君と歩んだ時間
「そういえば、思い出すな」
「どうしたんですか?」
ついこぼれてしまったのか、東屋に腰掛けているエステヴァンは少し驚いた顔をした。
そして自分の口を軽く押さえて苦笑する。
「いや……父が懐中時計を無くして、約束をすっぽかされた事があるんですよ」
私とレティは首を傾げる。
「そうなんですか?」
「おじいさまが?」
「そう。ひどい話だよね」
私達を見て、くすくすとエステヴァンは笑う。
エステヴァンは懐かしそうに目を細める。
「レティくらいの時、自分で時計を作るから父に教えてもらう予定だったのに、途中で懐中時計がない事に気づいた瞬間、即座に中止。父は部屋を飛び出して行った」
「おじいさま……」
「ある意味らしいだろ?」
「まぁ、たしかに……?」
レティは頷きながら、自分で言っている事に納得できないようで困惑している。
エステヴァンは肩をすかしてため息をつく。
「それが僕らの祖父であり父である、我らがルドヴィクだからね」
少し拗ねたようにエステヴァンは言った。
「それで僕も探したんだけど、夜になっても見つからなくて。もう明日にしようってなった時、ちょうどレティが花を切ったところで、父が懐中時計を見つけたんだよ」
「えっ」
「どうやら母の作業を手伝った時に落としたらしい。もしかしたら、レティみたいに花を切ったのかもしれないね」
ふと表情を消して、エステヴァンはさっきレティと花を切っていた場所を見つめる。
エステヴァンにならうように一緒に視線を向ける。
庭に立つルドヴィクの背中を、見ていたのだろうか?
フォーチュンは持ち主のルドヴィクにとても大切にされていたようで、それはとても嬉しい。
でも、それとは別のところで、子供だったエステヴァンは寂しかったのではないだろうか。
「────エステヴァンさんは、どう思ったんですか?」
「ん……」
エステヴァンは薄っすら笑顔を浮かべて私を見る。
目が合うとエステヴァンは目を伏せて、ティーカップにそっと触れた。
「少し……寂しかったかも、しれないね」
エステヴァンはそう言って顔を上げ、私に向かってふっと笑った。
そしてエステヴァンを心配そうに見ているレティに顔を向けて、にっこりと微笑んだ。
「いやぁ、とても心に大きな傷を負ったよ」
「……えぇ? マティ兄さま。全然そんなふうには見えない」
「ははっ、ほんとだよ?」
目を半眼にしてじろりと見るレティの頭を、エステヴァンは軽く撫でた。
「────そろそろお開きのようだね」
そう言ったエステヴァンが見ている作業場の方を見ると、三人の青年達が退出しようとしていた。
「行こうか」
エステヴァンはそう言って、立ち上がった。
渋るレティと別れ、エステヴァンと二人で再び作業場まで戻って来ると、ルドヴィクとジョイが満足そうな顔をしてお茶を飲みながらくつろいでいた。
二人は入ってきた私達を見て、笑顔で迎えてくれる。
「待たせてすまないね」
ルドヴィクが立ち上がろうとする。
急に立ちあがろうとしたルドヴィクがふらつきそうになるのを、横にいたジョイが支えた。
私はルドヴィクに向かって笑いかける。
「大丈夫ですよ。エステヴァンさん達から素敵な話を聞かせてもらっていたので。それに、二人もとても楽しかったみたいでよかったです」
えっ、とジョイが目を丸くするのに思わず笑ってしまう。
ルドヴィクは再び椅子に腰掛けると、私達を見て優しく目を細めた。
「それならよかった。ありがとう」
「こちらこそ、ありがとうございます」
ルドヴィクに向かって頷いて、エステヴァンが勧めてくれた椅子に腰掛ける。
私の隣にジョイが並んで座り、向かいにルドヴィクとエステヴァンが座った。
ルドヴィクは震える手で胸元のポケットから懐中時計──フォーチュンを取り出した。
そっと作業台の上に、フォーチュンを置く。
ルドヴィクが手を離した瞬間、きらりと、フォーチュンの外蓋に嵌め込まれている深緑の石が光る。
それがフォーチュンからの挨拶に思えて、応えるように小さく笑った。
「まずは、お礼を言わせて欲しい。懐中時計を直してくれた事……とても感謝している」
ルドヴィクはそう言って、ジョイと私に向かって深く頭を下げた。
「いえ。俺が直したわけではないので」
ジョイは首を振る。
「────その時計は、直らないのでは?」
エステヴァンが思わず、と言うふうに身を乗り出して声を上げる。
ルドヴィクはエステヴァンに向かって頷いた。
「ああ。直るはずはないと、私も思っていた」
ルドヴィクは自分の震える手を寂しげに見つめる。
開いたり、握りしめたり、その度にどこかの関節がぎこちなく鳴り、ずれる。
「……いや、違うか。直そうと思えば、きっと直す事はできた。地板を変え、軸を打ち直し、歯車を作り直せば、この懐中時計はまた、時を刻む事はできた」
ルドヴィクはぎゅっと拳を作ると、ふっと笑った。
「でも……その音は、別物だ」
愛おしいものに触れるように、ルドヴィクは懐中時計を撫でる。
「私の知っている音じゃなくなる。一緒に生きてきた音じゃなくなる。時を刻むその震えは、もう、同じではない。それは……もうこの時計ではないという事だ」
ルドヴィクは続けて何かを言おうとして、止まる。
フォーチュンに目を落とし輪郭を感じるように、ルドヴィクはゆっくりとフォーチュンに触れる。
ルドヴィクは寂しげに笑いながら、目を細める。
「寿命だった」
囁くように、ルドヴィクは零した。
「…………それが、直っている?」
おずおずとエステヴァンが言う。
「ああ」
ルドヴィクは私とジョイを見る。
(────くる)
ぴたりと目が合うと、思わず息を詰めてしまう。
変に肩に力が入りすぎないように、静かに深く息をしようと意識する。
ジョイを見ると、私と同じように身を固くしている。
ルドヴィクは懐中時計に手を当てた姿のまま、空気を解くように小さく笑い、首を振った。
「どうして直ったのか、誰が直したのか。問い詰めたいわけじゃない。時計を扱ってきた職人として気になるのは確かだが、今はただ、お礼を言いたいだけだ」
ルドヴィクはもう一度、深く頭を下げた。
「ありがとう」
「…………いえ」
ジョイは困惑したように返事をする。
それが聞きたいわけじゃないなら、一体何を話すために呼び出されたのだろうか?
(お礼だけ?)
それもなくはない。
でも、それならエステヴァンに頼むだけでもよかったはずだ。
きっと、わざわざ呼び出す理由がある。
何が目的なのか、ルドヴィクをじっと観察する。
ルドヴィクはフォーチュンに目を落とし、表情を柔らかくして撫でている。
優しいその手の動きに、きっとフォーチュンは喜んでいるような気がする。
ルドヴィクがどんな理由で呼び出したとしても、こうして今ここでフォーチュンが満たされているのなら、それはそれで良い事だ。
そう思うと、自然と頬が緩んだ。
「あともうひとつ、話したい事がある」
「なんですか?」
ジョイと私はルドヴィクを見る。
ルドヴィクは顔を上げ、エステヴァンに声をかける。
「マティアス、お前もよく聞いてくれ」
「はい」
エステヴァンは頷いた。
私達三人がルドヴィクを注目しているのを確認して、ルドヴィクは頷いた。
「私は、あと数日で人生を閉じる」
一瞬、時が止まった。
さりげなく言った言葉を飲み込むのに時間がかかる。
「────えっ!?」
ルドヴィクは今、あと数日で人生を閉じると言った……?
「どこかまだ体調が悪いんですか!?」
隣にいるジョイが思わず身を乗り出し、ルドヴィクの姿を確かめる。
「今動き回ってる場合じゃないのでは!?」
エステヴァンが顔色を変えて声を上げ、ルドヴィクの腕を取る。
ルドヴィクが少しだけ、心外だと言うように顔をしかめた。
「勘違いではない。自分の体だからよくわかる。今はまだ元気そうに振る舞えるが、中身がどろどろに溶けていくような感覚がある」
「気の──」
「気のせいでもない。体の奥が疼くように熱いんだ。自分の体が鉛のように溶けていって、その熱がさらに私の体を壊し溶かしている。そんな気がする」
エステヴァンが口をぱくぱくさせ、続けられなかった言葉は空気に霧散していく。
ルドヴィクはエステヴァンの言葉がわかったのか、表情を緩める。
「……あと数日の命だからと、閉じ込めないでくれ。私の世界を、そこで止めないでくれ」
「…………でも……いえ、わかりました」
エステヴァンはルドヴィクを悲しげに見つめて、ぎゅっと目を閉じた。
「君達を呼んだのは────私がいなくなったあと、誰かにこの子を引き継いでもらいたいと思ったからだ」
ルドヴィクはそう言って、懐中時計を寂しそうに見つめながら撫でた。
(フォーチュンを、誰かに引き継ぐ……?)
ジョイを見ると静かに顔色を無くしている。
エステヴァンはルドヴィクに言われた事が衝撃的すぎたのだろう。
ルドヴィクを見据えてはいるが、微かに聞こえるエステヴァンの吐息が途切れ途切れに震えていた。
(────フォーチュンは)
じっとフォーチュンを見つめる。
(フォーチュンは、どう思ってる……?)
やっとそばにいたかった人のもとに来たのに。
そばに来たと思ったら、これでそばにいられると思ったら、もうお別れが来ようとしている。
────終わりがくるなら。
それならせめてと思ったとしても、そんな時なんて、来て欲しいわけがない。
胸が、ぎゅっと締め付けられた。
ふるりと、唇が震える。
ルドヴィクはふらつきながらも自分でしっかり歩く。立つ。動く。話す。
そして、自分の心を許した人達と過ごして、満たされたように笑う。
当たり前のように過ぎていくその時が限られた一瞬だという事を、フォーチュンは、どう受け止めているのだろうか。
「…………どうして俺達なんですか? エステヴァンさん以外にないでしょう?」
ジョイの言葉にエステヴァンがぴくりと震える。
ルドヴィクは質問には答えず、手を添えているフォーチュンに目を落とした。
視線の先には時を重ねたブロンズ金属が鈍く艶めいている。
フォーチュンに嵌め込まれている深緑の宝石が、撫でるように柔らかく光を反射する。
でも、どこか華やかさがないように思うのは、さっきのルドヴィクの告白のせいだろうか。
『ティアさん』
静かに深く、沈み込むような声が聞こえた。
はっとフォーチュンを見る。
艶やかな宝石が、ずんと陰る。
『────ルドヴィクを、助けてください』
びくりと体を震わせる。
どくどくと鼓動が暴れる。
『私を蘇らせたように』
フォーチュンの震える声が響く。
────違う。
違う。それは、私じゃない。
ふるふると、胸を詰まらせながら首を振る。
ぎゅぅっとスカートを握りしめる。
『お願いです。わがままなのは、わかっています……っ! ルドヴィクを、ルドヴィクをどうか、助けて……っ!』
そんな事、できない。
できるわけがない。
引き攣った祈るような声に、くしゃりと顔を歪めた。




