見つけたもの
「──────きみは、何者なんだ?」
小さく落とされた言葉が、とても重く響いた。
じっと探るように見つめてくるエステヴァンに、何か言おうと口を開く。
けれど唇は震えて、言うべき言葉は出てこない。
何を、どう言えばいいのか、わからなかった。
視線がおろおろと浮ついてしまう。
もう一度エステヴァンを見ると、それすら見透すかのように見ていて、どくんと心臓が跳ねる。
エステヴァンはしばらく私を見ていたが、やがてふっと視線を落とした。
「……父を補佐するように、仕事を選んできた。店がうまくまわるように、調整してきた。職人仲間の間も、家族の間も、取り持ってきた。仕事も家も、全部。────それが必要だと、そう思ったから」
エステヴァンはゆるゆると首を振る。
そして、今にも泣きそうな笑顔を浮かべて、自分の両手に目を落とす。
「なのに、自分には…………何もない」
エステヴァンは苦しそうに顔をしかめて、震える両手を握りしめた。
「何も……残ってない」
「そんな事、ありません」
ふるりと、喉が震えた。
エステヴァンは自分の両手に目を落としてぼんやりと眺めている。
「自分が消えてしまったら……困るのかなと思った。仕事が滞って、職人仲間も家族の間もぎこちなくなって。その時やっと……自分が必要だと思ってくれるのかなって」
「そんな事、絶対にないです。だって、ルドヴィクさんはエステヴァンさんに、ちゃんと、伝えたでしょう?」
喉が震えて声が頼りなく引きつってしまうのを、歯を食いしばって耐える。
エステヴァンを見つめ、抱きかかえている紙袋をぐしゃりと握りしめる。
そんな悲しい事なんてない。
絶対に、あるわけない。
何度だって言う。伝わるまで、何度だって言ってやる。
「ジョイと私はただのお客様枠。理由があったから呼ばれただけ。でもエステヴァンさんは違う。ルドヴィクさんの中で、エステヴァンさんだけは絶対に譲れない、特別な人です」
エステヴァンは揺れる目を細める。
震える息が零れた。
「──────そうかな……」
「そうです。レティだってそう。職人仲間の人達だってそうです」
レティの笑顔を思い出す。
職人達の気の置けない空気を思い出す。
ルドヴィクの満たされた笑顔が頭をよぎった。
────フォーチュンだって。
やっと大事な人のところに行けたのに。
やっと声を、心を、届ける事ができたのに。
目が熱くなるのを、ぎゅっと力を入れて堪える。
「それに、エステヴァンさんがいなくなったら、ルドヴィクさんとフォーチュンは二人の時間を投げ出して、エステヴァンさんを探しますよ」
「────それは」
はっとしたように、エステヴァンは顔を上げた。
目を見開いて私を凝視する。
「二人にとってエステヴァンさんはとても大事な人だから。一緒にいようと決めても、それが限られた時間で、今しかないとしても、絶対に、エステヴァンさんを探しに行きます」
フォーチュンがエステヴァンを放っておくなんてするわけがない。
大事な人の特別な人を、守らないはずがないんだから。
「それで二人の時間が終わったとしても、二人はきっと探します」
だからそんな悲しい事、思わないで欲しい。
エステヴァンは茫然と私を見たまま動かない。
何かを言おうとして開かれた口が、言葉が霧散してしまったのか止まっている。
風に転がる落ち葉の音が、耳に入った。
「──────そう、か……」
エステヴァンの掠れた声が聞こえた。
私の方を向いているけれど、どこかぼんやりと遠くを見て、心がここにないようだった。
その様子に少しだけ不安になる。
同時にフォーチュンの事も気になった。
フォーチュンを受け取る事は、私にとって友人と一緒に過ごすようなものだった。
けれどエステヴァンにとってこれだけ重いものなら、エステヴァンに渡した方がみんな幸せなんじゃないだろうか。
「……それから、懐中時計を受け取るのは、エステヴァンさんがいいと思います」
「────それは」
エステヴァンが遅れて口を開く。
私は頷いた。
「やっぱりそれが一番いいと思うんです。ルドヴィクさんが私にと言ってくれたけど、エステヴァンさんは特別だから」
エステヴァンは考えるように視線をさまよわせた。
じっと見ている私と目を合わせて、確認するようにのぞき込む。
「…………それで、いいのかい?」
「はい」
フォーチュンが幸せならそれでいい。
だから問題ない。
「…………そうか」
ぽつりと小さくそう呟くと、エステヴァンは最初に見つけた時のように両手を組んで前を見て、そのまま動かなくなった。
景色にぼんやりと視線を泳がせている。
水の音、風がさらさらと葉を揺らす音の中に、公園を行き交う人達の笑い声が優しく響く。
公園を過ごす人達が少しずつ増え、自然と入れ替わり、さっきとは違う賑わいが広がり始めていた。
その中を、包むように風が通り抜ける。
「────父の懐中時計を受け継ぐのが自分じゃなかった事が、苦しかった」
エステヴァンから、静かに言葉が零れる。
「どうして自分じゃないのかって、思った。自分は父にとって、なんだったんだろうって」
言葉を探すように、エステヴァンは視線をさまよわせる。
「息子ではある。だけど有能でないと、自分の存在に意味なんてないのかと思ったから」
ふ、っとエステヴァンは自嘲するように笑う。
「だから懐中時計を受け取れば、自分は認められているって……気持ちが満たされるはずだった」
「エステヴァンさん……」
エステヴァンは私の言葉を止めるように静かに首を振った。
私をじっと見つめて、小さく目元を和ませる。
「でも……懐中時計を自分が受け取る想像をした時、違うと思った。満たされるものが、自分の中になかった。────欲しいものは、これじゃなかった」
「……欲しいもの?」
エステヴァンは頷く。
そして自分の大きな両手に目を落として、苦笑いする。
「気づくのが、遅すぎた。思っていた以上に、自分は馬鹿だったらしい」
「そんな事ありません」
「うん……ありがとう」
エステヴァンは柔らかく微笑んで、また前を向いた。
行き交う人達がすれ違いながら挨拶を交わす。
交わすたびに広がっていく笑顔に、エステヴァンは眩しそうに目を細めた。
「好きだったんだ。笑顔が」
「笑顔?」
「そう。みんなの、笑顔が」
エステヴァンは首を傾げて、行き交う人達を微笑ましそうに眺めている。
「みんなに笑っていて欲しかった。だから、その時一番いいと思うものを選んできたんだ」
エステヴァンはふわりと、儚くとけてしまいそうな笑みを浮かべた。
葉の隙間から差し込んでいる光がエステヴァンをきらきらと照らす。
「きっと、それでいいんだと思う」
ざぁ、と風が吹いた。
エステヴァンの茶色の髪が風に揺れる。
気持ちよさそうに、髪より深い飴色の瞳を細める。
「ありがとう」
「いえ……私は何もしてないです」
そう言うと、エステヴァンは静かに笑みを深めた。
そして私の膝の上にある紙袋を見て、ひょいと私との間に置いていた紙包を持ち上げる。
「パンを食べるのを忘れてたね」
「……そうでした」
必死で握りつぶしていた紙袋を見下ろす。
握りつぶした形のまま固まる袋に、ほんのりと冷や汗が流れた。
多分、きっと、中身は無事、だと思いたい。
ああ、パンが。
涙目になりながら中身を探る。
「食べよっか」
くすくすとエステヴァンは笑った。
毒気が抜けたような笑顔に一瞬驚いて、頬が緩んだ。
────よかった。
エステヴァンに笑い返して、頷いた。
「はい、食べましょう」
食べたかったメロンパンを取り出す。
持った感じ、かじったらかりっとしそうな力強い感触がある。
ふっくらした厚みもあって、無事私の握りつぶしに耐えてくれたようだ。
「────いただきます」
紙包をあけると、ふわっと濃厚な香りが広がる。
パンの香りに心の中で歓声をあげながら、とろりとした艶を作る砂糖のところを一口食べた。
さくっとしたクッキー生地とこんがりした砂糖が甘味と深み、歯応えのある食感がアクセントになっている。
口に入れた瞬間、濃厚なバターと甘い香りが広がる。
顔が緩んで溶けてなくなってしまいそう。
にこにこしながらふと横を見ると、おもしろそうにこちらを見ているエステヴァンと目が合った。
「食べないんですか? おいしいですよ?」
そう言って、もぐもぐと幸せを噛み締める。
「うん、食べてるよ。ただメロンパン、すごくおいしいんだろうなって思ってた」
「はい、おいしいです!」
「だよね」
ははっ、とエステヴァンは声を出して笑った。
のけぞるようにエステヴァンが手をついた時、かさりと音がした。
「────あっ」
「ん?」
エステヴァンが慌てて自分の背後を確認しているのを眺めながら、もう一口ぱくりと口に頬張る。
エステヴァンが苦笑いしながら振り返った。
手には細長い紙包を持っている。
「忘れてた。これを持って行こうと、開店時間まで時間を潰してたんだ」
「え?」
エステヴァンが白い紙包みをゆっくりと解く。
「忘れてただろう?」
「────あっ!」
「夜に気がついてしまってね。届けるのが遅くなって申し訳ない」
紙が解かれると、桃色のダフネがふわりと揺れた。
エステヴァンは良い事を思いついたというように笑みを深めると、すっと立ち上がり私の前に回る。
片腕を背へ回し、もう片方の手で、花束を差し出した。
目の前に桃色のダフネが広がる。
どこか芝居がかった妙にかしこまった仕草で、エステヴァンは口元を楽しげに緩める。
「どうぞ」
慌ててパンを軽く包んで紙袋に戻し、差し出された花束を受け取る。
柔らかい甘い香りが私を包む。
桃色のダフネの中で咲いた陽だまりみたいなレティの笑顔が、胸いっぱいに広がった。
「ありがとうございます」
胸元に抱えた花束を見て、我慢できずについ口元が緩んでしまう。
見上げると、時が止まったように目を丸くしているエステヴァンがいた。
エステヴァンは桃色の花の向こうでじっと私を見ていた。
やがて口元を右手で軽く覆い、小さく何かを呟く。
よく聞こえなくて首を捻ると、エステヴァンは溢れるように微笑んだ。
「────ええ。こちらこそ、ありがとう」
エステヴァンは頷いて、また隣りに腰掛けた。
桃色のダフネの間からのぞくエステヴァンは、少年のように、無邪気に笑っていた。
嬉しそうに、しばらくそうやって私を見ていた。




