声なき人形の返事
店の真ん中に展示されている人形を整えようと、静かに手を伸ばす。
そっと眠る子供を持ち上げるように、人形の背と膝の下に両手を差し入れる。
慎重に持ち上げると、腰まである淡いハニーブロンドの髪がふわりと揺れた。
人形を優しく腕の中に抱き込んで、髪や生成りのレースが折り重なったドレスを整える。
少しだけ眠たげに微笑んでいる琥珀色の瞳が、窓から差し込む昼の明るい光を吸い込んで、きらりと静かに輝いた。
「起きた? 今日も可愛いね」
小声でこっそり、話しかける。
とろりとした微笑みが一番可愛く見えるように、古いベルベットの長椅子にそっと腰掛けさせる。
隣には気取ったように座り、少女らしく快活に微笑んでいる子がいた。
褪せた薔薇色のドレスを身につけ、勝気そうなローズグレーの瞳がぱちりと今にも動き出しそうだ。
私も釣られるように笑って、その子の頭を撫でた。
くすんだピンクベージュの触り心地のいい髪に、撫でた先から艶々した天使の輪ができる。
「うん、相変わらず綺麗」
魅力的な笑顔が隠れてしまわないように、指通りのいい髪を耳にかける。
「可愛い」
思わずにこにこしてしまう。
長椅子の右手側には、薄布がたくさん重なる薄紫のワンピースを着た女性の人形が凛と佇んでいる。
光に透けるような真っ直ぐな紺色の髪が肩から胸元に流れ、発光するように輝く。
スラリと伸ばされた細い指先から、洗練された空気を醸し出している。
薄っすらと細められたどちらにも染まりきっていない青緑色の瞳が、こちらに何かを訴えてくるようだった。
「今日も美人さんだ」
そっと頬を、指で撫でさせてもらう。
白い肌のつるりとした感触に笑みが深まる。
絡まりそうな薄布を綺麗に見えるように流して、左手にある少年の人形に向かった。
「おはよう。よく眠れた?」
首を傾げながら、顔にかかっている緩くうねる白金の髪を優しく払う。
視線を少しだけ落とし、涼しげな表情に影が滲んでいる。
深緑のシャツに黒に沈む灰色のベストと、同じ布で仕立てられた五分丈のズボンを身につけている。
胸には光を纏う銀のリボンが静かに揺れる。
「今日もかっこいいねぇ」
個人的にこれだと思う角度に微調整する。
思わず、自分の仕事ににこにこする。
ほわっと、心に花が咲いた気がした。
「……また、ここにこれて、よかった」
頬が自然と緩んだ。
昼が過ぎた頃、カランと、呼び鈴が鳴った。
穏やかな音楽が流れ、ゆったりとした空間に街の喧騒と賑やかな気配が入ってくる。
目をやると、五歳くらいの女の子が人形を抱きしめて立っていた。
そのすぐ後ろには黒い髪をきっちりまとめた母親だと思われる女性が、子供を促すように背中に手をやっている。
「いらっしゃいませ」
二人に向かって、ジョイと一緒に笑顔で声をかける。
女の子は私とジョイを見て、潤んでいる目を歪ませて、抱きしめている人形に顔を埋めた。
母親はそんな女の子を見て、苛立ったように息を吐く。
女の子はそれに小さく、嗚咽を漏らした。
ジョイは二人にそっと近づいて、柔らかく笑う。
「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」
母親は顔を上げ、ため息をつきながらジョイに答える。
「子供の人形がダメになってしまったの。だから、新しい人形をと思って」
女の子はその言葉を聞いて、ぎゅうっと人形を抱きしめる。
「そうなんですね。人形は真ん中の台に展示してありますので、ゆっくりご覧ください」
「ええ、ありがとう」
「こちらこそありがとうございます。当店では、人形の修繕も承っていますが、そちらはどうお考えですか?」
「ああ……直せるなら直した方がいいと思うのだけど、多分無理だと思うわ」
母親はそう言って、女の子が抱きしめている人形の腕を取り、引っ張り上げようとした。
女の子は小さな手で人形の服を握りしめる。
「私が直接見ましょう」
ジョイはそう言って、女の子の前にしゃがみ込んだ。
今にも泣きそうな女の子と顔を合わせる。
知らない人が現れて、女の子はもう潰れてしまいそうなほど顔をくしゃりと歪めた。
ジョイは女の子に優しく微笑んだ。
「……こんにちは。私は人形のお医者さんなんだ。少しだけ、その子を見せてくれないかな?」
女の子は人形に首を振りながら顔を埋めた。
肩が小刻みに震えている。
「動かないと思うから、見てもらって構わないわ」
母親が二人のやり取りを見ながらそう言った。
ジョイは母親に向かって頷き、女の子に近づく。
「ごめんね。今見えてるところだけ、見せてもらうね」
ジョイは、ぶらんとぶら下がっている人形の右腕を優しく手に取る。
見た瞬間、ジョイの動きが止まった。
浮かべていた笑顔は今は引き、真剣な表情で今度は人形の手のひらを見ている。
人形の細い指を目の前にかざすと、ゆっくりと関節ひとつひとつ折り曲げていく。
(────どうしたのかな?)
ここから見る感じ、人形の動きに変なところはなさそうだった。
ジョイはそっと人形の腕を戻す。
そして今度は人形の頭に触れ、金色の髪を指で少しずつ分けながら何かを確認しているようだった。
女の子は少しだけ顔を上げ、ジョイをじっと見つめていた。
「……一応確認なんですが、この状態は他の部分にも広がっていますか?」
ジョイは髪をかき分け耳をのぞく。
母親は頷いた。
「ええ。ばらつきはあるけど、そう思ってくれて問題ないと思うわ」
「そうですか……」
女の子が人形を抱きしめる力を強める。
今にも涙が溢れそうな目でジョイを見つめている。
ジョイは女の子に小さく微笑んだ。
「結論から言うと、直せなくはない、と思います」
女の子は、目を見開いた。
「そうなの?」
「ええ」
母親に返事をしながらジョイは立ち上がる。
「今見た限りでは右腕は残せそうです。ですが、右の手のひらと髪はかなり傷んでいるので、交換する事になると思います。おそらく服も。他の部分は関節や隙間にカビが入り込んだりしていなければ、現状のまま使用できると思います」
「────この子、直るの?」
女の子が目を揺らしながらジョイを見上げる。
ジョイは女の子に頷いた。
「今見た感じでは、そうだよ。ただ、カビが深く入り込んでいたり、変色していたりすると、そこを丸ごと交換する事になってしまうと思う。今ここにいるこの子をそのまま元通りに直してあげる事は、ごめんだけど…………難しい」
ジョイは眉尻を下げて、申し訳なさそうに女の子に答えた。
ぎゅっと、女の子は人形を抱きしめる。
ジョイを見上げて、口を開いた。
「それなら……」
「それって、新しい物を買った方が早いし、安いんじゃない?」
女の子の発言に被さるように、母親の声が通る。
「え?」
ジョイは驚いたように母親を見る。
母親は首を傾げている。
「だって、ほとんど交換になると思うのよね? それなら直す方が高くなる気がするんだけど」
「それは……全部見てみないとわからないですが、あり得ます」
「そうよね? なら、新しい物を買いましょう」
女の子は愕然とした顔で母親を見上げた。
ふるふると首を振り、何か言いかけている口が震えている。
母親は笑った。
「よかった。解決しそうね。さぁ、新しい人形を選びに行きましょう」
そう言って、母親は女の子の手を掴み、人形が展示してある場所に向かおうとする。
「……いやだ」
女の子はその場に踏ん張って、ぽろぽろと涙を零しながら母親を睨む。
「私は、この子がいい」
そう言って女の子は嗚咽を漏らす。
今までずっと我慢していたのだろう。
決壊したように、ぽろぽろと涙が洪水のように溢れ出す。
女の子は天を仰ぐように泣きながら、人形を大事そうに抱きしめている。
母親は女の子を振り返り、仕方ないというように息をつく。
「直しても、もう同じじゃないでしょう」
ジョイと女の子が、びくりと体を震わせた。
「それなら新しい物を買うのと変わらない。その人形と同じ物がいいのなら、似た人形を選べばいいじゃない」
ジョイは自分を抱きしめるように左手をお腹に、右手で口を隠す。
女の子は、小さく引きつった泣き声をあげた。
それは次第に、大きな泣き声になる。
息をするのが苦しいのか、ひゅぅひゅぅと喉が鳴り、時々咳き込んでしまっている。
聞いているこっちが苦しくなるような声だった。
ぎゅっと、胸を押さえる。
「そもそも、あなたが言う事を聞かないからこうなったんでしょう? 新しい人形を買いに来ただけ、感謝して欲しいわ」
強くなった泣き声に母親はため息をつき、コツコツと一人で人形を見に行く。
さっと一瞥した後、生成りのレースが折り重なったドレスを着た淡いハニーブロンドの髪の人形を手に取った。
そのまま足早に戻って来ると、ジョイに向かって人形を差し出す。
「これにするわ」
ジョイは口に手を当てたまま、じっと差し出された人形を見つめている。
(────ジョイ?)
様子がおかしい。
ジョイは肩を小さく震わせて、じっと見ていると思った目は大きく揺らいでいる。
私は反射的に一歩前に出て、母親に笑いかけた。
「お預かりします」
「あら、ありがとう」
母親から人形を受け取り、丁寧に梱包する。
会計を終わらせて、母親にそっと梱包した人形を渡した。
ジョイはまだ、その場に立ったままだった。
「ありがとうございました」
「こちらこそ。思ったより簡単に解決できて助かったわ。ありがとう」
「お役に立ててよかったです。またお越しください」
「ええ、ありがとう」
母親はにこやかに頷いた。
女の子を振り返り、背中を押した。
「帰るわよ」
押された力に一歩前に動く。
女の子は人形を抱きしめて、泣き続けている。
私は女の子のそばに、そっとしゃがみ込んだ。
女の子は私を見ず、ただ人形を抱きしめて泣いている。
小さな手が、震えている。
力が入らないんだろう。
それでも離したくないと、両手でしっかりと抱え込んでいる。
思わず、小さく微笑んだ。
そこに込められている想いを思うと、私まで涙に溺れそうになる。
それでも、そこに込められている想いは、とてもとても嬉しい気持ちだから。
「…………ありがとうって、言ってるよ」
ぽつりと零した私の言葉に、女の子はぴくりと揺れた。
涙でいっぱいの大きな両目が、私を捉えた。
私はその目を見つめながら、ゆっくりと頷いた。
女の子の持っている人形に、目を向ける。
釣られるように女の子も人形に目を落とした。
「ありがとうって、言ってるよ」
もう一度、同じ言葉を紡ぐ。
どうか伝わって欲しい。
そんなふうに想ってくれた事が、どれだけ嬉しい事なのか。
どれだけ、尊いものなのか。
人形は、人間ではない。
人形は、人のそばにいるために生まれている。
だから母親が言う事も、全てが間違っているわけではない。
人形はそういう“役割”として、生まれてきているから。
だからこそ、その想いがどれだけ尊くて、私達にとって嬉しいものなのか、知って欲しい。
女の子は私の言葉の意味を理解したのか、またはらはらと涙の雨を降らせながら、人形を抱きしめた。
「────あの子も、大事にしてあげてね」
女の子はくしゃりと顔を歪めて、そして、頷いた。
親子が帰って行った後、振り返るとジョイは工房への入り口で背中を向けて立っていた。
じっと工房内を見ているようだ。
いつもなら、もう仕事に取り掛かっていてもおかしくないのに。
やっぱり、様子がおかしい。
そっとジョイに近づく。
「…………ジョイ、大丈夫?」
返事はない。
ジョイは小さく首を振った。
「──────ジョイ?」
ジョイをのぞき込むと、顔が真っ白になっていた。
左手で胸元のシャツを破れそうなほど握りしめて、体を震わせている。
「え……ジョイ、どうしたの!?」
ジョイの腕にそっと手を伸ばす。
「──────もう……やめてくれ」
弱々しく、今にも消えてなくなりそうなほどか細い声だった。
手が止まる。
どくんと、心臓が跳ねる。
──────私、何かした?
さっきの親子への、対応が悪かった?
胸に、じわりと重たいものが広がる。
逃げるように一歩後ろに下がり、触れようとした手を胸の前で抱きしめる。
そうしていると目の前にある大きな背中が、くるりと振り返った。
ジョイはいつもの穏やかな笑顔を浮かべて、首を傾げた。
青空みたいに透き通った目は、優しく細められている。
「────ん、どうした?」
ぶわりと、鳥肌がたった。
どくどくと、心臓が暴れ出す。
(────────え? これは、何?)
不思議そうに私を見つめるジョイに、なんでもないと笑いながら首を振る。
ジョイに背を向けて、仕事に戻る。
どんどん激しくなる鼓動を止めようと、胸を押さえつける。
入り込んでくる嫌な予感を払うように首を振る。
(──────何が、起こってる?)
怖い。
募る不安が、どうしても抑えられなかった。




