迷い始めていた。
帝国へ帰って両親の顔を見たら、セレスの気持ちは元いた場所へ戻る方に固まっていくのだろう。何となくそんな気がしていた。
すぐにヒューゴと婚約を結んでくれなかった事で、あの頃は両親に対してさえ反発心を持っていたが、学院を卒業するまではヒューゴと婚約を結ばず、考える時間を作ってくれた両親のやり方は正しかった。
ヒューゴへの思いだけで突き進んでいた一年生の時は、ヒューゴに素っ気ない態度を取られても辺境での未来しか考えていなかった。ヒューゴと一緒にいられるのなら何もいらないと、あの頃は本気で思っていた。
でもニーナに自分の場所を奪われ、何もしてくれないヒューゴに失望し、恋愛感情が冷めかけている今は、ヒューゴを思う時間より、帝国の事が懐かしくて帰りたいと思う時間が増えてしまった。
特にアルウィンと話すようになってからは、彼と帝国語で話していると、両親や実家での事、それに小さかった時の事を思い出してしまうのだ。
セレスにとってアルウィンは、帝国に置いてきた自分の場所を思い出させる人だった。
両親の反対を押し切ってまでこの国に居続ける事は、自分を大切に育ててくれた両親を悲しませているのではないかと、今さらながら思い始めてしまった。
セレスには兄妹はいないから、セレスを失う事は両親にとって血を分けた子どもがいなくなってしまう事だった。
家と縁を切り、国を越えて辺境へ嫁げは、両親と会う事も叶わなくなるだろう。
大切な両親と初恋のヒューゴ、これまではヒューゴへの想いに殉じたいほどに強い気持ちを持っていたが、今は両親を捨ててまでヒューゴを選ぶ強い気持ちをセレスの中で持てなくなっていた。
この一年と少しでセレスは疲れ切ってしまい、ヒューゴだけを強く想い続ける事が難しくなっていたところで、ヒューゴの本心を知ってしまった。どんなに頑張っても彼は自分に恋をしてくれない。
何年も自分の中で育ててきた、捨てきれずに大切にしてきた初恋が甘かったのは最初のうちだけだった。その後は会えない苦しみと、僅かな思い出にすがりながらヒューゴへの気持ちを何年も守ってきた。そして今は毒のようなこの想いが、セレスに痛みを与えていたのだ。
(こうなるのなら、もっと早いうちに諦めてしまえば良かった)
ヒューゴへの想いを綺麗なうちに終わらせておけば、思い出はいつまでもセレスの心の中で美しく輝いていただろう。
それを執念深く持ち続けていたために、セレスの初恋は歪んでいき、最初に抱いていた形にはもう戻せなくなっていた。
目の前に座るヒューゴは相変わらずそわそわした様子だった。飲み物でもあれば少し違ったのだろうが、この場所を選んだのは彼だ。
「最近鍛錬をしていても張り合いがないんだ、ニーナはうるさいだけだし、他の連中からの評判も良くない。時々セレスが見に来てくれるほうが頑張れる事に気が付いたんだ」
ヒューゴは素直に自分の思いを語る。もしかしたらここでまた彼を支える方へ気持ちを変えれば彼も以前とは違った態度でセレスと接してくれるのかもしれない。
しかし、セレスはヒューゴが友人たちとしていた会話を聞いてしまった。
ヒューゴの「セレスは辺境に合わない」という言葉によって、自分では駄目なのだと、あの時セレスは完全にヒューゴを諦めてしまった。その時以来、何となくヒューゴを避けたい気持ちになっていた。今日もセレスの気持ちは凪いでいる。ヒューゴを目の前にしても、嬉しさも焦りも悲しみも以前のように感じなくなってしまった。
今だって、やっと彼が自分の事を少しは気に掛けてくれるようになったのだと、理解はしているのだが、感情が何も湧いてこない。今はただ、帝国での試験勉強に集中をさせてもらいたかった。
「ヒューゴ様でしたら私がいなくても大丈夫ですわ」
セレスは当たり障りの無い言葉を選んで笑みを浮かべる。ここでこれまでの不満を爆発させるほどの気持ちはもう無かった。
「そんな事はない、生徒会主催のパーティーのエスコートだって今からニーナに断りを入れるよ。だからまた俺を応援して欲しいんだ」
「一度決めた約束をお断りになるなんてよして下さい。ニーナ様は侯爵家のご令嬢なのです。相手の家に泥を塗るわけにはいけませんわ。お二人で衣装を揃える準備までしておいて、ここで断ったら家同士の問題になりかねません。エスコートの約束をした事が間違いであるとおっしゃるのでしたら、それは約束をする前に気付くべき事です。私はひとりでも大丈夫です」
「……ごめん」
「……」
謝罪を受け入れるつもりがセレスにはない。
ヒューゴがニーナの甘えを受け入れる事でセレスの場所を奪ってしまったのだから。その結果セレスの気持ちがヒューゴから離れてしまうのは当然の結果だった。
失いかけている事でヒューゴは、セレスがこれまで自分に向けてくれていた温かさや優しさといった気持ちに支えられていた事、そして彼女が自分の中で大切な存在であるという事にやっと気付き始めていたが、まだはっきりとは自覚はしていなかった。
もしもこの日、ヒューゴがその事に気付けて行動を起こせていたのなら、違った未来があったかもしれないが、彼はまだ気付けていなかった。
「……」
「……」
二人の間にある沈黙は重かった。今まではヒューゴが黙るとセレスの方から何か会話をしていた。しかし、今日のセレスはかつての彼のように、ヒューゴとの時間を早く終わらせたいと思っていた。
ヒューゴは友人たちにセレスは堅苦しいところがあると言っていたが、きっとこういう家同士の事を話に出すようなところを言っていたのだろう、そう思いながらセレスは立ち上がる。
「あまり長くなると遅くなるので帰りますね。ヒューゴ様も鍛錬を頑張って下さい」
軽く頭を下げてからセレスはヒューゴに背を向けて歩き出す。ヒューゴに対して心を閉ざし始めたセレスはもう、悲しいとも寂しいとも感じる事はなかった。
「セレスっ、少し先の話だけれど、秋にある剣術大会には応援にきてくれるよな? 絶対に見に来いよ!」
ヒューゴの声は大きいので耳に入っていたが、セレスは振り返らなかった。セレスの中でヒューゴへの気持ちが完全になくなったわけではないし、辛かった頃の痛みだってまだ残っている。冷静になってきたというのに、今振り返ってしまうと元に戻ってしまうような気がしてセレスは振り向けなかった。
数年前に見たヒューゴのあどけない笑顔を思い返しそうになるのを頭の中で打ち消しながら、セレスは校門に待たせてある馬車へ急いだ。
セレスの気持ちはこれまで何年もレーデンの方へ傾いていたが、今は帝国の方へ大きく傾いていた。
何年間も自分が抱いていた、この強い気持ちの手放し方がセレスにはまだ分からなかったし、ヒューゴに対しても情が全て無くなったというわけでもない。もう少し時間をかけて気持ちの整理をしたかった。




