逃げてもいい約束
「ティアちゃん、我慢したらだめなのよ? 辛かったら、迷惑だなんて考えないで、何でも言わないとだめなのよ? 全部一人で背負い込んで、自分を追い込んだら、絶対だめなんだからね?」
うぅ、と悔しげに呻きながら、クリスは私の頭をぎゅうぎゅうと抱きしめる。
「お、おはようございます、クリスさん。ど……どういう事ですか……?」
翌朝、目が覚めて降りて来たらジョイとクリスがリビングにいて、突然クリスに抱きしめられた。
ゆったりとした格好のジョイは私達の様子に小さく笑い、席を立ちキッチンに向かった。
クリスは仕事に行く前なのか、紺色の上下のスーツを身につけている。
私の頭にぐりぐりと寄せられる頬と白いブラウスがくすぐったい。
「心配したんだからね? ジョイから職場に連絡が入った時は、何が起きたのかと思った。家族が倒れたのか、ジョイ自身に何かあったのか、疑問に思いながら店からかけてきた電話に出たら、ティアちゃんがいなくなったって言うから……」
少しだけ、語尾に湿った熱が帯びる。
はっとして、頭の上にあるクリスの顔を見る。
疲れの滲む少しだけ潤んだ目と、目が合った。
(────心配、してくれたんだ)
勝手に顔が、ふにゃりと緩んだ。
嬉しくて、口元が歪んでしまうのを我慢できない。
目の奥も、釣られるように熱くなった。
包むように、頭を撫でられる。
「──────無事で、よかった」
ぎゅうっと、そこにある事を確かめるように抱きしめられる。
クリスにくっつくように頭を寄せ、その気持ちに応えるように両手でクリスの腕に触れた。
「────ありがとうございます。クリスさん」
きゅっと、少しだけ強まる抱擁。
クリスのブロンドベージュの髪が、柔らかく私の肌を撫でる。
少しだけ震えている息に、クリスの優しさが詰まっているような気がした。
お互いを満たすようにくっつく。
しばらくして、クリスが小さく息をついた。
「────ティアちゃんが見つかった後、また連絡をもらったんだけど……」
名残惜しそうにクリスが離れる。
私も寂しい。
寂しいのが我慢できなくて、クリスの袖をちょっとだけ掴む。
クリスが少しだけ驚いた顔をした後、ふっと柔らかく笑って手を繋いでくれた。
さらに頬が緩む。
受け入れてもらった気がして、すごく嬉しい。
クリスが柔らかく目を細めて、私の頭を撫でる。
「…………ティアちゃん、博物館に行きたいんでしょう?」
クリスに手を引かれるようにソファに並んで座る。
「……はい。行きたいです」
繋いでいる手を、無意識にぎゅっと握ってしまう。
その時ことりと、珈琲の入ったカップが私の前に置かれた。
ミルクと砂糖も、そっとカップの横に添うように置かれる。
今までずっと静かだったジョイは、珈琲を淹れてくれていたようだった。
「ありがとう」
「ん、パンも食べな」
「うん、ありがと」
ジョイから茶色の紙袋を受け取ると、ふわりと、良い香りが広がった。
バレないように、深く息を吸う。
まだ腫れている心に、温かい優しさが入ってくるみたいだった。
ジョイはくつろぐようにソファの端の席に座った。
「今ちょうどその件で、話してた。クリスもティアを心配してるし、その件も含めて近況報告はどうかと思ってる」
クリスが頷く。
「そう。博物館に行く事を直接解決する事はできないけど、私、まわりの心配を取り除く事はできると思うの」
「えっ?」
驚いてクリスを見る。
自慢げにクリスは笑った。
よしよし、とクリスに頭を撫でられる。
「私は、この街の保全課に配属されているの。保全課はこの街の施設や安全に関わる異変を拾って、調整する事を主な仕事にしてる」
「保全課……」
ぽかん、とクリスを見る。
なんとなく優しいクリスには似合わない気がしてしまう。
うむ、とクリスは大仰に頷いた。
「だからそれを活用して、何かが起こる前に、いつ何が起こってもいいように、準備しておこうと思う。すでに独断だったけど、信用できる上司にだけは、ティアちゃんと出会った時に、少しだけ話してあるわ。ひと言言えば、多分すぐに話は通ると思う」
「すごい……」
「ありがとう。でもね、実際もう動かざるを得ない状況になってきてるのよね。ティアちゃんの話とは関係なく、もう動き出している所もある」
クリスが焦りを吐き出すように息をつく。
そしてトントン、と肘置きを指で叩いた。
「ティアちゃんには一度話した事があると思うけど、この街全体の事件発生件数が、ここ最近で爆発的に増えたの」
「え……」
「そうなのか?」
「ええ。北、西、東、南で分けて、北は急増、西は大幅に増えてる。東はやや増加、南も少しずつ増えてきてる。南部は大きな事件はまだないものの、小競り合い程度の問題がよく起こっているわ。ただ北部だけは、毎日のように何かしら事故や事件がすでに起き始めて、手が離せなくなってきてるの」
「もしかして、博物館が関係あるのか?」
ジョイの質問に、クリスは残念そうに首を振った。
「それは、正直よくわからない。でも、起きてから対応してたら間に合わない。このままだとどんどん後手後手になるから、これから出勤してまた詰めるわ」
クリスは一点を見つめて、自分の顎を指で叩く。
クリスの知性が宿る紫の目がきゅっと、細まった。
「ありがとう……ございます……」
語尾が震えた。
こんなに簡単に、さらりと準備が組まれてしまうなんて。
もちろん、今すぐどうにかなるわけじゃないとは思う。
だけど、これだけ具体的に話が進んでいると、もう大丈夫という安心感が全く違った。
隣で優雅に紅茶を飲んでいるクリスが、とても大きな存在に感じる。
クリスは私を見て、柔らかく笑う。
「これだけでも、安心できたでしょう?」
「……はい、ありがとうございます」
両手が、小さく震える。
ジョイに一緒に考えてくれと言ったものの、怖くてしかたなかった。
結局どうがんばっても、一人なのかもしれないって、怖かった。
ぽん、と頭を撫でられる。
「これはね、みんなの問題。この街に住む、みんなの問題」
静かに言葉を落とすクリスを見ると、少しだけ寂しそうに微笑んでいた。
ゆっくりと諭されるように、頭を撫でられる。
「何もできない小さな子供は仕方ないけど、それでもこの街に住む全員が、がんばらないといけないもの。どんな人でも、どんな立場であろうとも、たとえ結果がついてこなくても……自分が立てる場所を守ろうとする意思くらいは、出さないといけないのよ」
繋いでいる手に、頭を撫でていた手が添えられる。
祈るように手を結ばれる。
「だから、一人で背負いすぎないで。がんばりすぎないで。みんなの問題も、全部自分のものにしないで。ティアちゃんはティアちゃんを、幸せにしないといけないんだから」
そう言って、クリスは優しく笑った。
心が、ぎゅっとした。
目の前が滲んで、見えなくなる。
「…………はい」
絞り出した返事は小さく、か細く震えた。
クリスはまた頭を撫でてくれる。
「それに、これが私の仕事でもあるからね。できる事は限られているけど、それでもできる限り、考えられる限り準備して、備えておくから」
クリスが私の顔を覗き込むように目を合わせる。
「だから、安心して?」
ね? とクリスは笑った。
「────はい……ありがとう、ございます……!」
ぽろぽろと勝手に零れる涙を両手で拭う。
クリスはそれにまた小さく笑って、頭を撫でてくれた。
「あとね……ティアちゃんが大丈夫な範囲でいいんだけど、お願いがあるの」
「……なんですか? 私でできる事があるなら、なんでもします」
「うん、気持ちは嬉しいけど……そこまでがんばらなくていいの……」
クリスは、言いづらそうに言葉を切った。
視線を逸らして、言うかどうか迷っているようにも見える。
「……そんなに、難しい事なんですか?」
こくり、とクリスは頷いた。
「……人によっては、その時の状態によっては、とても難しい」
そう言って、クリスは悲しげに目を細める。
諦めたように息をついて、クリスは私を見た。
「ティアちゃん……百年前の二人について、わかる事を……教えてもらえる?」
びくりと、思わず体が強張った。
奥の方からどくどくと、鼓動が暴れだす。
落ち着かなくて、部屋のあちこちを見て、逃げ場を探してしまう。
きゅ、っと優しく、クリスは手を握る。
「無理に思い出さなくていいの。本当に、ティアちゃんの心が話せる範囲でいいの。もうすでに無理なら、何も言わなくていい」
「…………いえ……」
首を振る。
明らかに震えている息を、意識して吸って吐く。
もう一度。
クリスの手を、握り返す。
「……百年前の元凶の二人は、男女の人形です。名前は女性の方がロナ。男性の方がレオ、です」
語尾が明らかに震え出す。
落ち着け。
まだ、何も、起こっていない。
ぎゅっと目に力を入れてクリスを見る。
「姿は変わっているかもしれないけど、二人とも黒髪です。特徴があるのは目で、ロナは赤く、レオは金色に光ります。あとは……っ」
思い出して、手が痙攣する。
押さえつけようとした私を、クリスがそっと止めた。
「うん、ありがとう。もう大丈夫」
ぎゅっと、抱きしめられる。
「もう、大丈夫だからね」
震える。
目の前が滲んで、ぼろぼろと涙が零れる。
喉が詰まって、嗚咽が漏れた。
頭を優しく抱きしめられながら、背中を撫でられる。
何度も、何度も、大丈夫だと伝えるように。
「……ティアちゃん、約束しよっか」
約束?
涙を零しながらクリスを見上げると、真剣な紫色の瞳と目が合った。
「何よりも、自分を大事にするって。もしもの時は、ちゃんと逃げるって。逃げてもいいって、自分と私に約束して」
「にげ、る……?」
喉が熱くなる。
ぽろりと、涙が零れた。
「そう。博物館に行くのもいい、元凶の二人を見つけるのもいいけど、無理だと思ったら逃げて。ティアちゃんが逃げても大丈夫なように、私も備える。ジョイだっている。後ろにはみんながいる」
ジョイは何も言わなかった。
だけど、小さく笑って、しっかりと頷いてくれた。
喉の熱が、大きく震えた。
────それって。
「だから、無理だと思ったら逃げておいで。みんなで、何とかしよう」
ね? と、クリスは言った。
ぼろぼろと、涙がまた零れる。
────それって、私を、守ろうとしてくれてるよね?
大事だと、思ってくれているよね?
私をみんなと一緒に、並べてくれてるって事だよね?
私の言ってる事を、信じてくれているって事だよね?
喉の奥が熱い。
嗚咽が、我慢できなかった。
クリスに答えようと開いた唇も大きく震えて、言葉になんてできない。
ぎゅっと目を閉じて、こくり、と頷いた。
「…………よし」
クリスは嬉しそうに、笑った。




