15話 伝わらない気持ち①
翌日のアルウィンは何事も無かったかのように、いつも通り自分の席に座り、いつも通り本を読んでいた。
セレスもいつもなら教室でアルウィンに話しかけるような事はしないのだが、今朝はいつもとは違い、自分からアルウィンに声を掛けるという事をしてみた。
「おはようございます、フォレット様」
「ああ、ミュラー嬢おはよう」
「昨日の事なのですが……」
「え、何の事かな?」
アルウィンは彼がよく見せる、隙の無い完璧な笑顔を浮かべる。
「昨日のまどう……」
「ああ、ミュラー嬢、そういえば今日はレーデン語の単語テストがあったね。今朝の俺はその事で頭がいっぱいなんだ」
セレスの話を遮るように、早口に言葉を挟んだアルウィンは笑みを深める。この人はこんな人だったろうかと思いながらセレスは小さくため息を吐いた。
「……わかりました、あの事はもう話題に出しません。単語テスト、頑張ってください」
「ありがとう、良い点数が取れるように祈っていてくれ」
にっこりと微笑んだアルウィンは、手元に置いて開いていた本の頁に目を落とす。彼が瞳を伏せ気味にすると、緑色の瞳を縁取る長い睫毛が朝の光に反射して黄金色に見える。本の表紙には「麦と土壌改良について」と帝国語で書かれてあり、レーデン語の単語テストとはまったく関係の無い本を彼は読んでいた。
◆◆◆
昼休みになり、軽めのサンドイッチを買うために食堂へ行こうとしたセレスが教室を出ると、廊下を少し歩いたところでヒューゴとばったり行き会ってしまった。どうしてここに彼がいるのか不思議に思ったところで、ヒューゴの口からその理由を聞かされる。
「良かった、セレスを探しに行こうと思っていたんだ」
彼の手には三つのサンドイッチの袋があり、食堂でテイクアウトが出来るものだった。その数に嫌な予感がしたセレスは、ヒューゴが次の言葉を話すより先に話し出した。
「この後ニーナ様をお探しになられるのでしたら、私はご遠慮いたしますわ」
「これは俺の分だから」
ヒューゴは持っていた袋のうちふたつを右手でつまみ、残りのひとつを押しつけるようにセレスへ渡す。
「えっ、違いましたの?」
「今日は二人で食おうぜ」
重さのあるサンドイッチの袋を両手で受け取りながら、セレスは不思議そうな表情を浮かべる。どういう心境の変化なのか、今日のヒューゴは友人でもなくニーナでもなく、セレスと昼食を食べてくれるらしい。
「ニーナに見つからないうちに早く行くぞ」
ヒューゴが玄関へ続く階段の方へ歩き出したので、一歩後ろを歩くセレスも後に続く。貴族科の校舎を出た後にヒューゴがセレスを連れて行ってくれたのは騎士科の校舎前で、いつも使っている鍛錬場の休憩スペースだった。
「ここで食おう」
言いながらヒューゴが先にベンチへ座るので、セレスもひとり分のスペースを空けて隣に座る。先ほど手渡されたサンドイッチの袋を開けると、チキンサンドがふたつも入っていた。食べ盛りのヒューゴらしい選択だったが、セレスには多い量だった。
「……ありがとうございます」
正式な婚約者ではない事を遠慮して、セレスはヒューゴと一歩引いた関係でいた。ヒューゴからもこれといった歩み寄りがないので、ふたりはこれまで贈り物のやり取りをした事がなかった。
お互いの誕生日についても話した事はなかったし、自分から何かを強請る事も憚れたので、セレスにとってこのサンドイッチは、婚約者候補となったヒューゴから初めてもらったものになる。今日はニーナよりも自分の事を考えてくれたのだと思ったセレスは嬉しくて、大切に食べようと頬を緩ませる。
「この間、貴族科の食堂で食べた時に美味かったんだ、それ」
何気ないヒューゴのひと言で、セレスの表情が固まる。
彼の言う〝この間〟とは歌劇のチケットの埋め合わせをするはずだった日の事だろう。あの時ニーナは、ヒューゴが好きそうなメニューを一緒に選ぼうと話していた。このサンドイッチは、あの日ニーナと一緒に選んで食べたものと同じなのだ。
セレスが去った後に、ヒューゴはニーナと一緒にこれを食べたのかと思うと、喜びの気持ちがどんどん小さくなっていく。裏庭でひとり涙を流した事までセレスは思い出してしまい、喜びも食欲も一気になくなってしまった。
「ヒューゴ様はニーナ様と仲がおよろしいのですね」
それでもセレスはサンドイッチを少しずつかじる。そして小さな声でそう話す。
今までヒューゴとニーナの関係について、セレスから話題に出した事はなかったが、ニーナがいない今のうちにヒューゴの考えを聞きたかった。
「あいつとは小さな頃からの付き合いだからな。ニーナもさ、縁談がうまく纏まらないらしくて最近ずっとイライラしているんだ」
「ニーナ様は侯爵家のご令嬢ですし、縁談でしたらいくらでもありそうですが、同世代で婚約者のいないご令息はいらっしゃいませんの?」
「あいつは帝国の高位貴族に嫁ぎたいようなんだ」
「まあ」
帝国の高位貴族は家同士の繋がりを重視するので、他の国と比べて婚約者選びの時期がとても早い。
公爵家や侯爵家の嫡男ともなると一歳になる前に話が持ち上がり、十歳を前に婚約を結ぶのはよくある事だった。少し爵位を落とした伯爵家でも嫡男であるのなら、学院の高等部へ入学する前までに婚約が結ばれている事は当たり前だった。
家の繋がりよりも子ども同士の相性を重視したいという考えなら、高位貴族でも正式な婚約を結ぶ時期が遅い場合もある。
しかし、そういったケースでも、早いうちに家同士で内々に話を進めていて、子ども同士の相性を見ながら、社交界デビューをする頃に婚約を結ぶのだ。なので、正式に婚約を結んでいなくても、相手は既に決まっている。つまり、帝国の高位貴族の嫡子は、学院に入学する年頃なら婚約者探しは既に終わっているのだ。
だからニーナの年齢で、帝国貴族の中から婚約相手を探すのなら、子爵家か男爵家の中から探すのが妥当なところだった。
レーデン王国では学院に入学してから婚約者を探し始める貴族家が多いらしく、レーデン王国の貴族と帝国とでは結婚相手を探し始める年齢が大きく違っている。
なので帝国貴族へ嫁ぎたいのなら、もっと早くに動かないと間に合わない。
そもそも帝国貴族にとって、レーデン王国は周辺にいくつもある小国のひとつに過ぎず、侯爵家であってもレーデン王国の貴族家では政略的な魅力を感じないだろう。
それでも帝国貴族に嫁ぎたければ、帝国の学院へ通い、学生時代に目立った活躍を見せるか、上位の成績を修めた上で自分自身をアピールするくらいしないと可能性はかなり低い。
「ニーナはきっとセレスが羨ましいのだと思う」
ヒューゴはぽつりとそう言った。




