Ⅲ.雷神 -Vayer Gahze-
――同情なのか、共感なのか。
その時に抱いた感情は今でもよく分からない。
だけど、ひとつ分かるのは、彼との日々もきっと、かけがえのないモノになるのだろう。
ロランの容態も落ち着き、ヴァイアーの眠るベッド隣の小さなテーブルに今朝、璃王が作っておいたアップルパイと二人分の紅茶を用意する。
今朝は起きてすぐにヴァイアーの捕獲任務だった為、朝から何も食べていない。
空腹に紅茶の芳醇な香りと璃王特製アップルパイの甘い香りが沁みる。
「う……っ、つ……」
「起きたか」
もぞり、と視界の端でシーツが動くのを確認した弥王は、ベッドへ視線を向け、ゆっくりと瞼を開けて眩しそうに目を細めたヴァイアーへと言葉を投げかける。
彼はまだ何処か痛むのだろうか、それとも怠いのか。 とにかく、眉間に皺を寄せ、ゆっくりと起き上がった。
「ここは何処だ」
野獣の様な獰猛なアクアマリンの瞳は、その場所が自身の知らぬ場所だと分かると、鋭い眼光を声を掛けた弥王へ向けてくる。
声からは警戒の色が窺えた。
それも当然だと、弥王は一つ息を落として彼の目線に目を合わせるようにしゃがむ。
「落ち着け。
ここは裏警察本部の医務室だ」
それだけを言うと立ち上がり、弥王は紅茶をティーポットからカップへ注ぎ始める。
カチャカチャと控えめに食器が動かされる音だけが静かな部屋に響く。
その光景をヴァイアーは依然と警戒した瞳のまま見つめていた。
「……さっきは悪かったな」
視線は深い赤茶色の液体が入ったカップへ向けたまま、ぽつりと弥王が言葉を零す。
幾らストーカーと言えど、表社会の人間に対して特殊能力を使って攻撃したのだ。
そこはきちんと謝らないといけない所だ。 幾ら弥王でも、そこは理解している。
黙っているヴァイアーに尚、弥王は言葉を続けた。
「これも、女王陛下の命令だ。
だがひとつ、説明してもらおうか」
弥王は切り分けて取り皿に盛りつけたアップルパイを片手にヴァイアーに急接近し、その背後の壁を強く叩く。
鋭い視線を彼に向けても尚、彼の瞳は無感情に弥王を見据えていた。
低く弥王は尋問する。
「お前は、何だ」
短い言葉は、ヴァイアーを責めているようにも聞こえた。
その声は固く強張り、彼を見る目は怒りにも似た色を湛えている。
「呪幻術師ではない、かと言って、幻奏者でもない。
何なんだ、お前のその能力。
それで一般人って……、危なすぎるだろ」
問いかけてくるエメラルドの瞳からは、敵意は感じられない。
ヴァイアーは少しの時間、考えるように自身の手首へ視線を落とした。
能力を使う為に自分で切った手首は綺麗に処置されて、白い包帯が巻かれている。
ややあって、彼は首を横に振った。
「……、解らない」
その言葉を聞いた瞬間、弥王の中でプツリと何かが切れた。
次の瞬間、ヴァイアーの胸ぐらを掴み、彼を乱暴に背後の壁へ押し付ける。
ヴァイアーの背中に鈍い痛みが走った。
弥王は地を這うかのような低い声で彼を怒鳴りつける。
「ふざけんなよ、お前!」
「弥王!」
怒りに任せ、怪我人へ暴力を振るう弥王をロランが制止するが、彼女はそれを聞き入れない。
そればかりか、更に弥王は口を開いて文句を言おうとしたが、それは一つの呆れたような声に遮られた。
「弥王さー……、お前、何そいつ襲おうとしてんだよ? しかも、片手にアップルパイ持って。
そいつの顔面に押し付けるのか?」
医務室に入って、一番にこの光景を見た璃王が弥王を制止するでもなく、問いかける。
彼女の後ろにはグレイとグレアがおり、ヴァイアーが目覚めたタイミングを見計らって二人を連れてきたのだということが分かった。
「オレにそんな趣味はないんだが。
それより陛下、ヤバイですよ。
市警察の株が下がりましたよ。
元々底辺を彷徨っていた市警察の株が底辺を突破しましたよ」
璃王の後ろにグレイの姿を認めた弥王は、無礼は承知で捲し立てる。
ただでさえも、裏社会の問題に首を突っ込んできて場を掻き乱すことのある市警察。
それを鬱陶しいと思いつつも、市民の安全は彼らに委ねられているため、一応の協力の姿勢を取っていた裏警察の面々ではあった……が。
「こんなレッドゾーンヒューマンを何、普通に一般人と判断してんですか!?
明らかにこいつ、裏社会の住民側の人間じゃないですか!」
表社会の人間の中に紛れて生活をする裏社会の人間はいるにはいる……が。
それを管理するのは、市警察の仕事だった。
表社会の人間に紛れ込む裏社会の人間の情報は、市警察を通して裏警察に共有されなければならない筈であったのだ。
それが共有されていなかったという事実。
実際、弥王がヴァイアー捕獲前に目を通した書類にも“表社会の人間である”と記載されていたのだ。
「だってー、ボクも気付かなかったんだもん。
市警察気付いてるくね? って思ってたんだもん。
それにしてはこっちに情報来ないなーとか、それ程危険じゃなかったのかなとか思ったりしてたんだもん」
「そんな、子供が拗ねた時の様な言い訳をしないで下さい!」
眉根を寄せ、子供っぽく白い頬を膨らませて拗ねるグレイに、弥王は強く言い放つ。
女王になって以来、久しぶりに弥王から怒られたグレイはきょとんと目を丸くした。
そんな収拾が付かなくなってしまった医務室だったが、ここで再び、木製の扉が軋む音が小さく響いた。
「何スか、皆して騒いで……、隣のオレの部屋まで騒ぎ声が筒抜けッスよ。
ったっく…今日はオレ非番だから、昨日、徹夜でハッキングして寝てないのに……、ってあれ?」
何とも言えない状況の中、医務室へ顔を出したのは、気だるげに欠伸をしながら眠たい目を擦っているカナメ。
文句を言っていたカナメだったが、弥王によって壁に押し付けられているヴァイアーを見ると、その緑石の瞳を丸くする。
「そいつ……“雷神”じゃねぇっスか」
カナメが放った一言に、ヴァイアー含むその場にいた人物全員が不思議そうな瞳をカナメへ向ける。
璃王に至っては首を傾げてカナメに問いかけた。
「“インドラ”……?
何だ、それは。
こいつ一応、一般人だぞ?」
璃王の問いかけを無視するとカナメはヴァイアーへ近づき、彼の顔を凝視する。
―― ――
―― ――
何なんだ、この状況。
ヴァイアーは息を張り詰めて、目の前の二人の“少年”を見る。
一人は自分の胸ぐらを掴んで、アップルパイ片手に壁ドン。
もう一人は壁に手を突いて、こちらを興味津々に見ながら壁ドンだ。
どちらにしろ、壁ドン。
何なんだ、この状況。 何故、こんな目に遭っているのか、ヴァイアーは本気で困惑した。
まるで、スラム街に放り出されて、気性の荒い浮浪者に絡まれている気分だ。
何なら、そいつらよりもこいつらのが危ない。
それにしても……と、ヴァイアーは胸ぐらを掴んでる方の“少年”を横目に見る。
“彼”の緑玉の瞳は、依然とこちらを睨んでいた。
(やっぱ、彼奴に似てる……)
だが──ヴァイアーは頭を振る。
“神南弥音”がこんなところにいる筈がないのだ。
こんな、乱暴者の巣窟に。
もし、彼女がこんなところにいるなら、それは何かの間違いの筈であり。
しかし、目の前の黒髪の少年は、顔立ちこそ彼女に似ているのだ。
左目尻にある白い四つの雫を十字にくっつけたようなタトゥーも一致している。
ただ、性別と髪の色だけが違うだけで。
思考に耽っていると、自分を凝視してる赤髪の少年が徐に口を開いた。
―― ――
―― ――
「ヴァイアー・ゲーゼ。
一般人でありながら、特異能力である雷を操る能力を持っている。
監視した結果、何かしら音を使っている訳ではない事から、幻奏者ではないと推測。
かと言って、術式を使って詠唱したりしている様子もないどころか、呪力すら確認できない事から、受容体がないと推測され、呪幻術師という訳でもないと判断……」
ヴァイアーから離れ、コツコツと靴音を立ててグレアたちの元へ向かう。
サルエルパンツのポケットに手を突っ込むと、カナメは一つのディスクを取り出した。
「昨日の事っスかね。
あまりにも暇すぎたんでぇ、ちょ~っとイタズラしてやろうと市警察のセキュリティにハッキングを仕掛けやしてぇ」
「ちょ、おま……サラッと何やってんだよ?」
近くの壁に凭れ掛かると、カナメはグレアの咎める声は聞こえなかったことにして彼へディスクを投げる。
突然投げられた円盤を何とか受け取り、グレアはもう一度注意しようとカナメへと近付くが、それはカナメが彼の口を手で物理的に塞ぎ、先ほどのディスクを指さしたことにより断念させられた。
「詳しくはそいつにインプットしてんでぇ。
んでぇ、面白い事実に辿り着いたってわけだ」
カナメは悪戯っ子のようににやりと口角を上げ、緑石の目を細める。
カナメから告げられた次の言葉に、ヴァイアー以外が驚愕する事になるのだった。
「市警察の一部がギルドと繋がっていて、ギルドがそいつを拉致ろうとしている」
カナメから告げられた驚きの事実に、グレアは急ぎ隣の自身の妹へ視線を向けた。
彼女は、真剣な目つきでカナメの話を聞いている。
「まさか……グレイ。
彼の拉致の事を事前に分かっていたから、この依頼を……!?」
彼女は、銀灰色の隻眼を自身の兄へ向け、少しの間だけ、彼を見上げる。
そして、無表情のまま彼女は言った。
「違う。 ボクはただ、単純にヴァイアーを裏警察に引き入れたかっただけだよ。
それに、ボクがハッキングなんて高度な技術、できるとでも思ってんの?」
彼女は鋭い瞳を向けたまま、真剣な声色できっぱりと言い切った。 言い切ってしまった。
開き直った様に言う妹に「あぁ、そうだったな、こいつは」と、一瞬でもグレイに感心した事をグレアは後悔する。
「そうだね、あれは、ミオンたちとバースデー・クリスマスを開いた日の事なんだけど~」
がっくりと肩を落とした自身の兄貴は置き去りに、グレイはマイペースに話し始める。
それは、去年の12月下旬の出来事だった。
―― ――
―― ――
1952年12月24日。
グレイはその日、自身が弥王たちに提案したバースデー・クリスマスのパーティーに参加する為、裏警察の本部へ向かっていた。
「あれぇ? おっかしいな~?
確か、ここを通った筈なんだけど……」
首を捻りながら、グレイは路地裏を歩く。
雪の降り始めた鈍色の空の下、路地裏は表街道とは異なり不気味な雰囲気を醸し出している。
暫くブーツの音を響かせそこを進んでいくと道の端にちらほらと人の姿が見えてきて、その人たちの姿に銀灰色の瞳が曇る。
「しまった……、ここから先って確か、スラム街だ。
けど……、社交期の時期ならまだしも、今は辛いだろうな……。
ここも何とかしたいけど……」
壁に寄りかかって力なく座り込む汚い身なりの男、一枚のボロ布を纏い、二人で身を寄せ合って寒さを凌ぐ小さな子供に、新聞紙に包まり、横たわる老人。
繁栄を極めた輝かしい国の裏側、スラム街は身無しの浮浪者が多数おり、それ以外は誰も寄り付かない為、荒んでいた。
この事実もグラン帝国が頭を抱える問題となっている。
何とかしようにも、今のグレイではできる事も限られているのだ。
彼らを助けるには、発言権の強い貴族派を黙らせなければならない、と硬く決意する。
心の中で謝罪し、踵を返す。
黒いジャケットを翻して元来た道を進んでいくと、彼女の耳に微かな物音が届いた。
グレイは物音のする方へと足を向け、駆ける。
目の前の角を曲がるとそこには、数人の浮浪者とラフな服を着たマリーゴールドの髪の少年が居て、彼は浮浪者の一人に壁に押し付けられていた。
「よぉ、兄ちゃん。
その身形でここに来るたぁ、“襲ってください”って言ってる様なモンじゃねぇか、なぁ?」
彼らと少し距離がある為表情こそ見えないが、浮浪者が彼に良からぬことをしようとしているのは雰囲気で分かった。
少年はラフな格好とはいえ、身なりが綺麗で、どう見ても浮浪者ではない。
流石のグレイも一般市民たる彼を助けるべく、サーベルの柄に手を掛けた。
――が、グレイが地面を蹴る前に、少年は浮浪者の手首を掴むとそれを引き剥がして、浮浪者の横腹に脚を叩き込んだ。
「うっ、ぐ……ってぇなぁ! 何しやがる!」
蹴られた浮浪者が怒鳴り散らすと、他の浮浪者が少年の胸ぐらに掴みかかる。
少年はそれに動じることもなく舌打ちをすると、胸ぐらを掴んでいる浮浪者の手首を握りしめた。
「汚ぇ手で俺に触るな」
――バチバチバチッ!
一瞬の閃光の後、電気が弾けるような音が路地裏に響いて、グレイはその眩しさに思わず目を瞑る。
目を閉じていても激しい閃光が瞼の裏を白く照らし、目が眩むようだった。
暫くして光が収まり、ゆっくり目を開けば、目の前の光景に瞠若する。
少年の周りには倒れ伏した浮浪者。
彼は、未だバチバチと電気がスパークする手を抑えて、浮浪者たちを冷たく見下ろしていた。
「全く……、とんだ無駄足だったな」
白い息と共に不満を零した彼は黒いジャケットの裾を翻し、静かに石畳の地面を踏みしめ、鈍色の景色の向こう、雪の中へ消えていった。
自身の見た光景が夢幻なのか疑うが、頬に落ちる雪の冷たさがそれを否定する。
「凄い……、けど、あの能力……。
調べた後でミオンとリオンに拉致らせるか」
―― ――
―― ――
「――と、言うワケだよ!」
「……、陛下。 色々とツッコミ所が満載なんですが」
「璃王。 それを言っても、陛下には無意味だ」
語り終えた後親指を立て、サムズアップをするグレイに璃王が溜息交じりに声を掛けるも、何かを察した弥王が首を振る。
簡単に言えば、グレイは例の如く道に迷っていたらヴァイアーを偶然発見し、その能力を見て裏警察に引き入れようと考えた、とそう言うことだった。
彼女は、誰もが認める方向音痴である。
その割に従者を付けようとはしない、絶対に一人で行動するので、彼女の従者も手を焼いているのだ。
はぁ、と弥王と璃王が同時に軽く溜息を吐くと、グレイは弥王へ視線を向け、眉根を寄せた。
「それよりさぁ、ミオン。
いつまでその体勢で居るつもり?
ちょ、グレアの顔がマジで怖いから、取り合えずそいつから手を離そうか」
グレイの言葉に、未だにアップルパイ片手にヴァイアーを壁に押し付けていることを思い出し、弥王は彼から手を離す。
漸く解放され、ヴァイアーは息を一つ落とした。
「陛下。
ファブレット公爵の顔は元から仏頂面です」
「それはお前だろ、神南」
「神南……、それにさっき、“ミオン”って……。
やっぱりお前、神南弥音!?」
グレイとグレアの言葉を拾ったヴァイアーはアクアマリンの瞳を零れ落ちんばかりに見開いて、驚愕した声を零す。
目の前の“少年”と自分の知る“少女”の外見が一致せず、ヴァイアーは困惑した表情を顔に走らせた。
彼はどう見ても男だ。 髪の色だって違う。
吃驚仰天するヴァイアーに耐えられなかったのか、弥王は突然肩を震わせた。
「あはははっ!
くっふっ……はははっ!!
あー……、やっと気付いたかよ……っ、クク……ッ!
やぁ、ゲーゼセンパイ。
一昨日振りくらい? ですかねぇ」
突然爆笑した弥王はシャツのボタンを二つ開け、空いている方の手で指を鳴らす。
パチン、と乾いた音の後、弥王の髪は紫に透ける黒髪から、美しく波打つブルーマロウの髪へ、そして、胸部が膨らみ、豊満な体型へと姿を変えた。
上げた顔は正に、神南弥音その人だった。
「な……っ、何で、神南が……、えぇ……!?」
衝撃が抜けきらず、パクパクと口を動かす割に、思ったような言葉が声として出てこない。
言いたいことはたくさんある筈なのに。
しかし、彼女はヴァイアーの気持ちなど知らず、笑いすぎて目尻に滲んだ涙を指先で拭う。
アップルパイはとりあえず、ベッドサイドのテーブルに置いておく。
「それにしても薄情だなぁ。
あれだけ、学校じゃあエンカウントする度にくっ付いてきてたのに、たった二~三日会わないだけでもう愛しの“弥音”の事は忘れた訳か?」
挑発的に緑玉の目を細め、ヴァイアーの輪郭をなぞるように人差し指で撫でる。
にぃっと上げられた薄紅の唇が妖艶に微笑みかけてきて、その艶のある表情に彼の心臓が胸を叩く。
熱が顔に集まって、顔が熱い気がした。
「……神南から離れろ」
暫く見つめ合っていたヴァイアーと弥王だったが、その光景を面白く感じなかったグレアが彼女の肩を抱いて引き寄せ、ヴァイアーから弥王を引き離す。
突然のグレアの行動に瞠若しつつも、ヴァイアーは負けじと弥王の腕を引き寄せた。
彼女の身体はヴァイアーの腕の中に納まる。
「お前こそ、神南から離れろよ。
女誑しで有名なファブレット公爵サン?
そんな手で神南に触んな」
挑発するようにグレアの瑠璃色の瞳を睨み上げる。
ヴァイアーもグレアもお互いに睨み合い、それに挟まれた弥王は目の前でこの状況を興味深げに見ている璃王へ視線を移す。
緑玉の瞳は困惑していた。
「なぁ、何、この状況。
オレの身長が縮みそうなのだが……」
「貴族と貴族令息の死宣告者争奪戦。
まぁ、良いじゃねぇか。 弥王なら多少縮んでも問題ねぇよ」
助けを求めたつもりの弥王だったが、璃王からはあしらわれてしまう。
彼女はこの状況を少女漫画でも読んでいるつもりなのだろうか。
完全に娯楽漫画の読者の立ち位置である。
「あぁ、もう! 鬱陶しい、ウゼェ!
とりあえず離れろ、この変態共!」
見捨てられた弥王はもうやけくそだ。
彼女はまず、自分を腕の中に閉じ込めているヴァイアーの顎を下から拳を突き上げアッパーを食らわせると、腰に下げていたホルスターから銃を取り出し、それをヴァイアーへ向ける。
彼は自身が眠っていたベッドへ背中から倒れ込んでふかふかのシーツに背中が沈み込むが、それと同時に頭だけは守る物がなく、ベッドサイドの壁に後頭部を打ち付ける。
打った後頭部には鈍い痛みが走り、彼の口から「痛ぇッ!」と呻き声が零れた。
「鬱陶しい、ウゼぇ! 全く話が進まないだろうが!
っつーか何で公爵も年下に乗せられてんだよ?」
余程現状に腹が据えかねたのか、将又八つ当たりもあるのか。
何にしろ、弥王は眼光鋭く自身の上司であるはずのグレアを睥睨する。
その殺気立った瞳にグレアは一瞬、ヒュッと小さく喉を鳴らして肩を強張らせた。
元々、弥王は良く笑い、時におどけて見せて周りを自分のペースに巻き込んでいくタイプの人間である。
余程の事がない限りは怒ることもないのだ。
そんな彼女が殺気立った瞳で自分を睨んできた。 それは、彼女をこれ以上怒らせてはいけないという事なのだろう、とグレアはとりあえず黙ることにした。
普段穏やかな人を怒らせてはいけないのは、どの世界も同じなのである。
「ウェストスター校では春休み、夏休み、冬休み以外での外出は禁止されている筈だ。
今はまだ、長期休校の時期じゃないだろ。
と、言うことは、だ。
ゲーゼセンパイは校則に反して外出していると言う事だ」
不敵さを孕んだ緑玉の瞳が起き上がったヴァイアーの姿を捕らえ、口元に妖しげな笑みを作る。
その不穏な微笑みにすら、それを浮かべているのが“弥音”だと知ったヴァイアーはそれを拒めない。
まるで、蜘蛛の巣に絡め取られた蝶のよう。 彼は、弥王から目が離せなかった。
「何か理由があって抜け出しているんだろ?
センパイを裏警察に入れるなら、オレの管轄下でもいいし――」
「冗談じゃない!」
我に返ったヴァイアーは仕方なさげな弥王の言葉を強い口調で遮る。
「俺はやらないといけないことがあるんだ!
それに、俺はお前らとは無関係で――」
「神南!」
「ミオン!?」
ヴァイアーの続いた言葉に弥王が無言で彼の胸ぐらを掴み上げ、壁に押し付ける様子を見たグレアとグレイが同時に咎める声を上げた。
それを無視して、彼女は低い声で呟きを零す。
「……、いつまでも……」
怒りを孕んだ緑玉の瞳がヴァイアーのアクアマリンの瞳を鋭く睨みつける。
「いつまでも、何も知らない学生でいられると思うな!」
低い怒声が医務室に響き渡る。
その声は、切実なる弥王の叫びの様だった。
生まれた時から裏社会を意識して生きていた弥王にとって、突然表社会から裏社会へ身を投じろと言われたヴァイアーの気持ちを推し量ることはできない。
しかし、そんな彼女でも彼の力を目の当たりにしたことで一つだけ、確かに言える事があった。
「呪幻術師でもない、幻奏者でもない。
そんな物とは無縁で表の世界で生きていて! だが、表社会の人間が持ち得ない能力を持っている!
それが表社会の人間にとってどれだけの脅威か、お前は解っているのか!?
それだけじゃない。 オレの死の歌声を浴びても軽く気絶しているだけだった!
手加減したと言っても普通なら、適切な処置をしても一日で起き上がれて話せているのもおかしい!
それで生きてるって事はお前は、裏社会の人間……、裏社会の人間なんだよ!」
裏社会の人間――裏社会の人間は、普通の人間よりも身体能力が高く、そして、身体の造りが頑丈であり、少しの事故程度――襲歩の馬に蹴られた程度――では、身体が断裂しておらず尚且つ呪幻術で治療ができれば、二日程度で回復するほど、身体機能も高いのである。
ヴァイアーは猫呪を解放した璃王から逃げ切り、呪幻術師でも持ち得ない特異能力を持ち、そして、弥王のO.C.波で怪我をしても、ロランの治療があったとしても数時間後には回復して歩き回り、言葉も話せる。
その状況は、表社会の人間であれば不可能な事であった。
「そんな人間が表社会で表社会の人間として生きているなんて、それは一般人にとっての脅威だ!
オレ達裏警察はこの国の表社会の人間を脅かすモノを排除する事を女王陛下から許可されている。
場合によっては、例え知人だろうと容赦はない!」
一気に捲し立てると、弥王はヴァイアーを解放して、ふらりとふらつく足取りで近くの椅子に座る。
はぁ……と一つ、重い吐息が漏れ出た。
そして、次の瞬間にはヴァイアーへ鋭い視線を向けた。
「センパイが選べるのは二つに一つ。
大人しく裏警察に入るか、今、ここでオレに殺されるか。
命令違反なんて関係ない。
一人の命と多くの命、どちらが大切かなんて言うまでもない。 特にそれが、表社会の人間と裏社会の人間なら尚更だ」
物心ついている時から裏社会の人間として育てられた弥王にとって、裏社会の人間がどれだけ表社会の人間にとって危険な存在であるのか、常に意識してきた。
自分たちと違ってO.C.波が使えなければ、呪幻術も使えない。
裏社会の人間が使えるような強い薬だって、表社会の人間に使ってしまえば毒になることもあるのだ、とイリア王国にいた時の王宮医にも教えられた。
そんな弥王だから、裏社会の人間は表社会の人間に危害を加えないことは大前提の当然の事であり、彼らを守るのは使命であるとすら思っているのだ。
「それに、センパイには何か目的がある様に見える。
それも、あの学校を抜け出してでもやらないといけない事みたいだ。
……、そうだな。
センパイが裏警察に入るなら、それを依頼としてオレが引き受けよう。 オレが責任を持つ。
ファブレット公爵も陛下も何も言えないだろう」
弥王がグレアとグレイ、自身の上司二人へ視線を向けると、彼らはその強い意志を孕んだエメラルドの瞳に応えるように頷く。
グレアもグレイも、現状彼と交渉できるのは弥王だけだと思ったのか、何も言わないことにしている様子だ。
それとも、弥王を信頼しているのか。
彼らからの許可が下りた弥王は、ゆっくりと椅子から腰を上げ、ブルーマロウの髪を揺らしながら床を踏みしめ、ヴァイアーへ近づく。
コツコツ、と靴が木材の床を叩く音が響いて、それは彼の座り込んでいるベッドの前で止まる。
「許可は降りた。
あとはお前次第だ。
センパイは……何がしたい?」
ベッドの端に腰かけ、未だに呆気に取られて茫然と自身を見つめるヴァイアーに弥王は問いかける。
白い指が彼の顎を掬い、深く鮮やかなエメラルドの瞳が細められた。
真っ直ぐ見つめてくる瞳の奥には、ただ真っ直ぐな想いだけが見える様で。
その瞳に気が付けばヴァイアーは口を開いていた。
「俺は……妹を探している。 10歳下の妹だ。
俺の父親は子爵家の嫡男だった。
ウィリアム・ジェインブルク――それが、父親の名前だ。
父親は祖父の反対を押し切って平民であった母と駆け落ちしたんだ。
それで生まれたのが、俺と10歳下の妹だった。
俺は、年の離れた妹が可愛くて可愛くて。
母さんとよく似た深い青色の目で可愛く笑うんだ」
妹のことを話すヴァイアーの瞳は、優しい色を湛えていた。
しかし、その柔和な瞳は次第に悲壮感を漂わせ、彼の胸を暗澹たる思いが締め付けていく。
その表情に、彼が決して幸せだけでない人生を送っているのだと嫌でも理解させられる。
「でも……、放火されたんだ……家が。
俺はちょうど学校に居て、火事を知ったのは夜中だった。
焼け残った家から見つかったのは、両親の焼死体だけ。
妹の遺体だけは見付からなかった」
いつしか、大空を抱いたアクアマリンの瞳には玻璃色の膜が張り、彼はそれを堪えるように息を深く吸う。
医務室特有の消毒液の匂いが鼻腔を通り抜け、深く息を吐く。
「妹は生きている。 絶対に……。
何年掛かっても良い。 唯一の家族なんだ」
話を聞いた弥王は、彼の膝の上で強く握り締められた拳にそっと手を重ねる。
それは、唯一の温かだった家族を失った彼への同情だったのか、それとも、その喪失感を自分に重ねてしまったのか。
それは自分でも分からないが、彼女はただ、泣き出しそうな蒼穹の瞳を見つめる。
「オレには……姉と兄が居た。
だけど、二人はオレとリオンを逃がす為、マフィアと戦って……、死んだのかどうかも分からない。
両親も行方不明で……」
「神南……」
弥王の脳裏には、今でも姉と兄が大人の男たちに立ち向かっていった光景が焼き付いている。
その光景は決して彼女の記憶から薄れることはないのだ。
両親たちもまた、何処で何をしているのか分からない。
ただひとつ分かるのは、たとえ家族が死んでいても、それは弥王が進むことを辞める理由にはならないのだ。
ベッドの傍に置かれたテーブルの上のアップルパイを取り上げた弥王は、それをヴァイアーの目の前に突きつける。
目の前には冷え切ってしまったアップルパイ。 しかし、ほんのりとシナモンの匂いが鼻腔を掠め、食欲を刺激してくる。
彼の目は、弥王とアップルパイを交互に映す。
「裏警察には一流の情報屋と死宣告者の集まりだ。
国内で行方不明になった少女一人くらい、見つけられる」
彼女の自信に満ちたエメラルドは、真っ直ぐとヴァイアーに向けられていた。
「オレも協力する。
だから今は、裏警察に入って自分の身の安全の確保と、市民の安全の確保を頼みたい」
真摯に伝えられた言葉は、何の抵抗もなくヴァイアーの胸にスッと入り込むように届く。
柔和に細められた瞳は、学校で見かけていた“弥音”と同じ、強気でも優しさを孕んだ――ヴァイアーが恋に落ちた女の子のモノだった。
その優しい言葉が、瞳が、たとえ自分を想った言葉でなくとも、自分が今まで誰かに掛けてほしかったと望んだ言葉を紡いでくれたから。
ヴァイアーは迷いなく小さく頷いた。
「これからは仲間としてよろしくな、ヴァイアー」
頷いたヴァイアーへ満足げな視線を向ける。
彼の手にアップルパイを手渡した後、ベッドから立ち上がった弥王はグレアとグレイの元へ歩み寄る。
「──と、言うことで、ヴァイアーの勧誘に成功した」
涼しげな表情で任務完了の報告をする弥王へ、グレアとグレイはその交渉能力に感服しながらも頷く。
流石、人間嫌いで定評のある璃王を虜にしているだけあって、彼女のカリスマ性に舌を巻く。
「あぁ……そのようだな。 よくやった」
弥王へと微笑みかけた後、グレアはヴァイアーへと歩み寄る。
床をコツコツと音を響かせ歩み寄ってくるグレアへヴァイアーは身構えるように警戒心を剥き出しに手負いの獣のような鋭い視線を向けた。
「そう身構えるなよ。 さっきは悪かったな。
お前は神南の部下と言う形で入隊を許可する。
まぁ、よろしくな」
敵意剥き出しの瞳を気にすることなく、深い海を抱いた瞳を柔和に細めて手を差し出す。
微笑むグレアへ訝しむような瞳を向けるヴァイアーだったが、状況を見るに彼が裏警察のボスだというのなら、ここで彼の手を撥ね退けても意味はない、と割り切って差し出された白い手を取る。
「あぁ、よろし……くっ!?」
ヴァイアーがグレアの手を握った瞬間、彼の手はグレアの手によって握り締められ、骨が軋む。
その痛みにヴァイアーは思わず言葉を跳ね上げた。
ギリギリと全握力を込めて握られた手は自由を失い、彼の手を解くことは叶わない。
逃げられないヴァイアーへとグレアは彼にしか聞こえないよう、小さく低い声で囁いてきた。
「……、神南に手を出したら、ティムズ川にコンクリ詰めにして沈めるからな」
その声は、冗談などではないと言いたげな声だった。
自分へと敵意を向けてきたことから、ヴァイアーはグレアもまた、弥王を狙っている人間だと悟ってしまう。
それを悟ったヴァイアーの行動は早かった。
握り締められた右手にどうにか力を入れてそこに意識を集中させると、静電気程度の電流をグレアへ送り込む。
バチッと電気が弾けて、電流が流れる軽い痛みにグレアは端正な眉を顰めた。
「それはこっちの台詞だ、女誑し」
不穏な空気感と共にヴァイアーは裏警察への入隊を歓迎されたのだった。
そして、今までの一部始終を見ていた璃王とグレイから揶揄われたのは言うまでもないだろう。




