この香りが、世界を変える
綺麗にまとめ上げられているブロンドベージュの髪が、窓から差し込んでいる朝日に透けて艶やかに輝いている。
吸い付くような透明感のある肌に、奥深さを感じさせるラベンダーの瞳が、今は驚きに染まっている。
薄い水色のブラウスに紺色のジャケットを羽織り、ジャケットと同色のスラックスを自然に着こなしていた。
(…………あれ?)
私も驚いて、左右を確認してしまう。
当たり前だが私しかいない。
(もしかして見つかってる?)
この良い香りに夢中になって、警戒を疎かにしてしまっていた。
どうしようと、そう思った瞬間、女性の怒号が響いた。
「ジョイ!! これはどういう事!?」
「えっ!?」
「えっ!? じゃない!! あの子はなんなの!!」
「えっ、あの子……!?」
「白状なさいジョイ。あの子とはどういう関係なの? あの子は未成年よね? 理由によってはタダじゃおかないわ……」
「えっ!?」
艶やかな髪を振り乱しながら、女性はジョイと呼ばれた昨日の彼に詰め寄っている。
燃えるような怒りを宿している目は吊り上がっている。
詰め寄られているジョイがこっちを見た。
「あ……」
ジョイと目があって、ジョイは何か言おうと口を開いたが、そのまま言葉にはならなかった。
(え……なんだろう?)
首を傾げる。
ジョイはそのまま何も話さない。
そのやり取りを見ていた女性がジョイを睨んでいる。
しばらく考え込んでいたジョイが口を開いた。
「とりあえず、クリスが思ってるような関係じゃないよ」
「……本当に?」
クリスと呼ばれた女性がジョイに、そして私に視線を送ってくる。
私はそれにどう答えていいのかわからず、その目を見返すだけになってしまう。
クリスは再び、ジョイに目をやる。
ジョイはクリスを見ながら頷いた。
「本当だよ。もし本当なら絶対出てこないように言い聞かせるし、多分」
「最低」
「あのさ、クリスさん? 起こってもいない事で罵らないでくれる?」
「……とりあえずわかったわ。じゃあ、その子の事紹介してくれるのかしら?」
クリスはそう言って、私に笑いかけてきた。
「私はクリスティーナ。クリスと呼んで。よかったら、あなたの名前を教えてくれる?」
ジョイもこちらを見て、何か言いたげにしている。
ジョイが私の存在を知っていて何も言わずにただ見ているだけなのが、何か自分が悪い事をしているような気になってくる。
(……怒ってるのかな?)
でも私は部屋から出たくらいの事しかしてない。
あるのなら、怒るというより、迷惑をかけられたって感情の方が大きいかもしれない。
ジョイのその何か言いたげな雰囲気が何なのか気になるけど、ここはとりあえず自己紹介した方がいいのだろうか?
「……私はティアと言います。はじめまして、クリスさん」
そう言って、ぺこりと頭を下げた。
これでよかったのかと少し不安に駆られながら、顔を上げてクリスを見る。
するとそこには、優しい笑顔があった。
(……純粋に私を心配してくれているのかな?)
笑ってくれているし、私に対して何か悪意的なものはなさそうだ。
自己紹介も問題なさそう。
気づかず張り詰めていた息を吐き出した。
「ティアさんね、こちらこそはじめまして。一応確認のためにあなたにも聞くけど、ジョイに酷い事をされたりしてないわよね?」
「────酷い事?」
ジョイとは昨夜初めて出会って、大丈夫だと声をかけてもらったくらいだ。
特に何もない。
そういえばそこからの記憶がないけれど、もしかして人形に戻ってしまっていたのだろうか?
「おい、クリス疑いすぎ。俺に失礼」
「ジョイ、あなたは黙ってて。あなたの事を疑ってるわけじゃないけど、こういう確認は今後の為に大事よ」
ジョイが不機嫌そうにクリスに言っている。
そんなジョイに、クリスはそれは許さないと言うように、ピシャリと線引きをした。
「あの、酷い事はされてないです」
「…………そう、それならよかった」
クリスは私の様子をしばらく観察してから、そう言った。
多分、私のために言ってくれてるよね? 私が隠し事をしてないか、心配してくれてるって事だよね?
私のせいでジョイが責められてしまっている事に少し罪悪感がわく。
こんな形にしたかったわけじゃないけれど、迷惑をかけてしまっている。
(……怒っていないだろうか?)
そう思って、そろそろとジョイを見る。
クリスと言い合っていたジョイが私の視線に気づいて、小さく頷いた。
そうして頭をぽんぽんと、軽く撫でた。
「大丈夫」
小さく囁かれるように言われた言葉に、胸が震える。
何か答えようと口を開くけれど、喉も震えて上手く答えられなかった。
私の様子に気づいているのか気づいていないのか、ジョイはそのまま話を続けた。
「俺はジョイだよ。よろしくな?」
こくこくと、何度も頷く。
私はティアです。よろしくお願いします。
伝われと、気持ちを込めて頷く。
「あとさ」
パンが入っているであろう紙袋を握りしめて、少し言いづらそうにジョイが言葉を切る。
なんだろうか?
私は首を傾げる。
「名前を呼んでも……大丈夫?」
「あ」
そうだった。
昨日それで、泣いてしまったんだった。
どうしよう。もしかしてジョイがずっと何かを気にしている様子だったのは、私のせいだったのだろうか。
ジョイが名前を呼んだ事は今でも謎だけど、それだけで泣いてしまって申し訳なくなる。
名前を呼ぶのは何も問題はない。
ジョイは何も、悪い事はしてない。
悪いのはむしろ、名前を呼ばれただけで泣いたりしてしまった、私だ。
「大丈夫です。むしろ、ごめんなさい」
「よかった」
そう言って、ジョイはほっとしたように笑った。
その笑顔に、私も自分の過剰反応が許された気がして少し安心する。
そのやり取りを見ていたクリスが、静かに口を開く。
「口を出すのはどうかと思ったんだけど、家に泊まっていてまだ名前も知らなかったの? どうなったらそうなるの? ティアさんってもしかして迷子?」
(迷子?)
私は首を傾げた。
迷子ではないと思うけど、たしかにここがどこかはわかっていない。
でもなんとなく、私が生まれた街である事は間違いないのではと思っている。
外に出て見て回っているわけでもないし、地図で確認したわけでもないから、勘でしかないけれど。
ジョイがクリスに向かって口を開く。
「ティアは迷子ではないけど……」
「ないけど?」
ジョイが少し考え込んでいる。
ちらりと私を見て、クリスを見て、もう一度私を見る。
そして長考し始めた。
「ジョイあなた、何考えてるの?」
そうクリスが声をかけるが、ジョイは考え込んでしまって動かなくなってしまった。
私はクリスと顔を合わせた。
二人で首を傾げる。
「ジョイが長考に入って埒が開かなくなったから、ティアさん、うちのパンでも食べる? 朝食はまだよね?」
「えっ、パン?」
「ええ、さっきジョイに持って来たんだけど、どうかしら?」
あの大好きになってしまったいい香り。
そもそもがその香りの元が知りたくてこうして階段を降りてしまったのもある。
いいのだろうか。出会えてしまうのだろうか。
そんなの、答えなんて決まっている。
「────食べたいです!!」
自分の顔が満面の笑顔になってしまっているのが、自分でわかった。
私の顔を見て、クリスが小さな花がぱっと咲くように嬉しそうに笑った。
「ふふ、可愛い笑顔ね」
「クリスさんも、すごく素敵な笑顔です」
さっき微笑んでくれた時も優しそうだと思ったけど、こうやって自然に浮かぶ笑顔は、クリスの内側からわくあたたかいものを感じてすごく魅力的だ。
「え? ふふ、ありがとう」
クリスはまた優しく目を細めて私にそう言うと、ジョイの抱えてる紙袋を自然な動作で取り上げた。
クリスがかさりと紙袋を開けると、一気にあの大好きな香りが広がる。
私は噛み締めるようにゆっくりと息を吸い込んで、目を閉じる。
(ああ……今私、幸せに包まれてる……)
人間化できてよかった。
この世界をこうして感じられて嬉しい。
「ジョイに渡すだけだから持って来てる種類は少ないのよね。クロワッサンとミルクパン、どっちがいい? こんな事ならたくさん持ってくればよかった」
「クロワッサンとミルクパン。どちらもどういうパンなのか知らないのですが、どちらがおすすめですか?」
「そう来たか。じゃあ、今日のおすすめ、ミルクパンをどうぞ」
紙袋からクリスがそっと丸くてふんわりしたパンを出して、手渡してくれた。
「ありがとうございます……!!」
嬉しくてパンを持つ手が震える。
焼きたてだからなのか、パンを持ってる手がじんわり温かくなってきた。
そしてあの濃厚で芳ばしい香りは、パンで間違いなかった。
あの幸せの香りは、ミルクパンだった。
(嬉しい)
勝手に頬が上がって顔がにやけてしまう。
そこにあるだけで、こんなに心や体を揺さぶってしまうなんて、なんて罪深い食べ物なのだろう。
「ティアさん、どうぞ、こっち座って」
「はい!」
三人で話していた入り口の奥にリビングとキッチンがある。
リビングにある、クリスが勧めてくれたソファに腰掛けた。
クリスはそのままキッチンに向かい漁り始めた。
「飲み物も欲しいわね。紅茶か何かあったりするのかしら? ないならミルクかなぁ……ジョイ、紅茶ある?」
クリスは漁りながら、一応形だけ聞いておくという感じでジョイに声をかける。
ジョイを見ると、変わらず考え込んだままだった。
「あ、紅茶があったわ。ティアさん、紅茶でいい?」
「はい!」
「ふふ、オッケー。待っててね」
クリスが大きく平らな四角いものに指を滑らせると火がついた。そしてその上に水を入れたヤカンを置く。
どうやらあれはコンロのようだ。
水を火にかけている間に白いシンプルなティーポットやカップ、茶葉の準備をクリスが手際よくやっていく。
流れるような手つきに惚れ惚れしてしまう。
「クリスさんは、紅茶も淹れられるんですね」
「ん? これくらいなら誰でもできるわよ?」
そう言いながらクリスは沸騰したお湯でティーポットとカップをあたためる。
しばらくして紅茶の爽やかないい香りが部屋に広がった。
トレイに紅茶を乗せてこちらにやってくるクリス。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます!」
「ゆっくり食べてね」
「はい!」
パンに紅茶、初めて人間の食べ物を口にする。
それが自分が好きなものである事が、幸せすぎた。
「いただきます……!」
ほんのり甘い香りをさせているミルクパンを食べる。
ふわりとしたやわらかい感触が口の中に広がる。
そして同時に、甘い香りを裏切らない、舌に溶けて消えそうな優しい甘みが広がった。
少し濃厚な甘い香りがしたと思ったら溶けるようにそれは消えて、今度は独特な優しい甘い香りが広がる。
咀嚼する程にそれは混ざり合い複雑に、でもこれ以上ない美味しさのハーモニーを奏でる。
これは。
「幸せ……!!」
涙が出そう。
この世界には、こんなに幸せになれる食べ物があったんだ。
噛み締めるほど甘みが増したり、複雑に奏でる優しい香りが口いっぱいに広がる。
「おいしい」
「ふふ、よかった」
クリスが紅茶を飲みながら嬉しそうに私を見ている。
何度も繰り返される。この、繰り返される幸せ。
私がこのミルクパンに出会えた事は、奇跡だ。
いや、これは、涙が出る。
「おいしすぎる……」
いや、無理。
ぽろぽろと涙が溢れてしまう。
「え!? 大丈夫!?」
「ミルクパン……おいしすぎます……こんなにおいしいものが、世界にはあるんですね」
「……えっ?」
ぎゅっと、ミルクパンを握り締める。
「私はずっと知りたかったんです。人間って、どんなものが好きで、どんなふうに笑って、どんなふうに泣くのか。こうやって食べておいしいって思える事が、こんなに幸せだって、知らなかった」
「ティアさん……」
人間になって、夢のあなたがいる世界を感じてみたいと思ってた。
人間になって、あなたの名前を呼んでみたいと思ってた。
あなたの気持ち、感情、心。好きなもの、嫌いなもの。色んな事を知りたかった。
あなたの好きな人形の事を、私も知りたかった。
「私は、あなたといたかった。微笑む理由、滲むあたたかさに、溶けるようなその優しさを、知りたかった。人間になって私も、返したかった。一緒に、そうしたかった」
あなたと同じように。
どうしてあなたと出会ったんだろう。
どうして、あなただったんだろう。
あなたのために私は何ができるのか、どうしたら笑ってくれるのか、そんな事を、考えずにはいられなかった。
パンを持つ手が、震える。
締め付けられる胸が、苦しい。
「例え私が、いらなくなっても……」
他の誰かが、そばにいても。
目の奥がぎゅっと熱くなる。
「ティアさん……」
「私はまた、あなたに会いたかった。────だって、私は」
ぽん、と肩に手を置かれてはっと動きが止まる。
気づかないうちに感情が溢れてしまっていた。自分の中で暴れる感情を、そのまま口に出してしまっていた。
(どうしよう)
暴れる鼓動を、気合いで押さえつける。
何を口走っただろうか。変な事しか、きっと言ってない。
人形だという事はバレない方がいいのだろうけど、考えればわかるような事を口走ったかもしれない。
クリスはどう反応してる? 最悪逃走すればいい?
ジョイは私が人形だという事を知っている可能性が高いから、もしかしたら彼は味方に引き入れる事もできるかもしれない。
食べかけのミルクパンを握りしめて、ミルクパンを見つめ続ける。
何が起こっているか想像がつかない。
怖くて顔を上げる事ができなかった。
「クリス、頼みがあるんだけど」
動揺の最中に耳に入ってきたのは、ジョイの落ち着いた声だった。
肩に置かれている温もりは、ジョイの手だった。
もしかして、暴走していた私を、止めてくれたのだろうか?
恐る恐る、肩にある温もりから上に視線を上げていくと、こっちを見ているジョイの青空のような瞳と目が合った。
「大丈夫」
ジョイは私に小さく頷いてから、クリスに視線を移した。
それに釣られるように私もクリスを見る。
クリスは真っ直ぐに私を見ていた。
全てを見透かそうとするようなその視線に、少し怯んでしまう。
「いいわ」
私から目を離さずに、クリスはジョイに返事をする。
「そのかわり、全部話してもらうわよ」
嘘やごまかしは許さない。
そんな強さを宿して、クリスは言った。




