君と歩む時間
「──────そんな事を、言うものではないよ」
そっと差し出されるように優しく落ちた言葉に、顔を上げる。
そこには、とても愛おしいものを見るようにフォーチュンに目を落としているルドヴィクがいた。
ルドヴィクはゆっくりと瞬く。
柔らかく包むように、フォーチュンに触れる。
「恩人、だろう? もういくつ、奇跡を見せてもらった? 今もまだ奇跡の途中なのに。そんな人に、こんな顔をさせてはだめだ」
はっとして、自分の頬に手を当てる。
そんな私を見て、ルドヴィクは微笑んだ。
声にならない震えが、フォーチュンから届く。
「ありがとう。あなたのおかげで、私は、得難いものを得る事ができた。これ以上ない、人生になった」
ルドヴィクの言葉に、ジョイとエステヴァンは驚いた顔で私を見る。
私はゆるゆると、首を振った。
震える両手をスカートの上で握りしめる。
私を見据えて話すルドヴィクに、私は応えることができない。
ルドヴィクは厳しく見えるであろう目を柔らかく細めた。
それでいいと、そう言うように。
ルドヴィクはフォーチュンに目を落とす。
そして少し、おもしろそうに笑った。
「────耄碌したと、思っていた。床に伏せった暗闇の中、もう終わりだと思っていたあの時、ずっと私を呼んでいたのは、君だったんだな」
くくっ、とルドヴィクは声を出して笑う。
「幻聴なのに妙な相槌だと思っていたんだ。やけに私贔屓で、優しくて、どこまでも私を知っている。そんな言葉が聞こえると、思っていたんだ」
笑うルドヴィクの目から、ぽろりと、涙が零れる。
「弱っていた私に、苦しんでいた私に、もう一度、もう少しだけ、生きてみようかと思わせる声が聞こえ続けていた」
くしゃりと、ルドヴィクは涙を零しながら笑う。
「君の、声だったんだな……」
ルドヴィクは優しく、フォーチュンを撫でる。
「……もう、話さないのかい? もう、この時間は終わりなのかい? やっと、声が届いたのに」
フォーチュンから息を継ぐように震えだけが零れる。
深緑の宝石がフォーチュンの心に反応するように、ゆっくりと脈動するように光りを反射する。
ルドヴィクはわかっているというように、目元を和らげた。
『──────ルドヴィク』
「────ああ」
フォーチュンの震える声が、か細く名を呼ぶ。
ルドヴィクは微笑んで、フォーチュンをのぞき込むように首を傾げた。
なんだい?
そう、聞こえてきそうだった。
『……ルドヴィク』
「ああ」
ルドヴィクは頷く。
フォーチュンの声にならない声が荒く震える。
『……ルドヴィク……っ』
「ああ、私はここにいるよ」
もう一度、フォーチュンを安心させるようにルドヴィクは穏やかな声で返した。
フォーチュンの引き攣った声が、何度も途切れる。
『ルドヴィク……っ!』
「ああ。心配をかけて、すまない」
ルドヴィクははらはらと涙を流しながら、指先で大切そうにフォーチュンの輪郭をなぞる。
深緑の宝石が首を振るように明暗する。
フォーチュンの言葉にできない声が、何度も何度も、震えている。
「山のように……苦労をかけたな……」
ルドヴィクは笑いながら眉尻を下げる。
ぽろぽろと、一緒に涙が零れ落ちる。
『…………そんな事、ありません』
ふるりと、フォーチュンの声が震える。
『そんな事、ないんです。むしろ私が────私が何もできなかった』
言葉が胸につかえたように途切れる。
『ルドヴィクが寝込んだ時も、苦しんで胸を押さえている時も、少しずつ調子を崩していく時も……私は何もできなかった。心音も呼吸音も、話し方も声も、仕草も全部────いつもと違ったのに』
ぎゅっとルドヴィクは両手でフォーチュンを包む。
フォーチュンの声の響きが頼りなく揺れる。
『────ずっと、わかっていたのに。全部知っていたのにっ。私はっ、助けを呼ぶ事すらできなかった……っ!』
「……ああ」
ルドヴィクの掠れた声が響く。
『私が……っ私だけが、気づけていたのに……っ』
「……いいんだよ。それで」
『よくなんてないっ、いいわけないっ! だって私しか知らない!』
引き攣った声をフォーチュンがあげる。
ルドヴィクはなだめるように、とん、とん、とフォーチュンを優しく叩くと、ゆっくりと味わうように瞬いた。
「────ああ。だから、それでいい。君が知っているなら、それだけでいい」
『ルドヴィクは優しいからそう言うのでしょう。でもそれだけなら、ルドヴィクは助からないかもしれない。いなくなってしまうかもしれない。そんなの、私は……っ受け入れられない……っ』
「……そうか」
ルドヴィクはフォーチュンに優しい眼差しを向ける。
『ずっとそばにいたのに。片時も離れず、一緒にいたのに。ルドヴィクが、生まれた時からっ!』
叫ぶようにフォーチュンは言う。
『そんなの、受け入れられる、はずがない……っ!!』
「……ああ、そうだな」
ふ、とルドヴィクはとけるように笑った。
ルドヴィクの目から零れる涙がきらきらと優しく光る。
はっとしたようにフォーチュンの言葉が止まる。
「私も、そうだった」
フォーチュンの声にならなかった声が、大きく震えた。
「だから時計職人のくせに、寿命だとわかっているくせに……ジョイ君に、預けた」
ジョイとエステヴァンが驚いたようにルドヴィクを見る。
「わかっていた。全て。君を直せる事も、直したらもう、君ではなくなってしまう事も。でもこのまま放置するのもまた、別れなのも、わかっていた」
涙を溢れさせながら、くしゃりとルドヴィクは笑う。
「私は弱いんだ。君なら、知っているだろう? 私は、君がいなくなる未来を、受け入れられなかった」
何かを堪えるように音が揺れる。
『…………ルドヴィク』
「本当に、ただ……逃げるように、ジョイ君に預けた。奇跡なんて起こるはずない、そうわかっていながら」
『ルドヴィク……』
「私も君と、同じなんだ。だから……今この時が嬉しい」
ルドヴィクは幸せそうに顔を緩ませる。
「だから、君がいてくれる今が、嬉しい。言葉が届けられる今が、嬉しい。弱音ばかり聞かせていた君に、こうして感謝を伝えられる、今が嬉しい」
ルドヴィクは微笑みながら首を傾げた。
君は?
そう、フォーチュンに問うているように見えた。
宝石からぽろりと涙を零すように、艶やかな光が落ちる。
それは次から次へと、ぽろぽろと舞い落ちた。
光は陽の光を浴びて、さらに優しく星が瞬くように輝く。
フォーチュンの震えた声が響く。
『そんな事……決まっています。あなたがいてくれる今が、嬉しくないはずがない』
「────よかった」
ルドヴィクは嬉しそうに顔を綻ばせた。
きらきらと星が瞬くような光の中で、暗い光を纏っていた深緑の宝石は深く深く、透き通っていく。
「話そうか。たくさん」
『はい、お供します。いつまでも』
「ははっ。楽しみだ」
目を細めて少年のように笑うルドヴィクに、フォーチュンがふと笑った気配がした。
同時にふわりと温かい気配が私を包んだ気がする。
(────なんだろう?)
自分の両手に目を落とすと、その両手にもふわりと温かい気配が滲む。
よくわからなくて首を傾げる。
ルドヴィクが私の様子を見て、納得したように頷いた。
「なるほど。そういう事か」
『気づきました?』
「ああ。……気づいてしまったな。そして察した」
そう言って、ルドヴィクは自分の両手を見下ろし苦笑した。
そしてフォーチュンを見て、切なげに笑みを深める。
「わかってはいた。知ってはいた。納得もしている。でもやはり…………君ともっと、生きていたかった」
しん、と沈黙が部屋に走る。
ジョイはその場に縫い付けられたように固まり、エステヴァンは真意を探るようにじっとルドヴィクを見つめている。
静かな部屋に、ルドヴィクのフォーチュンを撫でる音がさらさらと響く。
ルドヴィクの指が触れている深緑の宝石がじわりと滲むように深みを増した。
『…………ルドヴィク。助けられなくて、ごめんなさい』
ルドヴィクは静かに首を横に振った。
フォーチュンの震える声が静かな部屋に響く。
『先にいなくなってしまって…………ごめんなさい』
ルドヴィクはふ、と笑って、何よりも大事なものに触れるようにフォーチュンを手のひらで包む。
フォーチュンの声の向こう側から息を呑む音がする。
『ルドヴィク』
ルドヴィクはフォーチュンに問いかけるように柔らかく見つめる。
フォーチュンは宝石を静かにきらりと煌めかせる。
『もっと、あなたと一緒に生きたかった。私も』
「ああ」
そう言って、ルドヴィクはふわりと、満たされたように笑った。
応えるようにフォーチュンの深緑の宝石に柔らかい光が灯る。
宝石の中に、小さな陽だまりが生まれたみたいだった。
「────今日は、来てくれてありがとう」
そう静かに言って、疲れたようにエステヴァンは笑った。
私とジョイは入り口の門を潜って、エステヴァンを振り返る。
ジョイも少しだけ疲れの見える顔で、エステヴァンに頷いた。
「こちらこそ、ありがとうございました。とても大切な、時間になりました」
「ありがとう。そう言ってもらえて、父も喜ぶ」
そう言って、エステヴァンは柔らかく目を細めた。
エステヴァンは私を見る。
エステヴァンに向かってぺこりと頭を下げる。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそありがとう。…………またその時は、よろしく頼みます」
「────はい」
しっかりと頷くと、エステヴァンは穏やかに微笑んだ。
エステヴァン家を後にして、帰路に着く。
横を歩くジョイを見る。
歩調に合わせて揺れる癖のある赤髪に風が通り抜ける。
疲れているのか顔色が少し、悪いように見える。
「ジョイ、大丈夫?」
そう声をかけるが、ジョイの反応はない。
首を傾げる。
「…………ジョイ? 疲れた?」
「────ん?」
沈んだ目をしたジョイがこちらを向いた。
顔色は白く、どこか焦点が合ってなくて目が合わない。
どくんと、心臓が跳ねる。
「────大丈夫?」
「────大丈夫」
目が合わないまま、ジョイは薄く笑う。
そして、そのまま前を向いて歩き出す。
疲れたように歩く背中は曲がり、少しふらついている。
胸元でぎゅっと手を握りしめる。
小さくなっていく背中に、不安がどんどん大きくなった。




