探しているもの
「ティアさん、おはよう! いらっしゃい!」
開店直後のクリス実家のパン屋に入ると、アメリアから元気な声がかかる。
屈託のない明るい声に、自然と頬が緩んだ。
「おはようございます、アメリアさん。おすすめのパン、買いに来ました!」
そう言って、幸せが香る空気を胸いっぱい吸い込む。
言葉にならない歓声を胸の中で響かせながら、店内を見回す。
今日も最高においしそうなパンしかない。
艶々と輝いているパンを見つめていると、アメリアが嬉しそうに笑った。
「ふふっ、来てくれてありがとう。今日のおすすめは胡桃パン。はちみつを練り込んだ生地に、胡桃といちじくが入ってるわ」
「へぇ! じゃあそれを二つお願いします!」
「オッケー。他はどうする?」
「そうですね……もうひとつ、何か食べてみたいんですけど……」
アメリアは手早くパンを紙に包み、紙袋に入れていく。
早く決めないとと思うけれど、相変わらず全部おいしそうで迷ってしまう。
「あれ。ティアさん、いらっしゃい」
私が目を泳がせていると、両手に焼きたてのパンを乗せた大きなトレーを持ったルカが現れる。
同時にふわりと、濃厚な甘い香りが広がった。
心の中で歓声を上げながら、思わず息を深く吸い込む。
────たまらない。
感動に体をふるふると揺らしてしまう。
────この香りは、なんのパン?
どんなパンなのか知りたい衝動にかられて仕方ないけれど、とりあえず一旦ルカに向かって挨拶する。
「────おはようございます!」
ぴしりと挨拶をした私を見ていたルカが吹き出した。
真っ白な作業着を着た肩を震わせて、アメリアにパンの乗ったトレーを渡している。
アメリアもくすくす笑いながら受け取っている。
肩を震わせながらよたよたと奥に戻っていくルカの背中を見ながら、首を傾げた。
「ティアさん、メロンパンがちょうど今焼き上がったけど、食べてみる?」
「メロンパン?」
アメリアがそう言って、トレーに乗ったパンを見せてくれる。
手のひらくらいの丸く膨らんだパンだった。
薄く焼けた表面にはところどころ砂糖の粒が残っていて、差し込む朝日がとろりとした艶を作っている。
香ってくる濃厚な甘いバターの香りが、どうしようもなく食欲をかき立てる。
さっきの香りは、これだ。
「アメリアさん、食べてみたいです!」
「ふふふ、そう言うと思った」
そう言って、アメリアは手早くメロンパンを二つ包む。
「あと、これも」
アメリアは胡桃パンとメロンパンを入れた紙袋と、バゲットを入れた紙袋をカウンターに置いた。
「よかったら食べてみて。色んな食べ方があっておいしいわよ」
「はい、ありがとうございます!」
会計を済ませ、にこにこしながらパンが入った紙袋を二つ受け取る。
「ありがとう。また来てね」
「はい、もちろん。また来ますね!」
紙袋から薄っすら溢れる香りに頬が緩んで仕方ない。
アメリアは嬉しそうに笑って、手を振って見送ってくれた。
店から出て空を見ると、朝焼けは薄まり透き通るような水色の空が広がり始めていた。
真っ直ぐに続く噴水公園は、今日も朝から活動している人がちらほらいる。
(どうしようかなぁ……外で食べて帰ろうかなぁ)
ひんやりした風が通り抜けて、身が引き締まる。
ジョイが起きてくるのは、もう少しあとだろう。
(せっかくだもんね)
ふ、と小さく笑って、歩き出す。
石畳を叩く音や噴水が奏でる響きに浸りながら、紙袋を抱きしめる。
(やっぱり朝の散歩って、いいなぁ)
白い百合を手に持ち散歩している老夫婦に、走っている女性とすれ違う。
開けた場所に出ると、風が撫でるように通り抜ける。
流れる髪を押さえて、噴水や木々、行き交う人々に視線を遊ばせる。
(────あれ?)
公園の端、行き交う人々を遠くから眺められるような少し外れたベンチに、動きやすそうな深い灰色の服を着た茶髪の男性が座っている。
(もしかして、エステヴァンさん?)
エステヴァンは広い肩を少し内側へ落とし、手を組んでいる。
エステヴァンの傍らには細長い紙包みが置かれている。
(こんなところで?)
少し意外に感じながら挨拶しておこうと歩み寄る。
「おはようございます、エステヴァンさん」
声をかけると、エステヴァンはびくりと体を震わせた。
驚いたようにこちらを見て、目を丸くする。
「え? ティアさん?」
「はい、おはようございます。昨日はありがとうございました」
「あ、ああ……おはよう。こちらこそありがとう」
「こんなところで会うなんて、ちょっと意外ですね」
「ああ、僕の家は南部にあるからね」
「そうなんですか?」
「ええ」
そう言って、エステヴァンは背後を振り向く。
エステヴァンの視線の先には、公園とさらにその奥に住宅街が見えた。
「職人仲間の家が南部にあって、その流れで自分も」
「なるほど」
「ティアさんは、どうしてここへ?」
エステヴァンは不思議そうに首を傾げる。
よくぞ聞いてくれた。
私は誇らしい気持ちで、手に持っている紙袋を持ち上げて見せる。
「パンを買ったので、せっかくだから食べて帰ろうかなって」
紙袋からほのかに香るバターの香りに、思わずにんまりしてしまう。
「そうなんだ?」
エステヴァンはおもしろそうに笑う。
私は大きく頷いた。
「はい。エステヴァンさんは、パンは好きですか?」
「ん? そうだね、嫌いじゃないよ」
「じゃあ、このおすすめの胡桃パンをどうぞ」
紙袋をごそごそ探り、包まれた胡桃パンを取り出してエステヴァンに差し出す。
「え?」
反射的に受け取ってしまったのか、エステヴァンはパンと私に視線を往復させる。
「いや、大丈夫……」
「とてもおいしいので、ぜひどうぞ」
エステヴァンが返そうとしてくるパンをやんわりと押し返す。
「えっと?」
困ったと眉尻を下げながら、エステヴァンは私を見上げてくる。
私は小さく笑って、首を振った。
「……昨日はたくさん素敵なものをいただきましたから、よかったら食べてください」
そう静かに告げると、エステヴァンは虚をつかれたように静止した後、仕方ないというように肩の力を抜いた。
「わかった、降参します。胡桃パン、ありがとう」
「はい、どういたしまして」
ウィルムのパンを食べて、エステヴァンも大好きになったらいいと思う。
食べるだけで幸せになれる、本当に素敵なパンだから。
満足して何度も頷いていると、エステヴァンがふと思いついたように、トントンと自分の隣のベンチを叩いた。
「ん?」
「せっかくだから、パンを食べよう」
「えっ」
悪戯を思いついたような悪い顔をして、エステヴァンはもう一度、トントン、と叩く。
「せっかくだから、ね?」
エステヴァンはにっこり笑う。
「…………はい」
しおしおとエステヴァンの隣に座ると、エステヴァンは肩を震わせて笑う。
「こんなはずでは……」
どこか静かな場所でこの空気にとけるように過ごしながら、メロンパンを味わうつもりだったのに。
「嫌だった?」
悪戯が成功して嬉しそうなエステヴァンに向かって首を振る。
「いえ、そういうわけじゃないです。ただ気分で決めた事に誰かを巻き込む事になったのが、なんだか申し訳なく感じて」
「そんな事ないよ」
エステヴァンは私から目を外して、景色に視線を泳がせる。
「エステヴァンさんも、この静かな時間を過ごしたかったですよね? だから挨拶だけしとこうと思ったんですけど……」
「なるほど」
ふ、とエステヴァンは行き交う人達を眺めたまま微笑んだ。
「たしかに、そうしようとしてたね。この空気に、自分を溶かしてしまいたかった」
「す──」
「ああ、違うよ。この空気に溶けて消えてしまったら、どうなるんだろうって考えていたんだ」
どういう意味だろう?
その真意を知りたくて、エステヴァンをじっと見つめる。
そうしていると風が通り抜けた。
木陰を作っている背後の木がさわさわと心地いい音を立てて揺れる。
エステヴァンは視線を少し落として、石畳を転がるように飛ぶ落ち葉を眺めている。
同じように舞う落ち葉を眺めながら、エステヴァンが消えてしまったらと考える。
ルドヴィクもレティもエステヴァンの母親も、そしてフォーチュンも、きっとみんな心配する。
ルドヴィクとフォーチュンは自分達の時間を投げ出して、エステヴァンを探すのではないだろうか。
そう思ったら少しだけ、悲しくなった。
「────消えてしまったら……みんな、探しますよ」
「探す?」
そんな返答が返ってくると思わなかったのか、エステヴァンは少し驚いた顔をした。
「はい。探して探して探して、探し回ると思います」
「……悲しむとかじゃなくて?」
なぜかエステヴァンが悲しそうに顔を歪ませて笑う。
────どうしてそんなふうに笑うのだろうか。
何かを言おうとして、口を閉じる。
────どうして。
どうして自分が溶けて消えてしまうなんて事を、考えているのだろうか。
揺れる茶色の瞳から目を逸らさずに、じっと見つめた。
エステヴァンは何かを探すように、私を見つめている。
「はい、探します」
そう言ってエステヴァンから公園を行き交う人達に目を向ける。
仲良く笑う老夫婦の笑顔を見つめながら、口を開く。
「大事な人がいなくなった事を、誰も認めたくないでしょう?」
「──────そうかな」
囁くような小さな声で、エステヴァンは応えた。
「そうですよ。悲しいと認めてしまうという事は、もういないという事実と向き合う事になる。だから探します。きっと…………ずっと」
吹き抜ける風に、さぁっと木々が音を立てる。
まだ朝も早いのに楽しそうに話に花を咲かせている女性達の笑い声が響く。
犬の散歩をしている少女が老夫婦に声をかけられて、嬉しそうに犬を見せている。
走り込んでいた少年達は気持ちよさそうに風を堪能している。
「──────どうして」
風に消えてしまいそうなほど、小さな声が聞こえた。
流れる髪を押さえて、エステヴァンを見る。
エステヴァンの喉が微かに震えた。
「君、だったんだろうな……」
エステヴァンは今にも涙が溢れそうな、寂しそうな笑顔を浮かべた。
エステヴァンの吐息は不規則に揺れる。
顔をくしゃりと歪ませて、それを隠すように右手で押さえる。
そして崩れちるように顔を落とした。
「────エステヴァンさん……」
エステヴァンの肩が上下する。
エステヴァンは深く何度も、自分を落ち着かせるように深呼吸する。
「──────きみは」
そう零して、エステヴァンは私を見た。
じっと、強く、探るように私を見つめる。
私はエステヴァンを見つめ返す事しかできなかった。




