あるかもしれないもの
昨日エステヴァンから受け取ったダフネは二つに分けて、自分の部屋と店のカウンターに飾った。
「おはよう、ダフネちゃん」
カウンターに置いてあるダフネを花瓶ごと持ち上げて、レティの笑顔を思い出しながら水を入れ替えた。
そのあとはいつものように掃除に向かう。
道具を持って外に出て、いつもより静かに響く音楽に耳を傾けながら小さく伸びをする。
空を見上げると、今にも降りそうな雨雲が広がっていた。
「ティアお姉ちゃん、おはよー!」
声が聞こえた方に顔を向けると、制服姿のエミルが朝から軽快に歩いてくるのが見えた。
「おはよう、エミル。なんだか雨が降りそうだから気をつけてね」
「もちろん」
エミルは黒い鞄と一緒に手に持っていた、紺色の傘を自慢げに掲げる。
「さすがエミル。抜かりない」
「ふふーん」
小さく拍手をしながらそう言うと、琥珀色の瞳を嬉しそうに細めてエミルが胸を張った。
エミルが可愛くて、思わず笑ってしまう。
エミルもつられるように肩の力を抜いて、ほどけるように笑った。
少しだけ雨の気配の混じる風が通り過ぎる。
「ティアさん、おはよう」
風と向き合うように、かけられた声の方を見る。
そこには白い百合を持った右手を上げて、こちらに向かって歩いてきているエステヴァンがいた。
これから仕事に向かうのか、エステヴァンは深い焦茶色のスーツを着て、左手には小さめの革鞄を持っている。
「えっ?」
目が合うと、エステヴァンが目を細めて爽やかに笑う。
「えっ……と? はい……こちらこそありがとうございました。おはようございます」
ぺこりと頭を下げる。
エステヴァンがいる事に驚いて、一瞬思考が止まってしまった。
とりあえずきちんと挨拶を返せて、ほっとする。
エステヴァンは小さく笑って、手に持った百合を革鞄を持っている脇に抱えた。
開いた右手で上着のポケットから可愛らしく包装された焼き菓子を取り出して、私に差し出した。
「昨日のお礼。よかったらあとで食べて」
「えっ? いいんですか?」
「もちろん。家の近所にある、焼き菓子が人気のお店だよ。味は保証する」
おいしそうなフィナンシェが透明な袋からのぞいている。
袋は白い線で葉の模様が描かれ、ピンクのリボンで結ばれている。
受け取った焼き菓子を顔の高さまで持ち上げると、ほんのり甘くて香ばしい香りがした。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
エステヴァンは目元を柔らかく緩めた。
「……父もみんなも、誰も、僕がいらないなんて一言も言ってなかった」
囁くようにエステヴァンの言葉が零れる。
はっと、顔を上げる。
「だから自分がそう思い込んでいるだけで、思っているより、世界は優しいのかもしれないって思ったんだ」
その言葉が、胸の奥に引っかかった。
(────世界が、優しい? 自分がそう思い込んでるから…………苦しい?)
息が止まる。
暴れそうになる心臓を押さえつけるように、胸の前で手を握り締める。
エステヴァンは朗らかに笑った。
「ありがとう」
エステヴァンから視線を落として、何かを振り払うように何度か瞬きをする。
深く息を吸って、ふるふると首を振る。
「……私は何もしてないですけど、エステヴァンさんがそうやって笑える事は、よかったと思います」
顔を上げて、小さく笑った。
そんな事を言われると思ってなかったのか、エステヴァンは少し驚いた顔をする。
そして照れくさそうに笑う。
「ありがとう。……じゃあ、また」
「はい、気をつけて。お菓子ありがとうございます」
「こちらこそありがとう」
そう言って、エステヴァンは噴水公園に向かって歩いて行った。
昨日よりその背中は、軽く見えた。
エステヴァンの事はよかったと思う。
でも胸の奥に何かが詰まったような、そんな気がした。
小さく息を吐きながら振り返ると、微笑ましそうなユイリと、不機嫌そうな顔でエステヴァンを見ているエミルがいてはっとする。
「ティアさんは優しいものね」
頬に手を当ててにこにことユイリは言い、エミルは無言で唇を尖らせている。
どこかまとわりつくもやもやしたものを振り払うように、首を振って切り替える。
「話の途中にごめんね、エミル。ユイリさんも、おはようございます」
そう言って、少し強引に笑顔を貼り付けた。
二人と別れ、掃除を終えてしばらくすると雨が降り出した。
ぱらぱらと小雨が降ったかと思ったら、あっという間に滝のように降り注いでいる。
今までずっと天気がよかったのが嘘のように、通りは暗く、薄っすらと雨水に沈み始めている。
人通りはほとんどない。
(今日はお客さん来なそう……)
ガラス越しに空を見上げると真っ黒な雲がずっと続き、しばらくこの雨は止みそうになかった。
一瞬空に光が走り、ゴロゴロと、遠くで雷が鳴る音が聞こえる。
雨音が店内に流れる音楽をかき消してしまう。
「ティア」
振り返ると、ジョイが作業場への入り口から顔をのぞかせていた。
「今日は多分誰も来ないから、適当にくつろいでていいよ。それかもう、休みにするのもあり。突然でごめんだけど」
「大丈夫だよ。こんな天気は予想できないもんね」
ジョイに笑いかけて、もう一度外を眺める。
雨がひどすぎて、目の前以外、先が見えなくなっていた。
「椅子に座って、待機してようかな?」
やりたい事も、特にない。
もしかしたら雨も止むかもしれないし、ただぼーっとして過ごすならジョイの役に立てた方が嬉しい。
「わかった。もし気が変わったら、また教えて」
「変わらない」
ぶんぶんと首を横に振ると、ジョイは笑った。
ジョイは作業場に引っ込むと椅子を持ってきて、カウンター脇に置いてくれる。
「うん、ありがと。じゃあ俺は作業してるから」
「うん、がんばってね」
「ありがと」
そう言ってジョイは作業に戻る。
ジョイの出してくれた椅子に腰掛けると、かさりとスカートのポケットから音がした。
(なんだろう?)
ポケットを探り取り出すと、エステヴァンに貰った焼き菓子があった。
(そうだった。お菓子貰ったんだった)
今日のおやつにしよう。
食べるのを忘れないように、お客さんからは見えない所にそっと置く。
置きながら、エステヴァンの言葉が脳裏に過ぎった。
(自分がそう思い込んでるだけで、世界は優しい。やっぱりそれは、自分が思い込んでいるから────苦しいって事……だよね?)
お菓子から離す手が、麻痺したように力が抜けて震える。
どくんと、心臓が跳ねた。
怖いと言ってる。考えたくないと言ってる。
それは、私をとても傷つけたって。
(────でも)
エステヴァンの言葉を聞いて、思い込んでるのは私もかもしれないって、そう思ってしまった。
私があの過去から受け取ったものが、全部ではなかったのかもしれないって、思ってしまった。
ゆっくりと、背後の壁を振り返る。
この壁の向こうにチャリオットがいる。
ふるりと、体が、喉が震えた。
暴れる心臓の音が、頭の中に響き渡る。
壁に穴が開きそうなほど睨みつけている目が乾いて痛い。
ぎゅぅっと目を閉じる。
──────怖い。
でも。
ガタリと音を立てて、椅子から立ち上がる。
力が入らない足を引きずるように動かして、作業場へ向かう。
数歩しかないこの距離が、とても遠かった。
入り口の柱を支えにしながら見る、作業台に向かっているジョイの背中が滲む。
荒れる呼吸を落ち着かせるように、意識して深く息をする。
「────ジョイ」
「ん?」
作業していたジョイが振り返る。
「ティア、どうした?」
話そうとして開きかけた唇が震える。
本当にそれでいいのか。
また、傷つくだけじゃないのか。
嫌だと、心が叫ぶ。
────それでも。
「私……過去を、見てこようと思う」
「えっ!?」
ジョイが音を立てて立ち上がる。
目を見開いているジョイの顔が、ぐにゃりと歪む。
目が熱い。胸が苦しい。
胸が痛くて今にも溢れそうなものを、必死で我慢する。
ジョイが私の顔をのぞきこんで眉尻を下げる。
「それは大丈夫なのか? そんな顔して……」
ジョイの言葉を振り切るように、ぶんぶんと首を振る。
目の前にいるジョイを押して、チャリオットのいる棚に進む。
「ティア……!?」
これ以上ジョイに優しい言葉をかけられたら、止まってしまう。
そうしたらきっと、立てなくなる。
「チャリオット」
「────はいよ」
チャリオットがいつも座っている棚の前の空気が揺らぐ。
まるでその場に透明になって隠れていたというように、人間化したチャリオットの姿が浮きだすように現れる。
チャリオットは、私をじっと見ていた。
真っ直ぐ向けられている瞳が、本当にそれでいいのかと聞いてくる。
「過去を見に行く」
「わかった。────手を」
チャリオットは頷いて、私を迎え入れるように開いた左手を差し出した。
応えるように右手を乗せる。
「ティア!?」
焦ったようにこちらに近づいてきたジョイに笑いかける。
ぽろぽろと、勝手に涙が零れる。
「ジョイ。……私、行ってくるね」
なるべく安心させるように出そうとした声は頼りなく震えた。
ジョイが眉間に皺を寄せて、私の左腕を掴む。
「そんな状態で!?」
「うん。────私、見たくなってしまった」
「なんで……っ!? そんなふうに、泣いてしまうのに……!?」
思い出して目を閉じてしまいそうになるのを、涙を溢れさせながら堪える。
歪んでいるジョイを、じっと見つめる。
ジョイは怒っているような泣きそうになっているような顔で、私を止めようと必死に言葉を探している。
ジョイに掴まれている左腕が、離さないというように熱い。
左腕を見て、笑みが溢れた。
心配してくれている。
もう傷つかないように、守ろうとしてくれている。
──────ありがとう。ジョイ。
もう一度ジョイの顔を見て、焦っているジョイに向かって微笑んだ。
「優しい世界が、あるかもしれないから。だから────行ってくる」
ジョイの顔がくしゃりと歪んだ。
ジョイの指が、迷いながらほどけていく。
かざされたチャリオットの右の手のひらに、左の手のひらを重ねる。
触れ合った瞬間、お互いの奥にあった揺らぎから波が生まれた。
チャリオットの胸から、水色の波が本物の水が脈打つように広がる。
私の胸の奥からは、白い光の粒子が幾重にも重なって光の波になり、ゆったりと広がっていく。
触れ合った手のひらの辺りで、お互いの波は接触する。
水色の波の中を光の粒子が舞い、お互いを押し退ける事なく重なった。
手のひらから、水色と光の波紋が外に広がっていく。
あっという間に、膜のような揺らぎが私達を包み込んだ。
呼ばれるように、目を閉じる。
あたたかくて、心地よくて。
自分が、とけてしまいそうだった。




