呼びたかった名前
──────世界が、色付いて見えた。
深い焦茶の天井、発光するような白い壁。
窓から差し込む光はきらきらして、この世界を照らしてる。
窓から吹き込んでくる風に、紺色のカーテンが揺れる。
葉が揺れあう音を聞きながら、通り抜けていく風の感触を楽しんだ。
目の前には、大きな男性の顔があった。
鼻筋はすっと通り、凛とした顔つきに少しだけ大人の気配が混じり始めている。
────人は、あっという間に変わる。
じっと、そんなあなたを見つめる。
ぱらりと、ページをめくる音が響く。
カリカリと紙にペンが走る静かな音が、腰掛けている机から伝わってくる。
────この時間が、好き。
一見何もないような、そんな時間。
でも、そばで一緒に過ごす、そんなたわいもないような当たり前の時間が、私は好きだった。
あなたはふと、眉間にぎゅっと皺を寄せた。
あなたは真剣に私を見つめ、そしてまた手元にある本に目を移す。
少しだけ考えて、ノートに何かを書き始めた。
なぜか少しだけ縦長になる文字やペンの持ち方、力の入れ方の癖。
文字を書く、独特な調子。
────ちょっと変なところも、可愛い。
私が人間だったらきっと、今笑ってしまっていただろう。
頬が勝手に緩んで、そんなところが好きだって見つめてしまっていただろう。
この空気を味わうように。
何ひとつ逃す事がないように、今、この空気に溶けるように過ごす。
また、思い出したかのようにあなたの手が止まった。
きゅっとあなたは目を細める。
息を深く、深く吐く。
そして眉尻を少しだけ下げて、ペンを置く。
今度はわかりやすくため息をつきながら、ペンを置いた右手を私に向かって伸ばしてくる。
────いつも、こうだった。
ずっと、そうだった。
疲れた時は、私のところに来てくれる。
頬が緩む。
そうして伸ばしてきた右手で私の手を取って、私の手を、あなたの手と頬で包むんだ。
私の手に顔を預けるように、顔を傾ける。
「ティア」
囁くように、秘密を共有するように、小さく私を呼ぶ。
深く息を吸って、溜めて、そして溶けるように笑う。
そう目を細めて笑うあなたが、私は本当に好きだった。
────────ゆっくりと、重い瞼を上げる。
何度か瞬きを繰り返すと、白いワンピースと膝にかかっているクリーム色の毛布が次第にはっきり見えてくる。
手を動かすと肌触りの良いやわらかい感触が返ってきた。
「…………夢?」
優しい夢だった。
純粋で無垢な、私の夢。
私の人生で一番幸せだった頃の、私を作ってくれた彼が何よりも大切で、何よりも大事だった頃の夢。
(────うん、好きだった)
本当に好きだったと締めくくって終わった夢の私に相槌を打つ。
本当に好きだと思うのに、チクリと、心に棘が刺さった気がした。
そんな自分に乾いた笑いを漏らしながら周りを見回すと、夢の部屋とは違った雰囲気の部屋にいた。
全体的に質素な部屋だった。
それでも木材の良さを生かしつつ、床には深い緑のふわりとしたマットが敷かれ温かみを感じる。
今もたれかかって座っているベッド。
左手には大きく広い机、そしておそらく立ち上がったそのままで、そこに置かれている椅子があった。
あとは箪笥と細身の棚がひとつずつあるだけだった。
窓と向き合う形で置かれている机にはたくさんの本がある。
その中に、人形に関する本も置かれている。
(…………この人も、人形が好きなのね)
何度も何度も読んだのか、本の端がぼろぼろになっているものもある。
毛布を置いて、ベッドから立ち上がる。
着心地のいいワンピースがさらりと音を立てる。
夢の彼も、人形が好きだった。
むしろ、もう自分の命と言っても過言ではないくらいのめり込んでいた。
(こんなになるまで、読み込んで……)
これは努力の証だ。
この部屋の主も自分の存在と変わらないくらい、人形が大事なのだろう。
ぼろぼろになった本の縁を軽くなでる。
壊さないようにそっと手に取って、ゆっくりとページをめくる。
(…………これ知ってる)
ぱらりとまた、ページをめくる。
(これも知ってる……)
夢の彼と一緒に、勉強したから。
たわいのない時間、ずっとそばで見ていたから。
名前を呼ぼうと、口を開く。
「…………っ」
喉が震えて言葉にならない。
胸がぎゅうっと締め付けられて、苦しくなった。
人間になったらあなたの名前を、呼んでみたかった。
あなたの生きてる世界を、感じてみたかった。
縁がぼろぼろになった本をそっと机に戻して、顔を覆う。
体の奥から溢れ出してくる熱が抑えられなくて、溢れてしまう。
──────呼んで欲しかった。何度でも。
夢でそう呼んでくれたように、また私は、あなたにそう呼んで欲しかった。
熱が溢れてくるままにしていたら、少しずつ涙が落ち着いてきた。
まだ震える胸を押さえて、ゆっくりと呼吸を繰り返す。
そうしていると、静かな空気にほんの少しだけ賑やかな気配が広がった。
(…………声が、聞こえる?)
おそらく下から、誰かの話し声がしているような気がする。
この部屋の主だろうか?
もう光が差し込み始めているし、誰かが訪ねて来てもおかしくない。
まだ震えの残る胸元を、きゅっと小さく掴む。
(…………行ってみる?)
少しだけ、体が強張る。
もし見つかって大事になった時、どうすればいいのか。
現状、昨夜会った人間、おそらくこの部屋の持ち主としか接触はない。
だからここにいれば少なくとも、大きな問題は起こらないはずだ。
(そう、思いはするんだけど……)
じっと、この部屋のドアを見つめる。
賑やかな気配がこの向こうから伝わってくる。
それ以上に何が起こっているのか、気になってしまう。
深く息を吸って、吐く。
震える胸は、かなり落ち着いた。
見つからないのは大前提。
見つかったら、最悪逃げる。
見つかっても、見つかった相手の様子を見てから判断しても、多分遅くはない。
(……行ってみよう)
ドアノブに手をかける。
やっと落ち着いた呼吸はまた少し硬くなって、どくんどくんと何かが脈打っている気がする。
自分に言い聞かせるように頷く。
そっとドアを開け、静かに部屋を出た。
正面には階段があった。
左右を見渡す。右側は突き当たりで、壁に飾り棚があり美術品が飾られている。左側には廊下が続き、終わりは窓になっている。
廊下を挟んで、あと二つほどドアが見えた。
今までいた部屋は、階段を登ってすぐにある部屋のようだった。
さっきより声がよく聞こえる。
静かに耳を澄ます。
「はい、今日のパンね」
「いつもありがとう。助かる」
「いつも言ってるけど、通勤途中だから構わないわよ。あとこっちはミルクパンね」
「お、やった! もしかして今日のおすすめ?」
「そうそう。今、大量生産中。もし気になるなら後で行ってみたら? ジョイが会いに行ったら、父さんも母さんも喜ぶわよ」
「そうだなぁ……」
少しだけ会いにいく事を渋っているように聞こえるのは、昨日聞いた声の主。
もう一人は女性のようだ。
明るいけれど柔らかく耳に心地いい声がする。
パンを持って来てくれた? 買って来たのだろうか?
「母さんが最近顔を見てないって言ってたけど、どうかしたの?」
「うーん、そういうわけじゃないんだけど……」
昨日、私に大丈夫って言ってくれた彼は頼もしく思えたのに、なんだか今はもじもじしていて弱気だった。
(なにか理由がありそう)
それを聞いている彼女もそれを察しているからか、答えを急いでいないように思える。
(────それにしても……)
なんという、良い香りだろう。
濃厚で芳ばしい、というものだろうか。
一度胸に吸い込んだら胸がいっぱいになるのに、この香りをずっと吸っていたいと、何度も大きく吸い込んでしまう。
しかもそれと共にある、ふわりと広がる甘い香り。
幸せってこういう事? と心が満たされて頬が緩んでしまう。
息を吸うだけで、こんなに幸せだと思う事があるのだろうか?
二人の会話も気になるけれど、正直この香りはそれを凌駕する。
(──この香りは何? パン?)
この香りの元が知りたくて、じわじわ階下を覗き込む。
それでも全部は見えないから、ゆっくり階段を降りる。
すぐに赤髪が目に入った。
ゆったりとした灰色の上下服を着た後ろ姿は、おそらく昨日の青年だと思われる。
大きめの紙袋を抱くように持っていて、きっと彼が持っている紙袋にパンが入っているのだろう。
この香りの正体がパンなのであれば、彼はよく正気を保っていられるなと、割と真剣に思った。
「まあ、もういい加減いい大人だからそこまで心配はしてないけど、無理はしないようにね?」
「ああ、ありがとう」
────本当に、いい香りすぎないだろうか?
もうずっとこの香りを嗅いでいたい。
もう大好きになってしまったこの香りを胸いっぱいに吸い込んで、さらに階段を降りて覗き込む。
すると彼の向かい側にいる女性と目が合った。




