祈りの線
昼休みを終えて、店に戻った午後。
──────楽しそうな笑い声。
そう感じた瞬間、左側の耳元で艶やかな濃厚な声で囁かれた気がした。
びくりと大きく体が震え、手に持っていた伝票を勢いよく落としてしまう。
(………………え?)
耳を左手で押さえながら、恐る恐る話しかけられた方を見る。
────誰も、いない。
跳ねる心臓を思わず掴もうと、右手でぎゅっと押さえる。
「こっちも可愛くない?」
背後から楽しそうな声が響く。
同時にぞわりと、背中を撫でられたような悪寒が走る。
声が聞こえた方を素早く振り返ると、二人の女性が楽しそうに部屋に飾る小物について話している。
暴れ出そうとする自分を抑えようと静かに呼吸を繰り返す。
(──────違うよ?)
彼女達はこの店に来た客だ。
ただ可愛い置き物について、楽しく話しているだけ。
でもどこからか、くすくすと笑う声が聞こえる。
横から後ろから、声はくるくると踊るように回り、逃げ場なんてないと突きつけられている気がしてくる。
(──────違う。落ち着け)
暴れ出そうとする心臓を気持ちで強引に押さえつける。
深く息をして、ぎゅっと目を閉じた。
(──────大丈夫)
呼吸に集中する。
一回。二回。さらにゆっくり息を吸って、深く吐いた。
静かにそうやっていると、波打って暴れているものが少しずつ穏やかになってきたような気がする。
試しに震える手を耳からそっと外して、女性達の声に耳を澄ませる。
相変わらず楽しそうに盛り上がってる声を聞いても、特に何も起こらない。
(よかった……大丈夫そう……)
ほっと息をつく。
滲み出るような息の奥、体のさらに深いところは引っ掻かれているような苦しさを感じる。
もう一度深く呼吸をして、落としたままにしてしまっていた伝票を拾って立ち上がる。
淡々と丁寧に伝票を整えながら、自分の心もそうやって整えるつもりで作業する。
(…………あれ?)
伝票を整えていたら、神聖な空気を醸し出す紙の花がカウンターに飾られているのが目に入った。
階段のように段差のある仕切った入れ物に一本ずつ入れられ、細部まで見えるようになっている。
(こんなの朝あったっけ……)
気になって、そっと一本取り出してみる。
手に取ると、空気を歩くように花と光がふわっと揺れた。
「うわぁ……」
思わず声が出てしまう。
紙の花はスノードロップをモチーフにして作られてるようだ。
(これは金の糸? それにしては質感がちょっと違うような……)
白い花弁は一枚一枚丁寧に作られていて、淡い金糸のような物で縁取られていた。
淡い金の縁取りは花弁の縁から中心に向かって、波打つように模様が描かれている。
紙の儚い美しさを壊さないように、花弁の先に集まるその輝きが、花の美しさをそっと引き立てている。
紙の花をゆっくりと一周回す。
きらりきらりと、花を撫でるように淡い金色の光が波打つ。
「綺麗……」
紙の花なのに、別の生き物のように思えてしまう。
そんな花弁の中心には、透明な指先大の石が付いている。
(この紙の花はなんだろう?)
すごいものを見てしまった。
そっと元にあった場所に紙の花を戻す。
そしてふと店内に目を向けると、さっきまで楽しそうに見ていた女性達が店から出て行こうとしていた。
(────え?)
そのまま買うものだと思っていたから、驚いて女性達の背中を見つめる。
カランと呼び鈴が鳴る。
「本当に買わなくていいの?」
店内で引き留めるように立っている女性が先程盛り上がっていた場所を見つめながら、ドアを開けている女性に向かって言う。
「うん……欲しかったけど、ちょっと今厳しいから。また今度にする」
「まぁ……そうよねぇ」
声をかけた女性は諦めたように項垂れて、ドアに向かう。
「……私も節約しなきゃとは思ってる」
「うん、また来よ」
少しだけ悲しそうに二人は笑い、喧騒の中に消えていく。
呆然と二人の姿があった場所をじっと見つめた。
瞬きを、何度か繰り返す。
なんだろう。
たしかに何かを感じたけれど、うまく言葉にできない。
うーん、と首を捻る。
(あっ、ありがとうを言うの、忘れてしまった……)
次から気をつけなければ、そう思っていたら呼び鈴がまたカランと鳴った。
「こんにちは」
顔を上げると、エステヴァンが髪と似た茶色の目を細めて穏やかな笑顔を浮かべながらこちらに歩いてきていた。
深い紺色のスーツに合わせた沈み込むようなダークグリーンのネクタイが、エステヴァンの静かな魅力を引き出している。
エステヴァンに応えるように笑顔を浮かべる。
「こんにちは。いらっしゃいませ。今、呼んできますね」
「ああ、ありがとう」
エステヴァンに頭を下げたあと、ジョイを呼ぼうと工房に入る。
ジョイは声が聞こえていたのか、すでに立ち上がってこちらに来ようとしていた。
ジョイは私を見て頷いた。
「いこっか」
「うん」
そう言って二人でエステヴァンの元に戻った。
「こんにちは、エステヴァンさん」
「ああ、こんにちは。レーベンさん」
穏やかに二人は挨拶を交わす。
「ルドヴィクおじさんの退院が決まったんですか?」
「ああ、明日退院する事になった。明後日の光祈をどうしても家で見たいと言って聞かなくて。少し強引になってしまった」
そう言ってエステヴァンは苦笑する。
(光祈?)
二人の会話の腰を折らないように内心で首を捻る。
ジョイが神妙な顔でエステヴァンに問う。
「あまり体調が良くないんですか?」
「とてもいい、とは言えないと私は見ている」
「そうですか……」
ジョイは視線を落として、少し考え込み始めた。
エステヴァンはそっとそれを止めるように、柔らかく首を振った。
「レーベンさんが気にする事はない。退院する事もレーベンさん達と会いたがっているのも、父の希望だ」
「とは言っても……なるべく体調が良さそうな日に行きたいなと」
ジョイが静かに、眉尻を下げた。
エステヴァンはそんなジョイを見て、ふっと小さく笑った。
「ありがとう。じゃあ父が元気になれるように、元気を持ってきてくれないか?」
「えっ」
「そうしよう」
エステヴァンはそう言って、朗らかに笑った。
ジョイは驚いて目を丸くしている。
「光祈の次の日は少し休んだ方がいいと思うから、二、三日後にお願いしたい」
「えっと……それなら光祈の三日後の定休日でも構いませんか?」
「ああ、もちろん。時間は午前中でいいかい?」
「はい、問題ありません」
そう言うジョイに、エステヴァンはしっかりと頷いた。
「それでは家の場所は────」
「変わっていなければ……東の住宅街ですよね?」
「正解だ。ずっと変わっていない」
「それなら大丈夫です」
エステヴァンとジョイは頷いた。
「では来週の定休日の午前中に。気をつけて来てくれ」
「はい、ありがとうございます」
真面目に頷くジョイにエステヴァンは微笑んだ。
「こちらこそ。父のわがままに付き合わせて申し訳ない」
「ルドヴィクおじさんには、とてもお世話になりましたから」
そう言うジョイからエステヴァンは視線を落として何度か深く瞬くと、少しだけ寂しそうに笑った。
「……ありがとう」
そう静かに残して、エステヴァンは踵を返した。
カラン、と呼び鈴がなる。
なぜか、いつもより静かに響いたような気がした。
(────やっぱり、不安になるよね……)
もちろん、そう決まったわけではない。
でも大事な家族がいなくなる可能性が見えて、不安にならないわけがない。
エステヴァンが普段何事もないように振る舞っているから、忘れてしまいそうになる。
凛と姿勢よく歩いていく背中を静かに見送る。
エステヴァンが去ってから、顎に手を当てて考えているジョイにおずおずと声をかけた。
「……ジョイ、光祈ってなに?」
「ん? ああ、今週末の夜に行われる祈りの儀式だよ。時間になったら祈り花に祈りを込めて、空に送るんだ」
「祈り花?」
「うん。レジのカウンターに置いてある、紙の花だよ」
「あ、あれかぁ。この綺麗な紙の花はなんだろうって思ってた」
「そうそう。さっきそこに置いたからね」
そう言ってジョイは笑った。
そっと一輪手に取って、見て、と紙の花を見せてくる。
紙の花に光の波がきらりと流れる。
「うち特製の装飾を施したんだけど、ちょっと時間がかかってしまった」
「そうなんだ」
「糸もちょっとこだわって、あえて金属線を使ってるんだ」
「糸じゃなくて金属線だったんだ。すごく綺麗」
流れる金の光の波は、本物の波のように揺れ動く。
ずっと見ていたくなるような、吸い込まれるような美しさがある。
「祈りを込めて、線を通すんだ」
真剣に紙の花を見つめるジョイの青空みたいな目が、ふと細められる。
空気が静かに、変わった気がした。
思わず息を詰める。
ジョイは変わらず紙の花を見つめている。
その目には、紙の花を貫いてしまうような強さがあった。
全てを見通そうと、全てを自分の手の中に入れようとしているようなそんな強さを感じる。
癖の強い赤い髪が紙の花に沿うように動かされる頭の動きにほのかに揺れて、指先は視線の先をなぞるように、ぴたりと合わされている。
呼吸をする事すら雑音になる。
そう感じた。
「────最初は、歌うようだって思ったんだよな」
呪文のようにその言葉は落とされる。
「こんなに細かい模様なのに、ひとつ紙に刻むたびに歌っているような気分になる。何度も何度も飽きもせずそれを続けて、気分は大熱唱」
ジョイが紙の花を角度をわずかに変えたのか、金属線に差し込む光が波打つように反射する。
「なぜか終わってみると軽やかに時間は過ぎていて、やり切ったっていう達成感で満たされてる」
ふ、とジョイの口元が歪む。
溶けるようにジョイの表情が緩んだ。
「楽しくて、心がとても満たされてるんだ」
ジョイは思い出すように目を閉じて、紙の花から視線を外した。
「紙の花を作るのは、人形の次に好きかな」
ふ、とジョイは空気を解す。
私は張り詰めていた息をそっと吐き出した。
「ジョイはきっと、優しい気持ちがこもるものが好きなんだね。そしてそれがまた誰かに続いていくのが、もっと好きなのかも」
そういう場面を想像する。
何度想像しても、いつもジョイは嬉しそうに、目を細めて笑っている。
私も、そんな想像の中のジョイに釣られて頬が緩んでしまう。
ジョイはきょとんと私を見つめ、少しだけ頬を染めて恥ずかしそうに笑った。
「……かな?」
「間違いなく」
「言い切られると恥ずかしい!」
「ふふっ」
そう口では言いつつ、ジョイは嬉しそうに笑った。
そんなジョイを見てるのが嬉しくて、私も笑みを深める。
ジョイはぎゅっと拳を握った。
そしてその拳に視線を落として、手を開いてまた握りしめるを繰り返した。
ジョイに浮かんでいた笑顔が静かになる。
「でもさ、どんなに恥ずかしくても、やめられない。どんなに苦しくても、きっと俺は、作る事をやめる事ができないと思う」
ジョイは自分の両手を切なげに見つめて、悲しさの混じった笑みを浮かべる。
どうしようもない。
そんな声が、聞こえた気がした。
「そんなジョイが、私は好きだよ」
だからそんなふうに思わないで。
だからそんなふうに、自分を責めないで。
ジョイは目を見開いて私を見ている。
「最後まで、ジョイはジョイでいて欲しい。自分の心を、大事にしてほしい」
ジョイは何度か口を開いたけど言葉にならず、そのままじっと私を見つめている。
私もジョイを見つめ返す。
「そのままで、いいんだよ」
なんでだろう。
言いながら、自分の心が震えた。




