はじまりの名前
────はじまりは、どこからだったのか。
「────えっ、アマティア・ロザデヴォティア? 兄さんがつけたの?」
真っ暗な世界で、驚いたような女の子の声が聞こえた。
私の左足にカリ、っと何かを削るような音が小さく響く。
「そうだよ」
そっけなく答える、青年と少年の間のような声。
「…………長すぎない?」
女の子は小さく言葉を零した。
左足に触れている手が止まる。
「長くない。ちゃんと意味もこもってるし」
「意味?」
「ああ。まず“愛するもの”」
「えっ、まず?」
はっと息を呑むような音がする。
足元で、ふ、っと小さく笑ったような気配がした。
「ああ。あとは、薔薇に溜まった朝露を見た時に、これほど美しいものはないと思った。だから“薔薇の涙”。それから──」
「それから……!?」
「もちろん。当然だろう。最後は“祝福の契約”。僕と君の間にできたものが、決して失われないように」
「重……っ!!」
女の子が後ろにでも下がったのか、床が小さく軋んだ。
しん、と急に静かになる。
「重いわけないだろう。愛してやまないものに、愛を惜しんでどうするんだ?」
心外だというように、少しだけ声が低くなる。
「いや、うん、そうなんだけど。言葉としては正しいけど、なんか違う」
「そんなわけあるか」
左足に触れていた手が離れて、ことりと道具を置くような音がする。
両脇の下に大きな手が入れられて、ふわりと体が浮いた。
空を飛んでいるのではないかと錯覚しそうになった時、瞼がゆっくりと開いた。
目の前に、今にもとけてしまいそうな“彼”の笑顔が、いっぱいに広がる。
艶やかに光る黒い瞳に目を奪われた。
同じく黒い髪がさらりと流れ、鼻筋が通る凛とした顔立ちの少年が、私を高く持ち上げて見上げている。
じっと見ていると、生き生きしている目は、さらにはにかむように細められた。
それがとても嬉しそうに見えて、胸にぽかりと、何かが生まれた気がした。
「────本当に綺麗ね。クラヴィス兄さん」
ほぅ、と少女は息をつく。
「そうだろう? やっとわかったか。マリアめ」
「いや、綺麗なのも、特別なのも、最初から知ってるんだけど……」
そうじゃないと首を振るマリア。
白いフリルのついたブラウスの上を、クラヴィスより少し明るい真っ直ぐな黒髪が動きに合わせて揺れた。
下はシンプルな紺色のスカートを身につけている。
クラヴィスに似た綺麗な顔つきをしているが、ふんわりした柔らかい頬が彼女がまだ少女だということを主張していた。
マリアにふんと鼻息で返事をして、クラヴィスは首を傾げながら頬を緩める。
「なぁ? ──“ティア”。君もそう思うだろう?」
「ティアって呼ぶなら、最初からそう名付ければいいのに」
マリアの言葉を無視しながら、クラヴィスは自分の左腕に座らせるように私を抱いた。
クラヴィスの白いシャツに体を預ける。
クラヴィスも、マリアと雰囲気が似た紺色のズボンを身につけている。
クラヴィスは右手で私の手を取って、愛おしげに頬を寄せる。
────包まれた手のひらは、あたたかかった。
「僕だけの名前だよ」
私にしか聞き取れない小さな声で、クラヴィスはそう呟いた。
私達だけの特別な秘密。
それは心にほわっと光が灯るような、日だまりみたいな感触がした。
────毎日、毎夜、クラヴィスはずっと人形について学んでいた。
新しいものを得るたび、心を震わせるものを知るたび、クラヴィスはいつも笑顔で、私に教えてくれた。
ずっとそばにいた。
ずっと見ていた。
クラヴィスの努力も、優しいところも、弱いところも。
それでもいつも、クラヴィスが笑っている事が、私は何よりも嬉しかった。
クラヴィスは読んでいた本をぱたんと閉じて、机に置いた。
黒い夜着を着て座ったまま伸びをしながら、椅子を軋ませる。
「そろそろ寝ないといけないのに、やめられないな。なぁ、ティア?」
クラヴィスは疲れた顔で私をのぞき込みながら笑った。
じっと、クラヴィスを見つめ返す。
────そうだねって返せたら、なんて言うんだろうか。
どんなふうに、笑ってくれるんだろうか。
クラヴィスはしばらく私の頭を撫でた後、今度は新しく作り始めた人形の部品をいじり出した。
静かにクラヴィスの様子を見つめる。
普段、表情豊かなクラヴィスが、今は張り詰めた空気を纏っている。
真剣な瞳に、引き締められた口元。
男性にしては白くて長い指が、部品を手の中で手品のようにくるくると動かしている。
部品が触れ合う音が、静かな夜に響いていた。
ノックの音が響く。
「────ん、誰だ?」
手を止めて立ち上がり、クラヴィスは部屋のドアへと向かう。
「────マリア? どうしたんだ?」
ドアを開けたクラヴィスの驚いた声が響く。
クラヴィスの背中の向こうに、桃色の夜着を着たマリアが見えた。
落ち着かないのか、目をきょろきょろとさまよわせている。
クラヴィスもそれを察したようで、何も言わないままマリアを部屋に入れた。
クラヴィスこだわりの革のソファにマリアを座らせて、ふわふわの深緑のクッションを渡す。
マリアはクッションを受け取ると、自分を埋め込むようにクッションを抱きしめた。
クラヴィスはさっきまで自分が座っていた椅子の背に寄りかかって、静かにマリアを見ている。
しばらく、そのまま時が流れた。
「──────ふむ」
クラヴィスは頷くと、静かに部屋を出ていった。
マリアは変わらず、同じようにクッションを抱きしめて目を伏せている。
少しして、二人分の飲み物を持ってクラヴィスが帰ってきた。
「ほい」
ことりと、マリアの前に可愛いクマのマグカップが置かれる。
茶色のクマの頭から、ほこほこと湯気が出ている。
マリアはクマとクラヴィスに視線を往復させて口を開くが、しばらくしてそのまま力なく閉じた。
頼りなく目を泳がせて、逃げるようにマリアはクッションに顔を埋める。
クラヴィスはふっと小さく笑ってマリアの頭を軽く撫でると、自分のベッドにある毛布をマリアの頭からかけた。
「ゆっくりしときな」
クラヴィスはそう言うと、さっきと同じように椅子に座り、部品をいじり出した。
マリアを急かす事なく、クラヴィスは好きなように部品を組み合わせて遊んでいる。
ほのかに口元が緩んで、時々かざしてはまるで眩しいものを見るように目を細めている。
かちゃかちゃと、部品の触れ合う音がクラヴィスの心を表すように響く。
マリアは、そんなクラヴィスの背中をぼうっと見つめていた。
何度も何度も似たような組み合わせを試しているクラヴィスを見ながら、何かを噛み締めるようにうとうとと目を閉じる。
時間が経つにつれ、クッションと毛布に包まれて、マリアはソファーに沈むように眠ってしまった。
(……疲れていたのかな? 眠れなかった?)
それにしては、少し様子がおかしかった。
どちらかなら、マリアは素直にそう答えていそうな気がする。
マリアは毛布に頬擦りするように埋もれて、静かに寝息を立てている。
ちらりと、クラヴィスの様子を伺った。
クラヴィスは後ろでマリアが寝ているのに、真剣勝負、命のやり取りとばかりに眉間に皺を寄せ、部品と睨めっこしている。
そんなクラヴィスを見ていると、なんとなく力が抜けた。
もしかしたらマリアも、こんなふうに力が抜けたのかもしれない。
(…………元気になってね)
クラヴィスと、主にマリアを見守るように、静かにこの空気に溶け込む。
しばらくして、満足したのかクラヴィスは部品を触るのをやめて体を伸ばした。
「────ああ、最高だった……」
クラヴィスは余韻に浸るように椅子にだらりと腕を乗せて、後ろを振り返る。
寝てしまったマリアを見て、クラヴィスは目元を優しく和ませた。
そのまま立ち上がり、起こさないようそっとマリアを自分のベッドまで運ぶ。
クラヴィスこだわりの深緑のベッドに、マリアは埋もれるように寝かされる。
「……おやすみ」
クラヴィスはそう囁くと、マリアの顔にかかっている髪を優しく避ける。
そしてさっきまでマリアのいたソファーにどさりと沈み込んだ。
そのまま眠りに落ち夜が深まるのかと思ったら、ふとクラヴィスの手が上がった。
ひらひらと、私に向かって振っている。
「────おやすみ、ティア」
一瞬、何が起こったのか分からなかった。
クラヴィスが何をしたのか、何を言ったのか上手く理解ができなかった。
音すら聞こえなくなって、ただゆっくりと流れていく世界を茫然と見ている事しかできなかった。
やっと休める悦びにふにゃりと緩むクラヴィスが目に入って、胸が震える。
私に口があったら。
人のように声が出せたら。
言葉を、話せたなら。
胸がぎゅっと、締め付けられる。
ぱたりと力尽きるクラヴィスの手が、ソファーに沈んだ。
その手を取って、起こさないようにそっと置きたいと、そんな考えが過ぎる。
静かな部屋に寝息が響く。
二人の寝息が、なぜかとても耳に通る。
────ねぇ、クラヴィス。
その手を取って、握り返したら。
おやすみって言ったら。
あなたは、喜んでくれる?
「────えっ!? ここどこ!?」
朝になって、マリアの小さな悲鳴が走った。
マリアは寝癖でぼさぼさの頭を抱えながら、きょろきょろと辺りを見まわした。
「起きたか」
優雅に窓辺に立ち、クラヴィスはマリアを半身振り返った。
クラヴィスは白シャツと黒いベスト、黒のズボンの上に、チェック柄のくすんだ深緑の外套を羽織っていた。
外套の肩から流れるケープが、クラヴィスの動きに合わせてゆったりと揺れる。
同じく深緑の帽子のツバを持ち深く被りながら、ニヤリと口元を歪めている。
窓から差し込む朝日が、背後からきらきらとクラヴィスを輝かせていた。
「…………何してるの、兄さん」
ぽかーんと口を開けてクラヴィスを見ていたマリアは冷静さを取り戻し、静かにクラヴィスに質問した。
クラヴィスはにっと笑う。
「出かけるぞ。マリア、用意してこい」
「え?」
「早く。僕はモーニングが食べたいんだ」
「えぇ!? 学校は!?」
追い立てられるように、マリアは部屋の入り口に向かう。
寝起きのせいか、よたよたと足元がふらついている。
クラヴィスは、ぴんっと帽子のツバをはねた。
「そんなもの、数日行かなくても問題ない。ちなみに父さんも母さんも、もう出かけているぞ」
「えぇ!?」
「ほら、早く」
「わ、わかった……」
マリアは頷くと、部屋を出て行った。
両手を腰に当ててクラヴィスはマリアを見送ると、くるりと私を振り向いた。
「ティアも行くぞ」
黒い瞳は楽しそうに細められ、唇は弧を描いている。
悪戯を思いついた、とても悪い笑顔だった。




