13話 歌劇への誘い
帝国の学院からの課題をこなす合間に、セレスはやっとアルウィンへ贈るハンカチの刺繍を完成させる事ができた。
実家にいた頃は、作法やマナーといった淑女教育や一般教養の他に、レーデン語やレーデン王国の歴史といった事を学んでいたので、セレスは刺繍のような女性ならではの嗜みを学ぶ事が後回しになっていた。
なのでセレスの刺繍は、子供と変わらないレベルのままで、アルウィンのような貴族家の令息に渡せるようなものには遠く及んでいなかった。
何枚も試作を重ねた上で出来たのがアルウィンのイニシャルと二本の交差する剣の柄だった。
剣の図案はセレスが刺せる少ない図案のひとつだった。辺境伯家の令息であるヒューゴのために刺すかもしれないと、何度も練習をしていたのだが、彼とはお互いに贈り物をした事もなく、彼から何かをしてもらうような事もなかったので、ヒューゴのために刺繍を刺す機会はこれまでなかった。
セレスが自分で刺した刺繍を誰かに贈る事は、小さな頃に父親へハンカチをプレゼントした時以来の事だった。
その時は好きだった花のモチーフを刺したのだが、父はハンカチを使わず額に入れて飾り出したので、セレスは色々な人に見られるのは恥ずかしいから下げて欲しいと言ったが、聞き届けてもらえず、あの拙い刺繍は今でも父の執務室の壁に飾られている。
「フォレット様、……その、こちらを」
相変わらず人がまばらな図書室で、セレスはアルウィンに自分が刺繍したハンカチをそっと差し出した。
期待をしていなかったらしいアルウィンは、驚いた表情を一度見せた後にふわりと微笑んだ。しかし、刺繍の柄を見た瞬間にその微笑みは苦笑いへ変わる。
「ありがとう、まさか本当に刺繍を刺してくれるとは思わなかったよ。辺境の彼へ贈る為に練習をしたのだろうけれど、俺の生家の紋章には交差した剣が入っているから、それでこの柄を刺してくれたと思う事にするよ。剣を得意とする家門は辺境伯家だけではないからね」
「その柄を練習していた理由は否めませんが、誰かのために刺繍を刺したのは小さな頃に父へハンカチを贈って以来で、私にとって刺繍したものを誰かに差し上げるのはこれが二度目ですのよ」
ツンとしながら言い返したセレスの言葉に、アルウィンの表情が真剣なものへと変わる。
「……キミのお父上以来とは貴重なものを頂いたな。先ほどの言葉は撤回するし、このハンカチは大切にさせてもらうよ。辺境伯家の彼には贈らないの?」
そう言いながら、アルウィンはセレスから渡されたハンカチを大切そうに上着のポケットの中へ仕舞う。
「今のところそのような予定はございませんわ。辺境では刺繍や淑女のマナーよりも強さの方が好まれるようですから」
「強さとは腕力の事? だとしたらミュラー嬢のような令嬢とは対極だね。レーデンは小国だから辺境伯領もそれほど広くないが、この国の辺境伯家が治める領地は隣国との境目に沿うようにあるから、あそこは諍いが多いし魔獣もよく出る。辺境という土地を守るには領民も強さが必要なのだろう」
「でも、辺境にも女性はいますわ。私も頑張ればあの方たちのようになれますわ」
「その強さは、キミにとって本当に必要なものなの?」
「えっ……」
「帝国領土は広いから辺境領はいくつもある。どの辺境領も大きな砦を持っていて、砦の中では女性も当たり前のように力仕事をこなしていたよ。国境付近で小競り合いが起きた時は、土地を守る為に男たちは戦わないといけない時があるし、魔物の討伐のために家を空ける事もある。男たちがいなくなると砦を守るのは女性たちの役目になるんだ。今の帝国はどの国とも戦争をしていないから平和だし、帝都からも辺境へは多くの兵を置いてはいるが、万が一のような事が無いとも限らないから普段から覚悟と準備は必要なんだ。彼女たちは日々、彼女たちの役目を果たしている。その役目をキミも負うと言うのかい?」
セレスには無理だと、そう言われているようにセレスには聞こえた。同時に、本から知識を得たのか、人から聞いたのか、まるで見てきたかのようなアルウィンの口ぶりに、セレスは大きなため息を吐いた。
「やっぱりフォレット様も、私が辺境へ嫁ぐのは否定されますのね」
「否定というよりも、ミュラー嬢が辺境の地で自分の居場所を作るのは大変だと思っているだけだよ。人は持って生まれたものは変えられない。合わない土地へ行っても余計な軋轢を生むだけだよ」
アルウィンの言葉は、辺境ではなくこの学院でのセレスの事を指しているようだった。
「でも、でもっ……この国へ来るまではもっと上手くやれると思っていましたのよ。私はこの国に悪いイメージを持っていませんでしたから」
小さくそう言うと、セレスは下を向く。不安になった自分の心の内を誰かに話すのは初めてだった。弱い自分なんて本当は見せたくなかったけれど、ひとりきりでいる今は誰かに聞いてもらいたかった。
「短い期間だけ滞在をするのと、実際に暮らすのとでは違う。それは辺境に限らず帝都だって同じだよ。領地暮らしの長い令嬢が、帝都の華やかさに憧れてやってきても簡単には受け入れてもらえない。帝都の社交界には帝都でのルールがある。そういった令嬢が帝都のご婦人方に陰湿にいびられて帝都が嫌になるのは珍しい事ではないから。……俺もこんな事を言いたかった訳ではないのだけれど、もうこの話は終わりにしよう」
アルウィンは読んでいた本をぱたんと閉じる。魔道具のアイデアが書かれた帳面はあの日以来、学院に持ってきていなかった。
「そういえばこの国の王都で、フィネス劇団が公演を行っているのをミュラー嬢は知っているかな?」
フィネス劇団とは、少し前にニーナにチケットを取られてしまったあの歌劇を上演している劇団だった。
「ええ、存じてはいます」
「今レーデンで公演している歌劇は、昨年帝都でも公演していた演目で、帝都では令嬢を中心に結構な人気だったんだ。俺はその劇をまだ見ていないのだけれど、帝都で歌劇の公演が終わった頃に、夜会であの歌劇を作られたクロイツ侯爵夫人にお会いしたんだ。父の代理として母のエスコートを頼まれて参加した夜会だったのだけれど、夫人はあの歌劇をかなりお気に召していらっしゃって、感想を聞かれたんだ。でも俺は観ていなかったからその時は何も答えられなくてね。留学をする直前に、レーデンでも公演する事になったからと、侯爵夫人がわざわざチケットを下さったんだ。しかもそのチケットが公演最終日のボックス席なんだ」
「まあ、すごい!」
セレスは図書室であるにもかかわらず、思わず立ち上がってしまった。ガタリと椅子が音を立てたが、今日の図書室は司書の教師がカウンターにいる以外は人がいなかったので、迷惑にならずに済んだ。
セレスが暮らしていた田舎にも小さいながらも劇場があり、帝都と同じ公演を見る事ができた。あまり外へ出ないセレスではあったが舞台観賞だけは別で、その劇場へは母親によく連れられて行ったのだった。
そして気に入った舞台は、何度も観に行くのだった。セレスは舞台初日の初々しい雰囲気も好きだが、最終日の公演が一番好きだった。最終日は役者たちの演技も完成されているし、カーテンコールの盛り上がりがすごいのだ。
観劇はセレスの数少ない趣味だったが、レーデンに来てからは一度も観劇が出来ないでいた。
「ミュラー嬢はもう観劇済みだと思うのだけれど、良かったら一緒に観に行かないか? チケットはいただいたものだけれど、……これで刺繍のお礼になるかなと思って」
セレスを観劇に誘うアルウィンは、遠慮がちにそっとセレスの表情を窺う。そしてセレスの顔を見てホッとした表情を浮かべる。セレスの口から返事を聞いていなかったが、その顔には行きたいと書いてあるかのように、セレスは瞳を輝かせていたのだった。
セレスの頭の中は一年以上振りに観れるかもしれない歌劇の事でいっぱいだった。
ニーナに取られなければ、セレスが持っていたチケットで公演が始まったばかりの頃と、アルウィンのチケットで最終日の公演を見比べる楽しみもあった。今回はそれが出来ないのは残念な事だった。過ぎてしまった事は仕方が無いが、観れないと諦めていた歌劇を観賞できる機会はとてもありがたかった。
「ありがとうございます。実はチケットは持っていたのですが、事情があって観に行けませんでしたの。昨年のフィネスは秋公演でしたから夏期休暇で帰った時にはまだ上演していなくて、一年遅れでもレーデンでの公演を楽しみにしていましたのよ。内容は私も存じていませんが、ご一緒に観せていただけるのでしたら嬉しいです。……あ、でもよろしいのかしら?」
セレスの頭の中で、ヒューゴの顔が一瞬だけ思い出される。まだ婚約関係ではないが、彼の許可を取った方がいいのだろうか?
ヒューゴにはチケットをニーナに譲らされ、彼本人はニーナと二人で歌劇を観に行っている。
しかし、そんな彼でもアルウィンと出掛ける事を許してくれるとは思えなかった。それにヒューゴに話してしまうと、ヒューゴからニーナへ話が伝わり、ニーナがアルウィンのチケットを狙ってくるかもしれない。セレスの抱える問題にアルウィンを巻き込むわけにはいかなかった。
「遠慮をする事はないよ、友人同士でも観劇へは行くだろう? キミさえよければ、俺からのお願いだと思って一緒に行ってもらいたいんだ。侯爵夫人に劇の感想をお話しないといけないし、令嬢に人気の歌劇を観るのにボックス席に男ひとりで行くのは少し恥ずかしいんだ」
アルウィンは苦笑いを浮かべる。
大丈夫だと話すアルウィンの言葉に、セレスは彼と一緒に観劇をする事に決めたのだった。
「……そこまでおっしゃるのでしたら」
この時のセレスは、観劇の後にニーナを連れたヒューゴと鉢合わせしてしまうなんて思ってはいなかった。




